Yahoo!ニュース

涙の意味を知る(1)

林壮一ノンフィクションライター
夕暮れ時の公園で子供たちの笑顔が眩しかった

15歳の少女は激しく泣いていた。130平米ほどの駐車場に、嗚咽が響き渡る。その様子に、吉良龍人は戸惑い、困惑し、敢えて言えば感動していた。

節分の日、中央大学サッカー部3年の吉良は、ひとりの同僚、そして監督と共に、ある介護施設を訪問した。サッカーがやりたくても出来ない児童たちを励ますことが目的だった。

15時半から18時まで、吉良たちは小中学生を相手にボールを蹴った。ある時は柔らかく、ある時はテクニックを披露しながら、10数名の児童に喜んでもらえるよう、ボールを操った。

施設近くの公園で遊んだ折、サッカーの魅力に取り憑かれた小学生時代のことを思い出した。半ズボンを穿いていた頃、自分もこうして土の上で泥だらけになりながら日が沈むまでボールを追いかけた。土の香りと夕焼けとボールが、吉良を童心に戻した。

その後、施設内でコーンを立て、児童たちのシュートを受けた。なかでも15歳の少女はパワーがあり、施設内の蛍光灯を割ってしまうのではないかと思わせるシュートを放った。吉良たちは、そんな彼女を褒め、気持ちよくシュート打たせ続けた。

ほどなく、彼女の帰宅時間となった。すると彼女は泣き始め、それが次第に慟哭と呼べるほどになる。

「帰りたくない」。

「もっと一緒にいたい」。

彼女はそう言いながら、大声で泣いた。

吉良は15歳を車まで見送りながら、「この子は、楽しいひと時がもう一生来ないと思ってしまったのではないか」と感じた。世の中には何かをやりたくてもやれない、ましてや、その楽しさを知りもしないという人がたくさんいることを把捉し、寂しい気持ちになった。

--涙--

少女の涙を目に留めてから数時間後、自分が流した涙にまつわる過去が吉良の頭に蘇った。2013年10月27日、彼はインディペンデンスリーグ6位ブロック 第3節のゲーム後、もう、これ以上涙は出ない、というほど泣きじゃくっていた。

吉良は中央大学に指定校推薦で入学している。関東リーグ1部で90年もの歴史があり、何人ものJリーガーを輩出している中大。高校時代に練習に参加した際には、圧倒的な力の差でねじ伏せられた。「こんな先輩達といつか肩を並べ、そして追い越してみせる!」と希望に燃え、門を潜る。

ところが、大学1年の冬に腰を疲労骨折してしまう。当初は全治8ヶ月と診断されたが、復帰して5日目に同じ個所を再び骨折し、合計1年半をリハビリに費さねばならなかった。

医師は「復帰は難しい」と言った。痛みが酷く、歩くこともままならない時期が3か月続いた。もう、自分はピッチに立てないのかと思うと、ボールを見るだけで気が狂いそうになった。

そんな時、支えてくれたのがチームメイトであった。憂鬱そうな顔をしている吉良に「もう一度、お前のプレーが見たい」「俺は、お前と一緒に関東リーグに出たいんだよ」と温かい言葉を投げかけてくれた。

吉良は思った「このままサッカー人生が終わったら一生後悔する」「この仲間と共に、関東リーグのピッチに立ちたい」「復帰できるかどうかわからないけれど、とことんリハビリをやってみよう。レギュラーになれなかった悔しさ、サッカーを愛する思い、全てをこのリハビリにぶつけよう」 

16年間本気でやってきたサッカーを諦め切れない自分に気付いたのだ。医師には「もう腰の骨がくっつくことはない」と説明されていたため、見えないコルセットを巻くイメージで下半身と体幹部の強化に重点を置き、毎日6時間のリハビリを己に課した。少しでも妥協したらやり直し。「限界だ」と感じたところから更に1セットこなした。

吉良がこなしたメニューは、言葉で簡単に述べられるようなものではない。1年半のリハビリ中、仲間や後輩が活躍する様に一喜一憂することなく、吉良は黙々と己のゴールに向かって進んだのだ。「自分に負けてしまったら、すべてが瓦解する。俺のサッカーへの気持ちは、そんなヤワなもんじゃない」。

つづく

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

林壮一の最近の記事