相模原障害者殺傷事件の植松聖被告が宮崎勤死刑囚について言及した手紙

事件から1年を経た津久井やまゆり園

 このところ頻繁に相模原障害者殺傷事件の植松聖被告と手紙のやりとりをしている。障害者19人を殺害するというあの凄惨な凶行に彼を突き動かしたものが、精神的疾病によるものなのか、あるいは極端な排外主義というべきある種の思想と考えるべきなのか、つまり彼は病気なのかそうでないのかという関心からだ。

前回アップした記事では、世間の多くの人たちは彼が精神的に崩壊し会話も成立しない人だと思っているかもしれないが、実際にはそうでもないと書いた(下記参照)。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20170804-00074151/

〔獄中の植松聖被告から届いた手紙〕

 それは最初に植松被告とやり取りし始めた時の感想なのだが、その後少しずつコミュニケーションを交わしている今でも、彼がどういう人間であるのかは、よくわからない。

 最近届いた植松被告からの手紙は、相模原障害者殺傷事件後1年を特集した発売中の月刊『創』9月号を送ったことへの返礼から始まっていた。

《先日は『創』9月号を差し入れていただきまして誠にありがとうございました。

 多くの利権を壊す私の考えは世間に出ることは無いと半ば諦めておりましたので、『創』を読んだ時は手が震えてしまいました。》

 この間、彼は自分の主張を書いた手紙を多くのマスコミに送っていた。その中で手紙の全文を掲載したのは『創』だけだったことに「手が震えてしまいました」というのだ。『創』も決して彼の思考を肯定してはいないし、それを批判的に分析するために掲載したので、そんなふうに言われると複雑な思いだが、これを読んで気になったのは、彼の「私の考えは世間に出ることは無いと半ば諦めておりました」という記述だ。

 植松被告は昨年、「障害者は生きている意味がない」などという妄想を周囲に語り、反発を受けるのを意に会することなく犯行に突き進んだのだが、少なくとも自分の考えが到底受け入れられるものではないという認識は持っていたわけだ。精神的な病いなのかどうか考えるうえで、彼が自分自身をどのくらい客観的に見れているかというのは重要な判断要素なのだが、少なくとも彼は自分の言動が世間の意に反しているという程度の認識は持っているわけだ。

 植松被告の言動を見ると、どうやら精神的疾病により善悪の判断もつかないような状況とは違うようなのだが、では彼の昨年7月26日の津久井やまゆり園での信じがたい凶行をどう考えるべきなのか。彼の主張を優生思想、あるいは障害者を大量虐殺したナチスの思想と同じではないかとは、この間、指摘されていることだが、植松被告自身はその指摘をどう受け止めているのか。

 その私の質問に、彼は8月2日付の手紙でこう答えてきた。

《第二次大戦前のドイツはひどい貧困に苦しんでおり貧富の差がユダヤ人を抹殺することにつながったと思いますが、心ある人間も殺す優生思想と私の主張はまるで違います。

 赤ん坊も老人も含め全ての日本人に一人800万円の借金があります。戦争で人間が殺し合う前に、まず第一に心失者を抹殺するべきです。

 とはいえ、1千兆円の借金も返済できる金額ではなく、戦争をすることでしか帳消しにできないのかもしれません。

 ゴミ屋敷に暮らす者は周囲の迷惑を考えずにゴミを宝と主張します。客観的思考を破棄することで自身を正当化させております。》

 わかったようなわからないような答えだが、私はそのナチスとの違いに言及したくだりの前のこの一節がむしろ気になった。私が『創』とともに拙著『ドキュメント死刑囚』を送ったことへの感想だ。

《同封してもらいました「ドキュメント死刑囚」を拝読させていただきました。宮崎勤に関して執行までに12年かかっているわけですが、1食300円として食費だけで12年間で432万円の血税が奪われております。

 意思疎通がとれない者を認めることが、彼らのような胸クソの悪い化け者を世に生み出す原因の一つだと考えております。》

 執行まで12年というのは彼の誤解で、私と宮崎死刑囚がつきあったのが12年間で、逮捕から数えれば執行まで20年近くになる。その間、血税が無駄に使われるわけだから「彼のような胸クソの悪い化け者」は早く死刑にするべきだという主張のようだ。

 障害者殺害を唱える発想と全く同じなのだが、私が気になったというのは、宮崎死刑囚をもっと早く死刑執行すべきだったと主張する彼は、自分自身について一体どう考えているのだろうか、ということだ。彼に死刑が宣告される可能性が高いことは理解できているはずだと思うのだが、それについていったいどう考えているのか。そもそも拙著を送ったのは、彼が死刑を宣告された時にどんな状況に置かれどういう処遇を受けるか知っておいたほうがよいだろうという判断からだったのだが、どうも彼は自分をそれに重ねあわせて考えることをしていないようだ。

 もちろん昨年、犯行前に衆院議長のもとへ届けた手紙で言及していたように、心神喪失による無罪を主張するという発想は持っている可能性はあるのだが、その点についていえば、宮崎死刑囚だって弁護側は一貫してそれを主張していたし、宮崎本人も精神鑑定の本を獄中で読んだりしていたからその知識は持っていた。にもかかわらず裁判ではその認識は一蹴されている。それを思うと、植松被告の宮崎死刑囚に対するこの言及は気になった。彼は死刑について、あるいは死についてどう考えているのか。次はそれを訊いてみたいと思う。

 さて『創』誌上やウェブ上で植松被告の言動を紹介し、あの津久井やまゆり園での凄惨な大量殺りくがいったい何によって起こされたのか解明することが重要だ、と書いてきたことで、この間、多くの人から意見が寄せられている。前回の記事を発表したヤフーニュース個人やブロゴスにもいろいろなコメントがつけられているが、中には、もっと多くの精神科医や他の専門家の意見を紹介してほしい、という声もあった。

 『創』9月号には、精神科医の松本俊彦さんと香山リカさんに、植松被告の最初の手紙を読んでもらってその感想を寄せてもらっている。松本医師は、昨年の厚労省の検証チームのメンバーでもある。その二人の分析は、全文は長いので『創』を読んでいただくとして、ここでその要点のみ紹介しておこう。 

 香山さんも指摘しているが、植松被告の「悪魔的思考」と、社会全体が閉塞する中で「排外主義」が拡大していることとの関係は非常に気になるところだ。アメリカでレイシズムと批判されたトランプ大統領候補が当選を果たしたり、欧州で極右政党が躍進していることなど、排外主義が世界的に拡大しつつあり、日本でもそれはヘイトスピーチとして現れている。果たして植松被告の思考はそれと通底しているのかどうか。もしそれが通底しているとすれば、私たちはどうやってそれに抗すべきなのか。社会に突きつけられた課題は本当に思いと言わざるをえない。

●松本俊彦〔精神科医〕

植松被告の思想はヘイトというより優生思想  

 事件から1年が経過しても、彼の思想には何らのブレはなく、ある意味での一貫性があります。このことから、彼の思想内容は、大麻による薬理学的影響によるものでもなければ、双極性状態(躁状態)によって影響されたものでもないことがわかります。

 彼の思想は、生産性、効率性、社会的負担を判断基準とした、いわば「憂国の士による障害者無用論」と感じました。実際、手紙の中には、出生前診断の意義と限界に言及したともされる箇所もあります。その意味では、昨年の殺傷事件を支える思想は、障害者に対する「憎悪(ヘイト)」というよりも、優生思想であるといえるでしょう。

●香山リカ〔精神科医〕

1年たっても何の答えも出ていない

 1年前の事件ではとくに被告には精神科病院に措置入院歴があり、マスコミがそれを求めたのは当然と言えますが、当時もそしていまこの書状を読んでも、彼の凶行の原因を“なんらかの精神疾患の症状”に求めるのはほとんど不可能ではないか、と思われます。誇大妄想や被害妄想、観念の奔逸、犯行を命じる幻聴の存在などはいずれもほぼ否定されるでしょう。

 では、彼は精神医学の診断ガイドラインではどこにも分類されないので、“正常”と考えられるのでしょうか。もちろんそれはまったく違います。重度・重複障碍者に「不幸の元である確信」を持ち、「意思疎通が取れない人間を安楽死」させよ、と言い切る被告は、私たちの社会の基本である人権の概念を根底から否定する、あえて言うならば“悪魔的思考”の持ち主です。

 精神医学の枠内ではとらえきれない、私たちの社会を壊すような“悪魔的思考”やその実行に私たちはどう対処すべきか(あるいは、それは「内心の自由」なのだから対処すべきではないのか)。さらには、それを醸成するようないまの社会の排外主義的な空気をどう払拭すればよいのか。事件発生直後からクローズアップされてきたこれらの問題に、結局、1年後のいまもなんの答えも出ていない。そのことが改めて明らかになった思いがしました。   以上