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世界最強だった男 マイク・タイソンを葬った男 #3

林壮一ノンフィクションライター
1997年7月12日、戦意の無い挑戦者アキワンデに失格勝ちしたルイス(写真:ロイター/アフロ)

 ヘビー級が冬の時代を迎えて久しい。最重量級最後のスター王者と言えば、レノックス・ルイスであろう。その足跡を追う。第3回。

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 私がルイスの試合を初めて生で見たのは1997年7月のことである。彼はタイソンがイベンダー・ホリフィールドの耳を噛みちぎった一戦の2週間後に、奪還したばかりのWBCタイトル防衛戦として、ヘンリー・アキワンデと戦った。

 全世界から注目された世界ヘビー級タイトルマッチの場で、ホリフィールドの耳を噛みちぎり、その一部をキャンパスに吐き捨てたタイソンは、獣そのものだった。

 まだボクシング界全体が「耳噛み事件」の余韻を引き摺っていたうえ、ルイスとアキワンデのWBCタイトルマッチはたった1500人しか収容できない会場で行われた。キャパシティ1500とは、2週間前のファイトの10分の1にも満たない規模である。それはまるで、世界ヘビー級チャンピオンでありながら、タイソン、ホリフィールドほど知名度が無く、脇役にしかなれないルイスの立場を語りかけてくるかのようだった。

 この5ヵ月前、ルイスはオリバー・マコールを下し、自身2度目のWBCタイトル保持者となっていた。が、コカイン中毒に悩まされるマコールが戦意を喪失してリング上で泣き出し、失格勝ちによって得た復権だった。

 マコール戦に続き、ルイスとアキワンデの試合もお粗末極まりなかった。挑戦者はルイスの強打を恐れ、ほとんどパンチを出さずにクリンチを繰り返した。相次ぐレフェリーの注意にも耳を貸さず、ルイスは再び失格勝ちで王座を防衛する。アリーナでは終始ブーイングが止まなかった。

 アキワンデに醜態を見せられ続けた私は、憤懣やるかたない思いでいっぱいだった。ところが、試合後のルイスによって怒りが半減する。耳噛み事件とは違った種の衝撃を受けたのだ。記者会見におけるルイスの口ぶりは、実に聡明であった。

 ルイスは、「タイソン、マコール、今日の相手アキワンデと、ドン・キングがプロモートする選手は失格負けが好きなようだな」と皮肉ってから、

 「次戦はWBAチャンプのイベンダー・ホリフィールド戦を希望する。IBFヘビー級のベルトはマイケル・モーラーが巻いているが、あんな選手は単なる“絵”に過ぎない。ここにお集りの皆さんがご存知のように、ホリフィールドと自分の試合こそ、最強のヘビー級を決めるに相応しい。ベビー級タイトルマッチで1度ならず3度も失格によって勝敗が付くことは、ボクシングビジネスを衰退させてしまうことに繋がる。そうならないためにも、ホリフィールドとの統一戦を早急に実現させたい」と語った。

 ひとつひとつの言葉の選び方に教養を感じさせ、ボキャブラリーの豊富さもタイソン、ホリフィールドとは一線を画していた。ルイスはチェスが趣味だとのことであったが、なるほど、と思わせた。

 「こんな世界王者もいるのか」

 記者席後方に座っていた私は、ペンを走らせながら、ルイスを凝視した。そして、このインテリ王者と言葉を交わしてみようと、次のキャンプを訪ねることにした。

 群青の水面に、真夏の太陽がキラキラとカクテル光線のように映る。避暑地であるカリフォルニア州ビッグベアレイクに、あまり人気(ひとけ)はなかった。

 LAX国際空港から北東に3時間ほどハイウェイを飛ばすと、人里離れた山間部に美しい湖が広がる。その名の通り、熊が出没するらしく、注意を促す立札や交通標識が目に留まった。標高2500メートルと空気の薄い同地は、多くのボクサーにキャンプ地として好まれていた。

 アキワンデ戦から50日しか経過していなかったが、ルイスは早くも次の防衛戦に向けてスタートを切っていた。ホリフィールドが次戦の相手にIBFチャンピオンのマイケル・モーラーを選んだことから、ルイスはWBC2位にランクされるアンドリュー・ゴロタとの防衛戦にサインし、10月4日にニュージャージー州アトランティックシティでの開催が決定した。

 ポーランド出身のゴロタは、近年稀に見る実力派のホワイトヘビーとして注目される選手だった。このチャレンジャーは、前年に元統一ヘビー級王者であるリディック・ボウとノンタイトル戦を2度戦い、試合を優位に運びながらも共にローブローによる失格負けを喰らっている。ヘビー級のビッグマッチで、失格者が出る口火を切った男ともいえた。

 ゴロタとの2戦後、ボウはパンチドランカーとなり引退に追い込まれた。ボウはルイスがソウル五輪の決勝で下した相手である。また、もしゴロタが王座に就けば、14年ぶりの白い肌をしたヘビー級王者誕生となるのだった。様々な要素から、ゴロタはルイスにとって、倒し甲斐のある挑戦者であった。

 ビッグベアレイクでスパーリングを重ねるルイスは好調だった。パートナーのパンチを完全に見切り、トリプルのジャブ、フックからボディのコンビネーションを繰り返した。フェイントをかけては相手の懐に潜り、左右のショートパンチを浴びせる。緩急の付け方が巧みで、ほとんど空振りをしなかった。時に自らロープを背負い、パートナーを誘い込んだ。そして、相手のすべてのパンチをカバーリング、ブロッキングで躱してみせた。

 パートナーを交代させても同じだった。攻守ともにまるで無駄が無く、トレーナーのエマニュエル・スチュワードがスパーリング終了を告げようとすると「ワンモア」「ワンモア」と延長し、合計7ラウンドを消化した。

 身長196センチ、体重112キロの恵まれた肉体に加え、惚れ惚れするようなテクニック。何故、ルイスがヘビー級の脇役に甘んじているのか、理解に苦しむほど充実した内容のスパーリングだった。

 練習後にインタビューを申し込むと、ルイスは宿泊するコテージに私を招いた。このキャンプには3名の男性スタッフが同行しており、甲斐甲斐しくチャンピオンの世話を焼いていた。「彼に何か冷たい物でも」と王者が口にすると、すぐさまジャマイカ人の世話係がスポーツドリンクをグラスに注いで、私の前に差し出した。世話係の3名は、ジャマイカ人、カナダ人、英国人と、それぞれ国籍が違った。その3国はすべてルイスに関連のある国であった。

――コンディション、いいですね。今日のスパーでは左の使い方が良かったと思います。ですが、右をあまり打たなかったのはどうしてですか?

 訊ねるとルイスは、インタビュアーから目を逸らさずに快活に応じた。

 「今、ちょっと右の拳を痛めているから、左だけのスパーを試してみたんだ。痛めているといっても、試合に影響はないよ。このところ2試合連続で失格勝ちだから、次は内容も問われるだろう。ゴロタが反則を犯す前に眠らせてやるつもりさ。ノックアウトする自信はある。もちろん、右も使ってね」

 アキワンデ戦についても質問した。

 「世界ヘビー級タイトルマッチだぜ。泣き出したり、噛み付いたり、抱き付いたり……。こんな状態が続いたら、ファンが離れて行ってしまう。そう思わないか? 我々は何を期待されているのか、しっかり頭に入れてリングに上がらないと。

 俺自身も責任を感じて、今、非常に飢えた状態にある。ゴロタ戦も全力を尽くすけれど、これぞヘビー級という最高レベルの試合をやりたい。その相手はホリフィールドしか考えられない」

ハキハキとルイスは話した。

――噛みつき行為でボクサーライセンスを剥奪されたタイソンについては、どう感じていますか?

 「きちんとリングに復帰でき、本人が俺との対戦を望むのであればチャンスを与えてもいい。ヤツはもう終わった選手。Yesterday(過去の人)だからな」(つづく)

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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