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元プロボクサーの女性聴覚障害者を描いた映画『ケイコ 目を澄ませて』が公開へ向けて動き出した

篠田博之月刊『創』編集長
小笠原恵子さんの自宅の練習場(筆者撮影)

映画『Coda』が描いたろう者の家族

 公開中の映画『Coda あいのうた』を観た。アカデミー賞有力候補で、感動的な映画だ。Codaとは「ろう者の親を持つ健聴者」という意味で、主人公の女性の4人家族のうち両親と兄は耳が聞こえない。一方、主人公の女性は歌がうまく、最終的に音楽の道に進む。音との関わりについて、ある意味対照的な家族が織りなす葛藤や愛情を描いた映画だが、全編に手話が登場するのも特徴で、その演出がすばらしい。公式サイトは下記だ。

https://gaga.ne.jp/coda/

 同時期、2021年の「全国高校生読書体験記コンクール」で最優秀に選ばれた奥田桂世さんの「聾者は障害者か?」をネットで読んだ。

 奥田さんも先天性のろうで、両親も祖父母もろう者という家庭で育った女性だ。その奥田さんが発表した「聾者は障害者か?」の一節を引用しよう。

《社会は私たちのことを「聴覚障害者」と呼ぶ。健聴者が中心の社会に足を一歩踏み入れたとたん、周りは私たちのことを異質な者と理解し、独自の方法で教育やコミュニケーションがなされる「障害者」と名付けるのである。》

《私は自分自身を「聴覚障害者」ではなく、「聾者」としてのアイデンティティを持つ、ひとりの人間として誇りに思っている。その一方で、補聴器や人工内耳を装用すれば、個人差はあるが音声言語でやり取りできる人もいる。だから、聞こえない人のタイプの違いを無視して「聴覚障害者」とひとくくりにして呼び、区別しているのは何だか乱暴なことにも思える。》

 この独特の視点に、作家の角田光代さんや歌人の穂村弘さんら選考委員は感銘を受けたようで、ほぼ全員の一致で奥田さんが選ばれたという。

 考えてみれば障害者というのは、あくまでも健常者から見た表現だ。映画『Coda』でも主人公の家族は手話を使って十分コミュニケーションがとれている。奥田さんの指摘もその通りだとは思う。ただ、それを理解しつつも、ここでは便宜的にこの言葉を使う。

障害者の問題と映画『ケイコ 目を澄ませて』

 この何年か、私は障害者の問題に関わる機会が何度かあった。相模原障害者殺傷事件の取材では知的障害者をめぐる様々な問題に向き合うことになった。

 あるいは、その相模原事件についての集会で知り合った重度障害者で人工呼吸器ユーザーの海老原宏美さんが、昨年末に亡くなった。限られた命に最期まで向き合い生きるための闘いを続けた彼女の突然の死は衝撃でもあり、ヤフーニュースに追悼文を書いた(下記参照)。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20211230-00275091

「生きてます。辛うじてw」海老原宏美さんの命の格闘と、その死に思うこと

 そしてこのところは聴覚障害についてだ。ひとつのきっかけは、聴覚障害でありながらプロボクサーになった小笠原恵子さんの生き方をつづった本『負けないで!』(創出版刊)が映画化されたことだ。私が企画・編集した本で、小笠原さんとのつきあいはもう10年に及ぶ。最初にインタビューした時は筆談で、大変苦労したが、今はSNSを使って簡単にやりとりできるようになっている。

映画『ケイコ 目を澄ませて』は年内公開で、このところ海外の映画祭に出品されるなどしている。もっとも映画はドキュメンタリーではなく、フィクションで、三宅唱監督のオリジナル脚本だ。

 既に公式ホームページが立ち上がっている。

https://happinet-phantom.com/keiko-movie/

 公式サイトに関係者のコメントが発表されているが、主役の岸井ゆきのさんと三宅唱監督のコメントの一部を紹介しよう。

●岸井ゆきの(小河ケイコ役)

 この作品はケイコの日常であると同時に、今を生きること、自分の人生をどう生きるのかという問いなのかもしれません。三宅監督も参加した三ヶ月のボクシング練習、手話練習もかけがえのない時間でした。ほんとうの意味で一緒に戦ってくれたこと感謝します。

●三宅唱監督

 とても大切な映画ができました。ご自身の半生記『負けないで!』を書かれた小笠原恵子さんに深く敬意と感謝の意を表します。ありがとうございます。また、岸井ゆきのさんとともにこの映画に取り組めたことを心から誇りに思います。彼女の信じがたいほどの勇敢さがなければこの映画は生まれていません。

映画『ケイコ 目を澄ませて』C:映画『ケイコ 目を澄ませて』製作委員会/COMME DES CINEMAS
映画『ケイコ 目を澄ませて』C:映画『ケイコ 目を澄ませて』製作委員会/COMME DES CINEMAS

 製作過程の約3年間、監督やプロデューサーとは何度もお会いしたし、リング上で行われる撮影も見学させていただいた。ボクシングや手話にも挑戦した岸井さんの意気込みも伝わってきた。

 映画と、その原案となった『負けないで!』は別の作品だ。でも耳の聞こえない女性がボクシングに励むというこの映画は、聴覚障害について多くの人が考えるきっかけになる可能性がある。

 小笠原恵子さんは、今はプロボクサーを引退しているが、今でも格闘技と手話を一緒に習うというユニークな教室を主宰している。そして、恵子さんの妹も実は耳が不自由なのだが、昨年、『ちいさなてのおおきなうた』(生活の医療社)という絵本を出版した。補聴器をつけた少女と友人たちの物語だ。その聖子(ペンネームはユルト聖子)さんが刊行に寄せてこう書いている。

「補聴器を小さい時からの習慣でつけていました。大学に入って『この補聴器の意味はなに?』という体験を重ね、自分がいかに音をわかっていないかに気付きました」

「音がわからない」という感覚は、独特だ。なかなか想像がしにくいことだろう。

学校でのいじめ、そして不登校に

 聖子さんはろう学校へ通ったのだが、姉の恵子さんは普通学校だった。どちらがよいかという判断は簡単ではないが、結果的に恵子さんは小学校からいじめにあってしまう。子どもたちはある意味残酷だ。学級内に異質に見える子がいると遠慮なくその感情を表したようだ。恵子さんは著書の中でこう書いている。

《私が聞こえないということも、いじめの原因のひとつだったと思う。

 誰かが声をかけてきても、その人の顔が視界に入らない限りは気づかない。相手は私が無視していると思い込んでしまう。また、何を言っているのか読み取ろうと、じっと相手の顔を見ていると、睨んでいると勘違いされることもある。そういう誤解から印象を悪くしてしまったり、変な恨みを買ってしまうことは聴覚障害者にはよくあることだ。

 子供は反応がストレートで容赦ない。廊下や校庭を歩いていると「近寄るな」と逃げられた。まるでばい菌扱いだった。》

 中学生になった時期には小笠原さんは不登校になり、警察に補導される体験もする。人生の中で一番つらい思い出となった時期だ。

《私は引っ込み思案で、自分から積極的に動くタイプではない。中学時代は、今よりももっと人に左右され、流されていた気がする。友達が少ないから、仲良くしてくれた人の誘いは断れない。というか、自分から必死に溶け込もうと頑張ってしまう。そして、気がついたら取り返しがつかないことになっている。(略)

 私は、買おうとしていたキャラクターのキーホルダーを手に持っていた。友達に言われるまま、それを袋に入れた。

 その行動が万引きだったことを、あとになって知ったのだった。

 友達二人は、たぶんお店に入る前から万引きの計画を立てていたのだろう。でも、その会話が私には読み取れなかった。

 私たち三人は私服警官に補導され、そのうちに警官が来て交番へ移動した。

 私たちを担当した警官は、机の脚を蹴飛ばしたりテーブルを叩いたりする乱暴で怖い人だった。交番に座らされるのも初めてだったし、まして警官に取調べを受けるなんて考えてもみなかった。警官から説教を受けている間、私はずっとおびえていた。》

《家の前で待っていた母は血相を変え、鬼のような顔をしていた。

 穏やかでおとなしい父に比べて、母は気が強くて短気だ。友達の母親が帰ったあと、いきなり母の平手と拳が飛んできた。部屋中、物が散乱するほど殴り、蹴飛ばされた。

 その時期、父がやっていた不動産業がうまく行かず、家の中では両親の喧嘩が絶えなかった。母はいつもイライラしていた。母は私が小学5年の頃から、臨時採用で特別支援学校の教員として働いていた。きっと疲れていただろうしストレスも溜まっていたのだろう。

 そのあと部屋に閉じこもり這いつくばった私は、

「もうダメだ……。人間としてダメだ」

 と心の中でつぶやいた。すべてが終わりになったかのような、いきなり人生がまっさかさまに落ちていくような感じがした。》

 その事件をきっかけに、彼女の不登校も始まった。

母親は「一緒に死のうか!」と叫んだ

《その一件以来、学校に行っても以前のような元気が出なくなった。

 授業中はいつも集中して先生の唇を読んで話を聞いていたのに、それもできなくなってしまった。

 きっと、私は死んだような顔をしていたのだろう。それに気づいた担任の先生が「どうしたの?」と声をかけてくれたが、何も答えずうつむいていた。

「私は駄目なやつだ。勉強とか、他の人に追いつこうと頑張ってきたけど……。なんだかもう疲れた」

 今思うと、それまではいろいろなことを我慢して、気を遣いながらなんとか学校生活を送っていたのだろう。それが、一度の失敗で一気に噴き出してきたのかもしれない。自分ではどん底まで落ちたような気になって、そこから這い上がるのは永遠にできないような気がしてきた。勉強が普通にできる子や、楽しそうにおしゃべりしている子たちが、みんなはるか上のほうにいるように感じられたのだった。

 憂鬱なときは授業を放棄し、屋上に続く階段で居眠りすることも多くなった。》

 高校に進学してからは、小笠原さんは体育教師と衝突し、教師を殴るという事件を起こして停学となった。

《母と激しい喧嘩をしたのは、何度目の停学のときだっただろう。

 その頃の私は学校で暴力を振るってしまったことを後悔して、それでも感情のぶつけどころがわからず、両親に当たることが多かった。

 その日は今まで以上に感情が抑えきれず、私はとうとう絶対に言わないと決めていたことを母に口走ってしまった。

「生まれてきたくなかった! こんな人生いやだ!」

 いい終わる間もなく、私の頬に平手が飛んできた。

 目の前で母が泣いていた。母が泣くのを見たのは初めてだった。》

《母が泣いたのを見たあとも、家での口喧嘩は頻繁に起こった。機嫌が悪かったり嫌な出来事があったりすると、ついつい親に当たってしまった。

 母も我慢の限界に来ていたのだろう。ついに、こう叫んだ。

「一緒に飛び降りて死のうか!」

 喧嘩で感情が高ぶると、母は早口になり私には口の動きが読めない。

「何? 何を言ってるの? わからない!」

 すると母はものすごい速さでキュードの手振りをしながら、

「お前を殺して私も死ぬ!」

 と叫んだ。きっと、近所に聞こえるくらいの大声だったに違いない。

 私も抵抗して、大声で叫んだ。

「やだ! 死ねない!」

 生まれてこなければよかったと言っているくせに、死ぬのは怖い。自殺などは一度も考えたことはないし、考えたくなかった。

 親と喧嘩をしたあと、いつも私は自分の部屋にこもり、ひとりで泣いた。

 なぜ親に当たるんだろう。どうすればいいんだろう。いくら考えても自分では答えが見つからなかった。手話のおかげで気持ちを伝えられるようになったけれど、本音をぶつけて相談できる人はいなかった。》

ボクシングをめざしたが、そこでも数々の壁が…

 こういう環境は、当人を屈折させ、孤立させていく可能性が大きいのだが、小笠原さんの場合は、その内面の怒りを格闘技にぶつけるようになりボクシングの道をめざすことになった。ある意味すごいことで、もちろん努力のたまものなのだが、プロボクサーの資格を得るに至ったのだった。

 もちろんその道も多難で、まず耳が聞こえないとわかった時点で、入会しようと考えたジムから拒否された。彼女が運よくボクシングジムに入会できたのは、その真闘ジムの佐々木隆雄会長自身、目が不自由だったことが大きい。自身が目が不自由だったから、会長は、障害を理由に小笠原さんの入会を断ることはできなかったのだ。 

 ただもちろん、リングに上がってもゴングも聞こえないわけだから、聴覚障害者がプロボクサーをめざすというのは簡単なことではない。ボクシング以前の問題として立ちはだかる壁を、一つひとつ彼女は越えて行かなければならなかった。

プロボクサーだった頃の小笠原恵子さん C:創出版
プロボクサーだった頃の小笠原恵子さん C:創出版

《アルバイト時代も、就職してからも、私はボクシングジムに通い続けた。

 続けていると、苦手なスパーリングにも慣れてくる。実戦形式のスパーリングをやりながら、基本のジャブ、ワンツー以外にもフックやアッパー、自分の身を守るディフェンスの方法を自然に覚えていった。》

《仕事の都合でどうしても行けないときは、いったんジムを退会し、夜遅くまでやっている別のジムに通ったりもした。》

《ボクシングを始めて、もう6年が過ぎようとしていた。

 あるとき、男性会員のひとりが、東京都アマチュアボクシング大会に出場することが決まった。それを知って、初めて「私も大会に出たい」と思った。

 それまで試合に興味はなかったけれど、せっかくここまで続けてきたし、苦手なスパーリングも克服した。自分も大会で今の実力を試してみたいと思ったのだった。

 会長が主催者に問い合わせをしてくれた。しかし、返ってきた答えは、

「出場することはできない」

 健康上の条件を満たしていないというのが、その理由だった。

 会長は、だったら演技に出ればいいと言った。

 女子アマチュアボクシングには「実戦競技」と「演技競技」の二種類がある。

「実戦競技」は、ヘッドギアをつけて2分3ラウンドを闘う普通のボクシングの試合。「演技競技」は試合ではなく、構えやフットワーク、打撃の型、腕立て伏せや縄跳び、サンドバッグ、シャドーボクシングなどでボクシングの技術や体力を競う。

 アマチュアボクシングのルールでは、演技競技で合格点を与えられた人が実戦競技に出場できるとされている。最近になって、初めて私はそのことを知った。もしかしたら、実戦競技を断られたのは演技競技に出場していなかったからだろうか。

 とにかく、会長は「実戦が駄目なら演技に出よう。演技競技なら安全だから出られるはずだ」と、私の出場を申し込んだ。

 ところが、演技競技も出場できないとの答えが返ってきたという。

 全然危険性がないのになぜ? 試験官が指示を出すときに少し配慮してもらえば、私でもできるのに。ただ聞こえないというだけでやらせてもらえないとしたら、どうしても納得がいかない。演技が駄目なら、実戦なんて絶対に無理に決まっている。

 悔しくて、ショックで、私は泣いてしまった。》

「自分の耳を、私はうらんだ」

《プロボクサーになりたい。

 その気持ちがだんだんと湧いてきたのは、アマチュア大会への出場を拒まれてからしばらくしてのことだった。

 一度は諦めたけれど、遠くなればなるほど実戦への思いは増していった。》

《試合をしてみたいという当初の目的は、はっきりと変わってきていた。

 耳が聞こえなくても、格闘技はできるんだ。試合ができるんだ。

 自分がリングに立つことで、闘うことでそのことを証明したい。だからこそ、プロボクサーのライセンスが欲しい。心の底からそう思った。》

《そのあともアマチュア大会への出場を申し込んだが、やはり駄目だった。

 アマも駄目、プロも駄目と言われ、私はボクシングのルールに対して苛立ってきた。》

《子供の頃、みんなと同じように歌が歌えなかった。小学校ではいじめられた。ずっと孤独だった。感情を爆発させたかと思うと、無気力になった。就職活動も満足にできなかった。そして、ボクシングからも拒絶された。

 すべての原因となった自分の耳を、私はうらんだ。

 聴覚障害者には「聞こえないことに誇りを持っている」だとか「自分は不幸ではない」とか言う人もいる。でも、気丈な人ばかりじゃない。弱い人間だっている。

「自分は不幸だ。何で聞こえないんだ。畜生」

 私はずっと、ずっと、そう思い込んでばかりだった。》

 その後、佐々木会長らの尽力もあって、小笠原さんはプロデビューを果たした。デビュー戦は2010年7月26日だった。

《いよいよ私の出番が近づいてきた。深呼吸を何度もした。

 会場への扉が開く。たくさんの観客が視界に飛び込んできた。

「見られている!」

 エキシビションのときと同じように、また足がすくんだ。客席の間を通りリングに上がるまでは、今までにない恐怖を感じた。

「リングの上でメッタ打ちにされるかもしれない」

「自分がやられているところを見て観客は喜ぶかもしれない」

 悪い想像ばかりしてしまう。リングサイドの階段を上がるときは、思わず死刑台とイメージがダブってしまった。

 だが、ざわついた心もそこまでだった。

 ロープをくぐったあと、私の世界は静かになった。

 リングの中央に歩み出て、レフェリーを挟んで対戦相手と向かい合う。

 レフェリーの口が動く。私には聞き取れないが、どんな注意をしているかはすでにわかっている。

 いったんコーナーに戻ると、セコンドの小林トレーナーが言った。

「1ラウンドはすっ飛んで行け」》

「リングに立てたことが嬉しい」

《ゴングが鳴った。

 相手の目を見た。戦闘モードになっている。

 その瞬間、セコンドの指示通り相手のほうへ突っ込んでいった。

 ふだんのスパーリングでは相手をよく見て呼吸や顔色をうかがうが、今回はそんな余裕などない。リーチの長い相手がジャブを伸ばしてきた瞬間、くぐるように相手の懐に入ろうとした。レフェリーがすぐにストップをかける。頭から前に突っ込みすぎてしまい、注意を受けてしまった。

「まずい」

 動きを変えようと、上体を揺らしてガードを高くしながら前進した。ジャブ、右ストレート。ジャブ、右ストレート。そして、相手のジャブを左手でかぶせるようにして止め、左頬めがけて右フックを打った。

「痛っ!」

 相手の唇がそう動いているように見えた。チャンスだ。一気にラッシュをかけた。何を出したか覚えていない。ただ、ただがむしゃらだった。

 二人の間に割って入ったレフェリーが、左手で相手を支えながら右手を大きく振った。それが試合終了の合図だとわかった瞬間、全身がしびれた。

「よっしゃ!」

 私は心の中で叫んだ。

 1ラウンド54秒、レフェリーストップによるTKO。会長から繰り返し教わったジャブ、右ストレートを出して勝つことができた。それが何より嬉しかった。

 興奮しているのか、全身はしびれたままだ。ぼーっとした感覚のままリングを降りると、大きくて綺麗な花束が目の前に突き出された。以前通っていた空手道場の先輩が渡してくれたのだった。お礼をするそばからまたもう一つ、花束が差し出される。相手の顔を見て驚いた。15年も会っていなかった従妹だった。笑顔いっぱいの従妹は、手話で、

「お久しぶり、おめでとう!」

 と祝福してくれた。15年前は幼い子供だったのに、こんなに大きくなって、しかも手話を覚えてきてくれたなんて……。胸がいっぱいになって、思わず泣いてしまった。

 涙が止まらないまま、選手や関係者だけが通れる通用口を歩いた。試合後のドクターチェックを受けるためだった。》

 控室には多くの関係者がまちかまえており祝福してくれた。

《右を見ると真闘ジムの人たちが大きな拍手で迎えてくれた。その輪の中に会長がいた。白い杖を持ってパイプ椅子に座っていた。

 私は会長の手を握って言った。もし負けたとしても、これだけは、必ず言おうと決めていた。

「勝ったことより、リングに立てたことが嬉しいです。ありがとうございました」

 私の声はたぶん小さかったと思う。それでも会長の耳に届いたのだろう。会長は大きくうなづいて、それから、はっきりと口を開けて言った。

「それは自分の努力だよ」》

 障害者の問題を考えることは、自分自身について考えることでもある、と思う。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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