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「生きてます。辛うじてw」海老原宏美さんの命の格闘と、その死に思うこと

篠田博之月刊『創』編集長
海老原宏美さんのフェイスブック(筆者撮影)

最後の闘病と社会への発信

 12月29日、海老原宏美さんの訃報が新聞で伝えられた(共同通信の配信か)。実際に亡くなったのは24日で、その当日に知ってショックを受けた。なぜならその2日前までメールのやりとりをしていたからだ。23日にはオンラインで講演も行っていたから容態の急変だったわけだ。

 海老原さんは、障害者の問題に関わっている人の間では有名人だが、ネットにあがっているプロフィールはこうだ。

《脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断され、3歳までの命と告げられる。車いすを使いながら小学校、中学校、高校と地域の普通校に通い、大学進学を機に24時間介助を受けながらの一人ぐらしをスタート。2002年からは自力での呼吸が難しくなり人工呼吸器を使って生活している。現在、障害者の自立を支援する「自立生活東大和」理事長》。

 著書も何冊かあるし、NHKのEテレに何度も出演、ドキュメンタリー映画「風は生きよという」のメインの出演者だ。『創』との関わりは、相模原障害者殺傷事件についての渋谷ロフト9でのイベントで知り合い、その時の彼女の話に加筆したものを『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』に収録している。とても考えさせられる内容なので、この記事の末尾でその一部を紹介しよう。

 重度障害者で人工呼吸器ユーザーなのだが、自分が生きていくことにいつも前向きで明るいのが海老原さんだった。なぜこの間、彼女と久々にやりとりするようになったかというと、彼女が北海道の病院で治療を受けようと、11月下旬から単身、現地に飛び、入院した。そして闘病の記録を連日、フェイスブック(FB)で発信しているのを読んだからだ。

 その克明な闘病の記録を朝の電車で読んで感動し、発信される都度読みふけった。1回の発信量も多いし、専門用語が出てくるのだが、リアルタイムで発信される命をめぐる闘いの記述に、その記録を残し、社会に発信したいという意思が感じられた。

大阪ビル放火事件と対照的な「命の格闘」

 ちょうどその時期、日本中を震撼させていたのは大阪北新地のクリニックでの放火殺人事件だった。ガソリンで放火し、逃げようとする人を体当たりで阻止するといった殺意の強固さに戦慄する事件だった。

 私は、連続幼女殺害事件の宮崎勤元死刑囚や相模原事件の植松聖死刑囚といった、凶悪事件の当事者と付き合いがあるが、大阪ビル放火事件における容疑者の殺意や社会への敵意には救いのない絶望を感じた。付属池田小事件の宅間守元死刑囚もそれに近いのだが、宅間元死刑囚の場合、彼に人間的心を取り戻させようと死刑確定後に獄中結婚したクリスチャンの女性の献身的な対応に、多少なりとも心を動かされた側面もあった。人間はここまで冷酷になれるものかという凶悪犯も、わずかに人間的な心情を見せる局面はあるのだ。だが、今回の大阪放火殺人事件には、当面報道されている内容を見る限り、救いがないという印象を受けた。

 死を覚悟して偶然現場に居合わせた人を大量殺傷するという事件は、このところ明らかに増えていて、社会の閉塞状況を示すものなのだが、大阪ビル放火事件は凄惨さにおいて突出していた。

 そんな中で、命と向き合い、必死に生きようと格闘する海老原さんの姿は感動的であった。

 それを月刊『創』(つくる)2月号(1月7日発売)で取り上げようと連絡を取り、記事や写真をチェックしてもらったり、というやりとりを行っていた。カラーグラビアで取り上げようと決めたためにあまりページがとれず、彼女の発信内容はごく一部しか紹介できなかったのだが、記事はこういうものだ。

《死ぬのを覚悟で無差別殺傷といった、とんでもない事件が続いている。

 そういう世の中だからこそ、海老原宏美さんの取り組みを紹介したい。人工呼吸器ユーザーで、著書もありテレビなどにも出ている女性だ。本誌との出会いは相模原障害者殺傷事件の集会でだった。

 海老原さんは自立生活を送っていたが、心臓の不調に一念発起、北海道の病院で治療を受けようと、単身、飛行機で飛び立った。そして入院後、闘病の記録を連日、フェイスブックで発信している。

北海道へ向かう空港で(海老原さんのフェイスブックより)
北海道へ向かう空港で(海老原さんのフェイスブックより)

●11月28日。

〈「その後音沙汰ないが大丈夫か!? 生きてるか!?」というお問い合わせを承っております。まだ生きてます、かろうじてw〉

 大変な闘病生活だが、海老原さんのすごいのは、いつも前向きで明るいところだ。

 この写真は12月14日。腰痛に悩み、右を下にして横になったのだが、こう書いている。

「涅槃像みたいになってる(笑)」海老原さんのフェイスブックより
「涅槃像みたいになってる(笑)」海老原さんのフェイスブックより

 涅槃像みたいになってる(笑)〉

海老原さんが最後に加えたメッセージ

 闘病で大変な時にゲラを見てもらう余裕はあるのかと心配したが、彼女は快諾してくれた。やはり記録を残し、社会に伝えたいという思いがあったのだろう。校了は23日だったが、その直前の22日に海老原さんから、この一言を入れてくださるとありがたいというメッセージが届いた。それを受けて記事の末尾にこう書いた。

《今回、彼女はこんなメッセージをくれた。

「生きたいのに命の期限が迫りくる人がいる一方で、生きる意味を見失い、死に惹かれる人も多いのは皮肉なことです。まあ、命の締切を意識せざるをえないからこそ、命に向きあえるとも言えるのですが」》

海老原さんのフェイスブックより(本人の了解を得て転載)
海老原さんのフェイスブックより(本人の了解を得て転載)

「命の締切を意識せざるをえないからこそ、命に向きあえるとも言える」というのは、彼女の置かれた状況を思うと大変重たい言葉だった。それが海老原さんの最期のメッセージになってしまった。

 その記事が載る『創』は1月7日発売で、その号には彼女が他界したことは書いていないから、何とも奇妙な誌面になってしまったのだが、彼女の最期の言葉を報じられただけでも意味はあったと思う。

 海老原さんのFBには下記からアクセスできる。興味ある方はご覧いただきたい。

https://ja-jp.facebook.com/ebihara.hiromi.3

最後に書き込んだ12月23日のフェイスブック

 亡くなった直後からFBには追悼のメッセージがたくさん書き込まれている。本人の最後の書き込みは「2021.12.23 入院25日目」だった。一部を引用しよう。

《今日は、静岡県社協主催の共生フォーラム。本当は、昨日から静岡入りしているはずでしたが、まさかの入院。本当はキャンセルした方がいいくらいの心臓状況だけど、せっかくのご縁で企画してくださったイベント。

 どうにか参加できないかと、病院に「オンライン参加」の申請をしたところ……どーぞどーぞ! 講演ですか、すごいですね! オンラインだったらバックが大事! こんな、酸素ボンベとか映らない方がいいよね!?喋ってたら酸素落ちるかもだから、苦しかったらじゃんじゃん流して!呼吸器、喋りやすい設定に作り替えておこうか?? これでどう!?

 あとは?あとは? あ! 病室、光源が暗すぎるでしょ! カーテンバックにしたら、逆光でより顔暗くなっちゃうよ!?それはイケてないな! 女優ライト、女優ライト!(↑リングライト)あれをお貸ししましょう!…と、私の何倍も盛り上がっておりました…。》

《そんなこんなで、無事にイベントは終了。もっと血の気が引くかなぁ?とか、途中しゃべれなくなったりしないだろうか?という不安は外れ、酸素流量10リットルで、spo2:98をキープできました!ただ、後半のシンポジウムでは、普段ほど力を発揮できなかったかな…。

 いつもほどは頭が回らなかったなー。血流ないせいです、ご勘弁をw

 主催者の方には、いろいろ環境アレンジし直していただき感謝しかありません。

ありがとうございました。

 16:00。疲れたw ベッドに横になって休憩。竹内さんがちょろっと顔を出し、「無事に終わった? 大丈夫? 疲れたでしょ(笑)今夜は酸素落ちるかもね(笑)まあ、そういう時も今後はたくさんあるだろうから、あんまり気にしないで。ゆっくり休みなねw」》

 このイベント出演が社会へ向けた最後の発信になってしまったのだった。

冥福を祈りたい。合掌。

「なぜその命が大事なのか」という問い

 『開けられたパンドラの箱』に収録した海老原さんの言葉の一部を紹介しよう。

《――相模原事件について、発生当時感じたこと、それから何カ月か経って、周りの人の変化とか、話していただければと思います。

海老原 最初は、事件の残虐さに対してショックを受けました。19人の方が抵抗もできない中で殺されていった場面を想像すると、本当にショックです。

 でも一方で、事件が起きたことに対しては驚かなかったというのが正直なところなんです。私は、重度障害者として生きてきた中で、ずっと差別をされてきました。差別というとすごく強い言葉ですが、排除・区別ですね。障害を持っていると常に社会から分けられながら生きていくことになるんです。

 生まれてすぐ、普通は赤ちゃんが生まれたら周りの人たちから良かったね、おめでとうと言われます。だけど、障害を持った子が生まれてきたとなると、周りから絶対におめでとうって言われないんです。自分のところに子どもが生まれて、その子に重度障害があると言われたら、多分周りの人は絶句しますよね。なんて声をかけたらよいかわからない。可哀想ねというのも申し訳ないけど、大変ねって。雰囲気悪くなりますよね。

 生まれた瞬間から障害者って歓迎されていないんですよ。そういう中で生きていく過程で、保育園や幼稚園にも、事故を起こすと困るからと入れてもらえない。学齢期になると特別支援学校の方が人手もあるし、その子のペースにあった勉強ができるからよいんじゃないですかと言われ、地域の学校に入れてもらえない。卒業して、地域で暮らそうと思っても今度は、火事でもあったらどうするんですかと、アパートを貸してもらえない。一人暮らしを始めようとしても、24時間ケアが必要なら施設に行ったらどうですかと言われて、地域から隔離されて排除されていく。常に排除されて生きているんですね。

 そういう境遇の中でずっと、「でも私は地域にいたいんです」ということで生きてきました。でもやはり障害者が身近にいると面倒くさいし、コミュニケーションも取れないし、どうしたらよいかわからない。いないほうがよいと思っている人が実はたくさんいるんですね。

 あの事件を受けて、可哀想だね、価値のない命なんてないのに、なんであんなことをするんだろうねって、みんな口々に言うけれども、じゃあ「なんで重度障害者の命に価値があると思うんですか」と逆に聞くと、ちゃんと答えられる人はいないんですよ。

 なぜその命が大事なのか。命が大事だということは、学校の道徳とかで習うけれども、なぜ大事なのかは習わないんですね。そんなものは一緒に生きていく中で感じとることだけれども、共に生きる環境がないから感じとれないし、誰も教えてくれない。その中で起きた事件なので、背景には複雑な環境があるのだろうけど、起こるべくして起きた事件なのかなと私は思っています。》

「自分は障害者でなく海老原宏美」

《海老原 障害者にも色々いるんですね。私はあまり自分のことを障害者だとは思っていなくて、ただの人、ただの海老原宏美だとしか思っていない。だから障害者として扱われるとすごく違和感があるし、もっと普通に話してくれればいいじゃんという感覚があります。

 私は訊かれて嫌なことは何もないんです。なんで身体ぐにゃぐにゃなのとか、なんでそんなにガリガリなのとか、全然訊かれて嫌じゃないし普通に答えられるんですよ。ただ、障害者の中には、特に年配の世代はそうですけど、障害を持っていることがすごく特別で、それをちゃんと意識してくれないと嫌だし、配慮してくれないと嫌だと言う人もいます。

 障害者自身が自分を特別扱いしてほしい、だって自分は障害を持っていて、すごく大変なんだから、ちゃんと考えてよ、みたいに思っている人もいる。そういう人は一般人と同じように扱われると逆に怒るんです。「私、大変なのわかるでしょう」って言われたりする。

 そういうところは統一できないかなと思います。事件の時に、例えば匿名性のことが大きく取り上げられたじゃないですか。被害者の名前が出ない、顔が出ないのはどうなのかという意見があった。私もあれはおかしいというか、同じ障害を持つ人間としてすごく寂しかったんですね。

 家族によっては、公表するとすごい取材が押し寄せて、落ち着いて悲しむ時間もなくなってしまうと考えた人もいると思います。そういう大変さはわかるのだけれど、あまりに被害者の背景やその人がどういう人なのかがわからなくて、障害者が殺されたということで一括りにされてしまう。誰が亡くなったということではなく、重度障害者が殺されたということで一括りにされてしまい、それで終わってしまう。そのことに悲しさを感じました。

 この事件を個人のものとして、被害にあわれた方や関係者、施設で働いている人たち、そういう個人に対する事件として片付けようとしているのか、それとも社会の問題として取り上げるのかということで、その後の社会に差が出てくるのではないかと思うんです。

 私たちは自立生活センターというところで活動をしていて、障害があっても、障害のない人と同じように地域で当たり前に人として生きていける、そういう社会を作るための運動をしているんですね。》

「死ぬことが身近にあるんですね」

《海老原 私が当事者として感じることは、良かれと思ってやってくれることがだいたい差別なんです。特別支援学校とかもそうですよね。送迎をつけて、保護者の負担を減らして、人手も増やして、学校の中で手厚く見てもらえる。

 あたかもその子のためになっている感じがしますが、学校の中ではそれでよいかもしれないけれど、社会に一歩出たら障害を持った人のペースで社会は動いていないんです。あっという間に取り残されていくわけで、それをフォローする仕組みは社会にはないんです。

 確かに同じペースの子しかいない環境ではいじめもないと思いますが、社会に出たらいじめられるんです。トロいとか、仕事ができないとか。挙句の果てに殺されたりするわけじゃないですか。それに対応する力は、特別支援学校では身につかないんですね。

 そういうふうに良かれと思ってやってくれることが大概差別だという思いが私の中にあって、行政っていつもそういうところを勘違いしているなと思います。私が一番大切だと思っているのはインクルーシブ教育で、常に障害者だけでなく外国人だったり、いろんな人たちが学校の中で共同生活をする中で、どうやって自分と全然違うタイプの人と生活していくか学び合っていくことがすごく大事だと思っています。日本は今、全く逆のことをやろうとしているので、勘違いが多いと私は思っています。

 私も街を歩いてて「偉いわねえ」って泣かれることがあります。でも、おかしいでしょう? ただ普通にバスに乗っただけなのに、感動してお金をくれる人がいるんですよ。もらいますけど(笑)。

 そういうのはちょっと違うんじゃないかなと思っていて、偉いわねっていう言われ方はすごく他人事な感じがします。どういう言われ方をするとよかったと思うかというと「私はあなたがこういうことをやっているのを見て勇気をもらいました。だから自分も明日からこういうことをやってみようかなと思います」とか、自分にちゃんと関連付けて、自分にとって私の存在がどういう意味があったかというところまで伝えてくれると、わー生きててよかったな、呼吸器つけながらバス乗っていて良かったなと思いますね。

 当事者として生きていて思うのは、周りが思っているほど私は大変じゃないんですよ。大変なことも多いですけど、結構面白いんですね。目の前に障害が治る薬があったら飲みますかと言われたら、私は多分飲まないと思うんです。障害と生きるって大変なことがありすぎて面白いんです。別に強がりではなくて、障害があることで、健常者にはない喜びを得られる機会がもの凄くたくさんあって、色んな人に出会えたり、指が動く、手が動くことをすごく幸せに感じられたりだとか、世の中の一個一個の現象に対してすごく敏感になるんです。

 私は進行性の障害なので、いつどう死んでいくかわからない、いつまで生きられるか、いつまで体が動くかわからないという状態に置かれている。死ぬことが身近にあるんですね。だから逆に今やれることやらなくちゃとか、生に対する、生きるということに対する意識が健常者に比べると日常的に自分の中に湧き上がる機会も多い。1日1日を面白く楽しく生きていこうという思いがすごくあって、障害者として生きるってすごく面白いなと思うんですね。》(創出版刊『開けられたパンドラの箱』より)

 海老原さんの人生を振り返ると、こうした言葉が本当に重たいことを実感できる。最後の一文など、今回の彼女の最後の格闘を思うと非常に深い意味を持っていることがわかる。最後にもう一度引用しよう。

《私は進行性の障害なので、いつどう死んでいくかわからない、いつまで生きられるか、いつまで体が動くかわからないという状態に置かれている。死ぬことが身近にあるんですね。だから逆に今やれることやらなくちゃとか、生に対する、生きるということに対する意識が健常者に比べると日常的に自分の中に湧き上がる機会も多い。》

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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