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相模原事件を素材にした映画『月』に現実の障害者が出演していることの意味

篠田博之月刊『創』編集長
映画『月』(C:2023『月』製作委員会)

 テーマがあまりに重たいので興行的にどうなのかといささか心配だった映画『月』だが、新聞などの映画評はほとんど高評価だし、初日満足度ランキングで2位になるなど話題にはなっているので少しホッとした。

 私はもうヤフーニュースでも書いているように、かなり早い段階でプロデューサーからこの企画について相談を受けたし、いろいろ協力もしてきた。相模原障害者殺傷事件は、とても重い問題をこの社会につきつけたのだが、裁判でも真相が十分解明されず、風化の一途をたどっている。そんな状況において、映画が再びこの事件について議論をするひとつのきっかけになってほしいというのが、私が製作に協力してきた理由だ(そうした経緯については下記記事を参照)。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f44819eeb0d587be8e80405f09192cce415b4f2e

間もなく7・26というタイミングで発表された相模原障害者殺傷事件を素材にした宮沢りえ主演映画『月』

 マスコミ試写が行われた時期、知り合いの障害者支援を続けてきた人たちに声をかけて、現場を知っている人たちがこの映画をどう見るかにも関心を払ってきた。大まかにいえば、障害者問題に関わってきた人たちの間では賛否両論だ。「否」の側の意見は、この映画では施設職員の葛藤も描かれていないし、大規模施設の負の面をややステレオタイプに描いているのではないか、ということだろうか。

映画に実際の障害者が出演していることの持つ意味

 この見方について少し考えてみたいと思うが、その前に、とても大事な問題に触れておきたい。この映画『月』に実際の障害者が出演しているということの持つ意味だ。例えば、この映画を観た誰もが「え?」と思うのが、植松聖死刑囚をモデルにしたと思われる「さとくん」に、聴覚障害の恋人がいたという設定だ。これには私も初号試写の時から驚いた。植松死刑囚には60回以上接見もしてきたが、この設定は想像を超えるものだ。彼の障害者観があの事件へ向かって変化していったことは既に指摘されているが、彼のもっと身近に障害者がいたらどうだったのだろうか、というのは興味深い想定だ。

 しかも私は後で知ったのだが、その聴覚障害の恋人役を演じた俳優は、実際の聴覚障害者、しかも異例のヒットとなった『ケイコ 目を澄ませて』にも出演している女性だった。この映画の原案は、私が企画・編集した小笠原恵子さんのドキュメント『負けないで!』で、それをもとにしたこの映画にもかなり関わってきたから、それと『月』のこの符合には驚いた。

映画『月』公開記念舞台挨拶(筆者撮影)
映画『月』公開記念舞台挨拶(筆者撮影)

 そしてそれ以上に興味深かったのが、『月』の障害者施設に登場する知的障害者に、実際に障害を抱えた人たちが出演していたという話だ。

 これについては、石井裕也監督自身が、初日舞台あいさつでこう語っている。

《今回この映画を撮るにあたって、できる限りの取材をして重度障害者の方々にもお会いし接して、僕なりにコミュニケーションをとったんです。僕はそこで、生きていることの不思議さとかおもしろさとか、素晴らしさというものを強烈に感じたんですね。そういう存在というのは多分、俳優の芝居では表現できないんじゃないか、そこにカメラを向けるというか、そこを見つめるということが、すごく重要だと思ったんです。それなくしてこの映画は成立しなかったんじゃないかと思っています。》

 障害者については俳優の芝居では表現できないんじゃないか、という考え方については意見が分かれるところだろう。

映画に出演した障害者の施設長の報告

 私がいささか驚きもしたし、とても興味深く読んだのは、映画に出演した障害者の方々を支援してきた「一般社団法人大地 AGALA」の上野山盛大施設長の「障がい者の『仕事』について」という報告だ。ぜひ全文をご覧いただきたいと思うが、ここでは核心部分を引用しよう。

 まず和歌山にあるその施設がどういうものかという説明だ。

〈障がい者施設にもいくつか種類があり、大きくは、映画『月』で描かれているような入所型の施設と、私たちのような通所型の施設に分けられます。私が代表を務める《地域交流古民家カフェAGALA~あがら~》は、2017年に和歌山県有田市で立ち上げた事業所で、重い障がいの方も、軽度の方も体調に合わせて働きに来る障がい者就労継続支援B型の施設です。〉

 どんな活動をどういう理念で行っているかという説明の後、今回の障害者の映画出演についてこんなふうに書いている。

〈映画への出演について

 そのように、地域との交流が図れてきたタイミングで映画のオファーを頂きました。

 当初、障がい者を出演させることの是非については正直、悩みました。ただ、前述の通り「障がいを持っているからできない」という考えはこの地域からはなくなったと感じていたときでもあり、出演するか否かを他人が決める話でもないと思ったんですよね。自己決定が大事だと考え、利用者の皆さんに映画の内容を説明して、出演するかどうかの意向を確認することにしました。その上で、出る意思を示した人には、保護者に自分の口で説明するように促しました。私から説明するのではなく、自分で決めてきた仕事という感覚を大切にさせたかったのです。その後、私の方でも保護者の方々にも確認をしました。

 この映画は、目を背けたくなる題材だけれども、起こりえてしまう事件が描かれていると思います。施設の実態や環境が悪いという背景はあるものの、前提として大昔から根付く「障がい者を隠す」という考えが大きかったのではないか、とも感じます。その価値観は、少しずつ是正されながらいまの時代になってきていますが、その変化に追いつけていない施設や家族はあると思っています。その乗り越えていくべき課題に向き合う監督・キャストの覚悟を受けて、最終的には私自身も参加の決意を固めました。目を背けたらいけないということに共感をしました。

 そして、もうひとつ、障がい者の方々とキャスト・スタッフの皆さんとの化学反応を見たかった気持ちもありました。いままで障がい者の方々が地域の方々と関わることへの支援もしてきて、彼らが、映画の撮影現場ではどういう態度になり、変化するのかを見てみたかったです。他者との接し方に関して、性格を変えるのは難しいけど態度をかえる事はできると、私たちの支援は間違っていなかったかを確かめたかったのです。〉

実際に出演した障害者の反応は

 その結果、障害者の人たちがどんな反応を見せたのかを、施設長はこう語る。

〈映画の撮影を通して

 劇中で「ロレレ ロレレ」という台詞を発する利用者の役を演じた田又一志さんは、精神障がいを抱えています。自分に自信を持ちにくく、普段から休みがちで仕事に来ないことも多かった方でしたが、自分を変えるために出演したいと、自ら参加の意思を表明されたんです。しかし、彼には朝昼晩と飲まなくてはいけない薬があり、撮影の進行具合によってはコンディションもどうなるか分からない上に、撮影自体に来ない可能性もありました。ただ、「絶対に来いよ」と強制をするのではなく、託す形で見守り、最後まで田又さん自身の力でこの仕事を成し遂げたんです。撮影チームの理解も大きかったです。それが本当に良い経験で、映画の撮影から1年程経ちますが、驚くことに、それ以来、彼は仕事をほとんど休まないようになりました。その上、臨機応変な対応もできるようになってきていて、田又さんは確実に変わったと言えます。この環境を乗り越えたからこそ、自分に自信がついたんだと思います。これだけでも、映画に参加した意義があります。

 また、さとくんが絵本の読み聞かせをしているシーンなどに出演している川端里奈さんにも変化がありました。知的と身体の重複障がいを抱え、以前は寝坊などで休むことが多かったのですが、彼女も撮影以来、一度も休まずに来ているんです。以前は迎えに行っても家の奥の寝床にいたままだったのですが、いまでは玄関で待っているほどになりました。川端さんは、二階堂さんの力が大きいかもしれません。お昼を一緒に食べた時間も楽しかったそうで、最近でもテレビに二階堂さんが出ていると「二階堂さん、がんばっていたわ」と上から言ってきますよ。

 そして、田又さん、川端さん以外にも参加した人はもれなく意識に変化が訪れています。

 元々、色んなことにチャレンジをしてほしいので、いつも同じことをするのは「作業」で、いつもと違うことをするのが「仕事」だと伝えてきているのですが、役を演じることは、彼らにとって確実に「仕事」であり、大きなスイッチになったと思います。

 さらに、その変化は、映画に参加していない人たちにも伝播していきました。具体的には、利用者の役を演じた田中竣さんも撮影後、自立に向けて親元を離れグループホームに入ったのですが、触発されて自立の意思を表明する人が増えてきました。映画の参加者たちが種を蒔き、周囲に良い影響を与え、「仕事」をする人が増えてきたんですよね。

 撮影以降は、毎日つける出勤簿の一言欄は「一日一善」に変更しました。一日一善という言葉を軸に、「作業」に捉われない新しい「仕事」を見つけましょうと話しています。〉

 これはとても興味深い話だ。そしてこの映画でも交わされた「重度障害者に心はあるのか」という問いについてもこう語っている。

「心はあると言い切れます」

〈重度障がい者施設について

私は20年ほど昔、13年間、通所型の重度障がい者施設で働いていました。この映画で描かれている環境に近い施設だったと思います。(中略)

 意思の疎通の取り方は人それぞれであって、できるだけ理解していこうという気持ちが大切なんだと思います。普段は指先の動き、瞬き、口の開閉などを見て判断しますが、目に見えにくい部分に関してはパルスオキシメーターをつけて反応を見たりもしました。呼吸ができているかの確認が目的ではあったものの、通常時の数値との変化が出た時には、何か伝えたいことがあるのです。だから、この映画で描かれる「心ありますか?」という思考は間違いで、「心はある」と言い切れます。人間の条件というものは決められていないのに、この映画ではさとくんが決めてしまっているんです。現実の世界でも各々が勝手に人間の条件を決めてしまうことに陥ったりするのですが、やはりそもそも人間の条件は存在しないわけで、逆説的に、人間は人間なんですよね。〉

 この報告には、障害者が固有名詞で紹介されているし、映画『月』に出演した人は写真も掲載されている。相模原事件の特徴のひとつは、犠牲者や被害者が裁判でもほとんど匿名で甲・乙・丙といった記号で呼ばれたことだ。あまりにも差別が激しいこの社会では、犠牲者といえど実名を出せないという、とても深刻な状況の反映だった。

 それに対しては障害者運動を行ってきた団体からも批判がなされたし、津久井やまゆり園の家族会前会長の尾野剛志さんは、私が編集した本『開けられたパンドラの箱』(創出版)のインタビューで「黙ってしまうと植松に負けたことになる」と語っている。犠牲者が当初は全員匿名だったことについて尾野さんはいろいろな場でそう語ってきた。

 もちろん遺族が名前を出したくないと言っている現実に対して、部外者の私たちが顕名を強制することなどできるはずもないのだが、被害者家族である尾野さんの言葉には、当時も今も大変勇気づけられた。

 そして、現実の障害者が映画『月』に出演するということは、その問題に関わっている重たい問題だ。それを障害者支援に長く携わってきた施設長が前記のように語っていることはいろいろなことを考えさせられる。

全文をご覧になりたい方は下記にアクセスしてほしい。

https://www.tsuki-cinema.com/%e3%82%b3%e3%83%a9%e3%83%a0/

ちなみに『月』公式ホームページは下記だ。

https://www.tsuki-cinema.com/

障害者問題に関わってきた人たちの間で賛否両論

 さて、映画『月』について様々な見方や意見があるなかで、障害者問題に長く関わってきた人たちの間でも賛否両論が分かれていることは前述した。『月』の公式ホームページにはジャーナリストの佐藤幹夫さんのコメントも掲載されているが、佐藤さんも障害者問題に長く関わってきた人だ。

 批判する人たちの意見には、障害者施設や職員がステレオタイプに描かれているのではないかという見方があることは前述したが、これについて少し解説をしておきたい。相模原事件をめぐって、津久井やまゆり園の障害者支援のあり方が、職員だった植松死刑囚にどんな影響を与え、彼の障害者観がどう変わっていったかという問題は、裁判が始まった2020年に神奈川県の検証委員会が発足してから本格的に議論されていった。それまでは津久井やまゆり園はあくまでも植松死刑囚による事件の被害者という位置づけで、支援のあり方について当初から一部で指摘されてはいたものの、マスコミはそれを掘り下げようともしなかった。

 そこにいろいろな問題が指摘されるようになった2020年春以降は、内部告発もあって様々な問題が浮き彫りになってきた。裁判が終わってからは新聞・テレビは潮が引くように取材にあたった記者を東京へ戻したりして、報道量は一気に減った。私の編集する月刊『創』は、そういう状況下で、施設での支援のあり方について連続的に誌面で取り上げていった。実は映画『月』が制作にかかった時期もそれと同じころで、途中、コロナ禍の影響はあったが、障害者施設への取材も行っていったようだ。いわば、大規模施設の実態を解明するというそういう作業が行われていた時期と、静画の制作は重なっており、その時期に指摘された事柄がずいぶん映画の中にも描かれている。

 今そう思ってこの映画を観ると、確かにある種の単純化はなされているのかもしれないとは思う。実はそこにも葛藤はあるのだという批判や、糞尿まみれの障害者を職員が何もせずに放置するなど現実的でないといった批判は、確かにそうかもしれないとは思う。

 批判は自由だし、議論がなされてこそ、映画の存在意義はあると言えるのだが、ただお願いしたいのは、相模原事件をめぐって起きている風化に抗するためには、豪華キャストを擁した要した映画『月』はひとつの貴重な素材で、ぜひともそのことまでを否定することのないようにということだ。

石井監督が語っていた「不安」とは

 私は石井監督にもインタビューし、ヤフーニュースにもそれを公開しているが、気になったのは次のやりとりだった。

《――石井さんの前作の『茜色に焼かれる』も社会的なテーマを孕んでいたと思いますが、今回はさらに社会にむかって問題提起のボールを投げるような感じですよね。公開後の反応や反響がどうなるか興味深いです。

石井 そうなんですけど、具体的にボールを投げるというよりは、ボールはあの事件によって既に投げられていたはずなのに、人々がそこに目を向けなかったんじゃないかという意識が僕は強いです。

 公開後にどういう反応があるか興味はもちろんありますが、一方で無視されるんじゃないかという不安もあります。それはこの事件そのものの反応に似たリアクションです。辺見さんも書いていましたけど、すごく危ない言い方をすると、世間の障害者の方々への認識というのは、「24時間テレビ」に出られる人、あとはパラリンピックに出られる人、で止まってるんじゃないか、それ以外の人たちの存在については無視されているんじゃないか。それから、この事件が人間存在の根源的な問題を孕んでいるということをおそらくみんな何となく無意識でわかっていると思うんです。だからこそ目を背けるんじゃないかという不安があります。》

 「ールはあの事件によって既に投げられていたはずなのに、人々がそこに目を向けなかったんじゃないか」という指摘など本当にその通りだ。事件が風化していくのを眺めているだけではいけないというのは、私も常に感じていることだ。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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