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貴重な300種類以上のゲームを残したい! 地方で奮闘する「日本ゲーム博物館」

鴫原盛之ライター/日本デジタルゲーム学会ゲームメディアSIG代表
「日本ゲーム博物館」のスタッフ(吉田尚弘撮影)

 2012年11月に、愛知県犬山市にオープンした「日本ゲーム博物館」は、340平方メートル(総床面積)の館内に懐かしのアーケードゲームやピンボールなど、約120台を展示。開館直後から、アーケードゲームファンを中心に一躍その名を知られる存在となった。しかも、ゲームの筐体(機械)を置いただけでなく、その大半を遊べる状態で展示していたことから、たいへんな人気を博していた。

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旧「日本ゲーム博物館」。現在は移転準備中(小牧ハイウェイ企画提供)
旧「日本ゲーム博物館」。現在は移転準備中(小牧ハイウェイ企画提供)

 同館は2016年より休館し、2022年春の移転・リニューアルオープンに向けて、各種ゲームのメンテナンス業務などに日々注力している。 同館によるアーケードゲームのアーカイブ活動は、2017、2018年度には文化庁の支援事業(※1)にも選ばれている。また同館では、今年6~8月に名古屋市博物館で開催された「ゲームセンターの思い出展」にアーケードゲームの筐体を貸し出すなど、他団体への協力も行っている。

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名古屋市博物館で開催された「ゲームセンターの思い出展」(筆者撮影)
名古屋市博物館で開催された「ゲームセンターの思い出展」(筆者撮影)

始まりはピンボール収集から

 そもそも、なぜ「日本ゲーム博物館」を作ろうと思ったのだろうか? そしてリニューアル後は、いったいどのようなものになるのか? 旧「日本ゲーム博物館」の館長を務め、現在は株式会社小牧ハイウェイ企画取締役として、リニューアルの準備を進める辻哲朗氏(62歳)と、同社店長の半澤雄一氏(50歳)にお話を伺った。

 辻氏によると、「日本ゲーム博物館」の前身は、同氏が当時勤務していた会社が2000~2007年に経営していた「世界の時計・オルゴール博物館」だったという。

 「『世界の時計・オルゴール博物館』は、お客さんが全然来なくてずっと赤字だったんです。そこで会長から、『もうどうにもならんから、お前がやれ。好きなようにやっていいから』と言われまして、最初は断ったのですが、2007年に渋々引き受けたのがそもそもの始まりです」(辻氏)

 その後、ゲームの博物館を作るまでには、さまざまな紆余曲折があった。

「何もない、誰も来ない山の中で、どうやったらお客さんが集まってくれるのか、いろいろと試行錯誤しました。映画のポスターやパンフレットを集めた資料館にしたこともありましたが、最初は懐かしがってくださったお客さんでも、また来ようとは思ってくれないこともあって、短命で終わってしまいました。

 その次に、親父バンドのライブハウスにしました。お客さんは結構来たのですが、採算が合いませんでした。ところが、そこに2台ほど置いてあったピンボールを、たまたま来たお客さんがインターネットに書き込んだら、それを目当てに毎週お客さんが来るようになったんです。

 それなら、ピンボールをジャンジャン集めてみようかということで、廃棄されるという情報を聞きつけてトラックで引き取りに行ったり、海外の所有者からネットオークションで落札したものを送ってもらったり、日本全国のオペレーター(※アーケードゲーム機器類の販売業者)さんや、コレクターの皆さんから譲っていただいたりして集めました。その後、2011年に『日本ピンボール博物館』として運営を始めたところ、こちらはまずまず賑やかになりましたね」(辻氏)

小牧ハイウェイ企画の辻哲朗氏(左)と半澤雄一氏(吉田尚弘撮影)
小牧ハイウェイ企画の辻哲朗氏(左)と半澤雄一氏(吉田尚弘撮影)

 当初はゲームの博物館という構想はまったくなく、きっかけは偶然置いてあったピンボールだったというのだから驚きだ。

 「それである日、ピンボール目的のお客さんを集めてミーティングをしたんです。どうやったらお客さんが来るようになると思いますかと聞いたら、『アーケードゲーム全般を集めたらどうか』というご意見をいただいたんです。そこで、いったん数ヶ月休館して、アーケードゲームを集めることにしました。

 ゲームセンターで不用になったり、ネットオークションで気になった筐体などがあればどんどん買っていきました。オペレーターさんからは、レースゲームの「レイブレーサー」などを無料で寄贈していただくこともありましたが、高いものですとアメリカから個人輸入した、ピンボールの名作と言われている『メディーバル・マッドネス(Medieval Madness)』のように、運賃込みで200万円ほど掛かったものもありました。

 その後、2012年11月に『日本ゲーム博物館』としてリニューアルオープンしたところ、おかげ様でブレイクしまして、週末は駐車場がいっぱいになるほどお客さんが集まるようになって、2015年には黒字化もできました」(辻氏)

旧「日本ゲーム博物館」館長を務めた辻氏(吉田尚弘撮影)
旧「日本ゲーム博物館」館長を務めた辻氏(吉田尚弘撮影)

長期休館の背景には壮大な構想が

 黒字化に成功し、順風満帆だった「日本ゲーム博物館」だが、2016年から長期の休館が続いているのはなぜだろうか? お二人に尋ねたところ、実は壮大な構想を描いていることを明かしてくれた。

 「場所さえ問題なければ、このまま継続しようと思っていましたが、だんだん手狭になっていたこともあり、将来のことも考えて次の場所を探そうと、いったん休館することにしました。当時お付き合いしていた設計事務所の先生に、どこかいい場所はないかと相談したら、たまたまその方が小牧市内にハイウェイオアシスを作るための立ち上げメンバーだったんです」(辻氏)

 中央自動車道が走る小牧市では現在、「ハイウェイオアシス構想」が進められている。辻氏によれば、小牧市など内陸部の尾張地区は「海側に比べると、もうひとつ盛り上がりに欠ける」ことから、地域活性化を目指して地元の有志が集まって作った会社が、小牧ハイウェイ企画なのだという。

 「ハイウェイオアシスに人を集めるのであれば、フードコートや観覧車を作るだけではダメだろうから、目玉になるものとして『ゲーム博物館を移転してはどうか』というお話をいただいたんです。そこで、私が個人で持っていたゲームのコレクションを小牧ハイウェイ企画が全部買い取り、私自身も出資をして取締役になりました。

 現在は、関係する機関や行政からも指導を受けながら準備を進めています。最初は個人で、どこかの倉庫を借りて移転しようと思っていたのですが、いつの間にかビッグプロジェクトになっちゃいましたね(笑)。ハイウェイオアシスは2022年春の開業を目指して、さまざまな課題に取り組みながら努力しているところです」(辻氏)

 つまり「日本ゲーム博物館」は、もはや辻氏だけではなく、周辺地域や行政をも巻き込んだビッグプロジェクトへと発展していたのだ。

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 倉庫内には古今東西、あらゆるジャンルのアーケードゲームがぎっしりと保存されている(吉田尚弘撮影)
 倉庫内には古今東西、あらゆるジャンルのアーケードゲームがぎっしりと保存されている(吉田尚弘撮影)

日々のメンテナンス業務の実施体制

 現在、「日本ゲーム博物館」では300種類以上のアーケードゲームと、約160台のピンボールを所有している。コックピット部分が可動する機構などが搭載された、大型筐体を使用するゲームも多数コレクションしている。

 「私は以前に運送・倉庫屋もやっていましたので、それを生かして大型の体感・専用筐体を主に集めようと思ったんです。『日本ゲーム博物館』という名前にした以上は、ゲーム全般を集めようということで、1960年代のエレメカから2005年頃のゲームまで、ジャンルを問わずに集めるようにしています」(辻氏)

 ところで、ゲーム業界出身ではない辻氏が、ゲームのメンテナンス技術をいったいどうやって覚えたのだろうか?

 「最初は修理のノウハウを全然持っていませんでした。ピンボールは、近所のリサイクルショップにあった動かないものを、9,800円で譲ってもらったんです。どうやって直そうかとインターネットで調べたら、アメリカには今でもピンボールのパーツを扱うショップがいっぱいあって、文献やマニュアルも公開されていることがわかったんです。そこから部品を取り寄せて修理したら、2ヶ月ほどで動くようになりました。それがスタートでしたね。

 車をいじるのが好きで、修理工をしていたことがありましたし、コンピューターも大好きでしたので、20代前半の頃には秋葉原に通って、後に自身もプログラマーになってwebデザイン会社を興した経験もありました。中学生の頃はラジオやアマチュア無線もやっていましたし、今までやってきたことを総動員して、日々ゲームを直しています。まさに、人生の集大成ですね」(辻氏)

 とはいえ、数百台にも及ぶコレクションのメンテナンスを続けるのは、辻氏だけではとても手に負えない。現在、「日本ゲーム博物館」はスタッフは7人。40代以上のパートが多いが、20代の若手も1人いて、半澤氏とともにフルタイムで働いている。

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きたるリニューアルオープンに向け、倉庫内でメンテナンス業務に励むスタッフ(吉田尚弘撮影)
きたるリニューアルオープンに向け、倉庫内でメンテナンス業務に励むスタッフ(吉田尚弘撮影)

 「30年以上もゲーム一筋のエキスパートもおりまして、彼には若手の教育もしてもらっています。まだ完全な準備はできていませんが、直せと言えば直せるような人員体制は作れたのではないかと思っております。もし自分たちで直せない場合は、目的を達成するためには手段を選ばずの方針で、できる人を探したりしています。

 みんなゲームに情熱、愛情を持って仕事をしてくれますので、本当にありがたいですね。私からは、ゲームの修理でわからないことがあったら、自分で調べて勉強しろと言っています。私自身、何十年間もプロが直せなかったものを、インターネットを利用して直せたことが過去に何度かあったんですよ。

 英語版のマニュアルは、インターネット上でかなり公開されているんです。日本では情報がクローズされることが多いのですが、欧米では修理をした人が情報を上げてくれることもあるんです。ですから、若い人には検索技術と英語、それと情熱が必要だよとも言っています」(辻氏)

何かと苦労が絶えないメンテナンス業務

 しかし、情熱のあるスタッフがそろったとはいえ、古い機械を扱うがゆえの苦労もあるという。

 「ブラウン管の維持は特に大変ですね。今でも直してくれる業者はいるのですが、古くてダメになったものは液晶モニターに移行しなくてはいけないのかなと思っています。以前、海外製の汎用モニター基板を試したことがあるのですが、その時は機械が火を吹いてしまいました(笑)。

 ゲームの場合は、古いものよりも新しいもののほうが、むしろ復活させにくいんです。古い機械は目で壊れた場所が見えますし、例えばコイルがダメなら自分で巻いたりすれば直せますが、基板にコンピューターが載ってしまうと、もう自分でハンダ付けをするだけでは修理ができないんです」(辻氏)

 「記憶媒体の問題もあります。DVDのような光学系のメディアを使った基板は、メディアに書き込まれたデータを読み取るための駆動部分が壊れやすいですね」(半澤氏)

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ブラウン管が壊れた筐体は、新たに液晶モニターを取り付けて動くようにするなど、古い機械のメンテナンスには多くの苦労がつきまとう(吉田尚弘撮影)
ブラウン管が壊れた筐体は、新たに液晶モニターを取り付けて動くようにするなど、古い機械のメンテナンスには多くの苦労がつきまとう(吉田尚弘撮影)

 苦労を重ねながらも、日々意欲的に取り組めるのは、辻氏の並々ならぬ情熱が各スタッフにもしっかり伝わっていることも大きな要因だろう。

 「まだアーケードゲームの時代が終わったわけではありませんが、トレンドがどんどん変わってきていますので、だからこそ博物館が必要であり、『こういう時代があったんだよ』という足跡を残したいなと思っております。今の私の役目は、オープンまでにすべてのコレクションを良好な状態に保つことですね」(辻氏)

展示品の貸し出しにも意欲

 「日本ゲーム博物館」では、前述した名古屋市博物館での「ゲームセンターの思い出展」のほかにも、以前から支援活動を行っている。

 「ゲームの貸し出しを最初に行ったのは、2016年の『GAME ON』(※2)です。それ以前にも貸し出しのご要望はあったのですが、ずっとお断りしていました。ですが、私は宇宙が大好きだったので、館長の毛利(衛)さんから直々に『貸してほしい』と言われたので、さすがに断れなかったですね(笑)。最近では、六本木ヒルズの『スペースインベーダー』のイベント(※3)にも貸し出しをしました」(辻氏)

 また、名古屋市博物館では、来年の夏にも展示イベントが実施される予定とのことだ。

 「今回よりも規模を大幅に拡大して、80台程度のゲームを並べた展示イベントにしようと準備を進めています。まだ確定ではないのですが、昔のデパートの屋上ゲームコーナーから喫茶店、ゲーセンへという時代の移り変わりを見せて、最後にeスポーツへとつながるような見せ方ができればと考えております」(半澤氏)

 さらに、ほかの公共施設や企業にも、ゲームを貸し出す構想も持っているそうだ。

 「今後はご要望があれば、できるだけ協力をしていきたいと思っております。筐体の数はたくさんありますので、テーマパークのような広い所でもおそらく大丈夫だろうと。公共施設でも商業施設でも、『レトロゲーム展』などをやりたいなという所がございましたら、ご相談に応じます」(辻、半澤氏)

 今では貴重になったアーケードゲームの保存・アーカイブ化にとどまらず、地域経済の発展、さらには別施設のイベント支援という役割も担うことになった「日本ゲーム博物館」。今後の動向には、ぜひとも注目したい。

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スタッフのみなさん。「レトロゲーム ナオスンジャー」とプリントされた制服を着用し、情熱をもって日々業務に取り組んでいる(吉田尚弘撮影)
スタッフのみなさん。「レトロゲーム ナオスンジャー」とプリントされた制服を着用し、情熱をもって日々業務に取り組んでいる(吉田尚弘撮影)

■参考

※1:平成30年度メディア芸術アーカイブ推進支援事業 採択一覧(PDF)(文化庁)

http://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/media_art/pdf/r1392524_05.pdf

※2:企画展「GAME ON ~ゲームってなんでおもしろい?~」(2016年3月2日~5月30日、日本科学未来館)

https://www.miraikan.jst.go.jp/spexhibition/gameon/

※3:誕生40周年記念「PLAY! スペースインベーダー展」(2018年1月12日~31日、六本木ヒルズ展望台 東京シティビュー)

https://tcv.roppongihills.com/jp/exhibitions/play_space_invaders/

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は、個人の発信者をサポート・応援する目的で行なっています。】

ライター/日本デジタルゲーム学会ゲームメディアSIG代表

1993年に「月刊ゲーメスト」の攻略ライターとしてデビュー。その後、ゲームセンター店長やメーカー営業などの職を経て、2004年からゲームメディアを中心に活動するフリーライターとなり、文化庁のメディア芸術連携促進事業 連携共同事業などにも参加し、ゲーム産業史のオーラル・ヒストリーの収集・記録も手掛ける。主な著書は「ファミダス ファミコン裏技編」「ゲーム職人第1集」(共にマイクロマガジン社)、「ナムコはいかにして世界を変えたのか──ゲーム音楽の誕生」(Pヴァイン)、共著では「デジタルゲームの教科書」(SBクリエイティブ)「ビジネスを変える『ゲームニクス』」(日経BP)などがある。

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