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SNS誹謗中傷問題をニュースメディアが自分事として考える理由

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
一見、別物に見えるSNS上の個人投稿と新聞だが…(写真:アフロ)

日本新聞協会が総務省に意見書を提出

7月22日、日本新聞協会が総務省に意見書を提出した。今、大きな社会問題となっているSNS上の誹謗中傷問題への法的対策のあり方についての意見だ。

この意見書は各ニュースメディアでも昨日中に報道された。

新聞協会、SNS規制に「被害者救済と表現の自由のバランスを」意見書提出(毎日新聞7/22(水))

過度な規制、「表現の自由」の萎縮に…総務省対応案に新聞協会が意見書(読売新聞7/22(水))

ネット中傷で意見書提出 「事業者が透明性確保を」 新聞協会(時事通信7/22(水))

報道の見出しを見るだけでも、おおよその方向が見て取れる。SNS規制を考える場合、「被害者救済と表現の自由のバランス」をとることが必要で、そこを見誤ると「表現の自由」の萎縮につながってしまう。そして対策の中心は、言論への規制ではなく、SNS事業者や通信事業者の責任の範囲をどう考えるか、というところになるべきだ。というふうにまとめることができる。

この文書は以下のサイトで公開されているので、全文を見ることができる。

「一般社団法人日本新聞協会>声明・見解」

「インターネット上の誹謗中傷への対応の在り方について(案)」に対する意見」pdf

なぜ新聞メディアが

偶然だが、この意見書発表の前日の21日、筆者は新聞協会の会議室で行われた「マスコミ倫理懇談会全国協議会」に招かれて、「SNS表現の自由・責任・法の限界」と題した講演を行わせていただいていた。三密を避けて定員を少なめに限定したとのことだったが、新聞・テレビ・ネットニュースメディア・広告代理店関係者から、上限いっぱいの35名ほどの参加者があった。

2020年7月21日 会場にて 志田陽子撮影 
2020年7月21日 会場にて 志田陽子撮影 

この講演でお話ししたこと全体はいずれ時間を見て自分でも文章にしたいと思うが、ここでは、その中のごく一部を、この新聞協会意見書に関連して敷衍してみたい。

木村花さんの自殺によって大きな社会的関心事となった「SNS誹謗中傷問題」は、個人がメディアのフィルターを通さず、自分の言葉をそのまま発信する場面で起きた問題である。言い換えると、ここで起きた問題は、個人ユーザーから個人ユーザーに対して行われる表現に関する問題であって、報道被害の問題ではない。それなのになぜ、「新聞」協会がこれだけの意見書をとりまとめて総務省に提出したのか。法学関係者の間では、このような素朴な話題はまず出ないと思うが、ここではそうした素朴なことを、確認してみたい。

この問題で、メディア自身が当事者性をもつ可能性はあまりないように見えるかもしれない。メディアはすでにさまざまな自律的取り組みを行っている。放送メディアの場合には放送法4条1項の「公安及び善良な風俗を害しないこと」(1号)、「報道は事実をまげないですること」(3号)を受けて、放送する内容にはさまざまなフィルターをかけている。一般人への誹謗中傷(たとえば名誉毀損)に当たらないように事実調査を行う、差別表現・ヘイトスピーチに当たるような言論や露骨な性表現に当たるような言葉は放送しない、などである。

そして、ここに入らない新ジャンルである「リアリティ番組」のあり方が問われることとなり、今はBPOの審査中であるという。今後、この方面でも、今回の経験からなんらかの倫理ルールができてくると思われる(筆者自身は、「出演者に違約金支払いを課す契約のあり方はぜひ見直してほしい」と講演の中で述べた)。

これに対して新聞は、法律による規制・統制を受けていない。掲載禁止事項を細かく定めていた戦前までの「新聞紙法」は、1949年に廃止された。以来、新聞メディアのコンプライアンス(法的な遵守事項)やリライアンス(信頼性)は、新聞協会が制定する「倫理綱領」を各新聞社が共有することで確保されてきている。この綱領を見ると、法律上禁止されることを禁止するにとどまらず、より高い良識や品格を持つことを訴える内容となっており、この倫理を相互共有している新聞報道が、いわゆるSNS誹謗中傷の発言当事者となることは考えにくい。

SNS誹謗中傷問題というのは、そうしたメディアのフィルターを通さない、個人が直接に発信者となる場合の問題である(記者やコメンテイターが個人として発信する場合はこちらの場面となる)。

新聞・出版・放送メディアとは違い、インターネット事業者の場合は、編集者が入って内容を編集することはしない。したがって初期の頃にはこうした問題はSNS事業者もネット接続事業者(プロバイダー)もノータッチだったわけだが、それでは名誉毀損やプライバシー侵害があったときに被害が救済されない状態が続いてしまう、ということで、SNS事業者やネット接続事業者(プロバイダー)も被害救済のための協力責任を負うことになった。この協力責任として、投稿の削除や投稿者情報の開示を行うと、投稿者との間では、投稿内容を掲載する義務や個人情報守秘義務を破ることになり、契約違反・法令違反が起きてくる。

イメージ画 武蔵野美術大学学生作品(許諾済)
イメージ画 武蔵野美術大学学生作品(許諾済)

こういう時、必要な対応をしたプロバイダ業者はそのことで法的責任を負わない、というルールを定めたのが、「プロバイダ責任制限法」である。これはすでにあったのだが、その趣旨が十分に生かされていない、ということで、今、総務省が見直し検討を行っている。

こうしたことから、多くの人は、未熟で低劣な表現や、確信的な悪意や侮蔑を内容とするSNS誹謗中傷の問題と、報道の問題とは、まったく別路線にあるものとしてイメージしているのではないかと思う。

法律の視点はミクロとマクロの複眼

しかし、法的規制や、裁判理論で考える場合には、このイメージを取り払って考える必要がでてくる。法律は、本質的に同じ質の出来事(権利侵害や犯罪)が起きた場合には、同じ救済や同じ禁止が及ぶように作らなければならないので、抽象的な言葉を使う。「AさんがBさんを◎◎と呼ぶのは許しません、CさんがDさんを◎◎と呼ぶのは不問とします」という定め方になってはならず、発言者が誰であろうと、「ある人がある人の名誉(社会的信用)を毀損する発言をしたら名誉毀損」、「ある人がある人の隠してきた情報を無断で公開したらプライバシー侵害」ということになる。そこに「SNS上の誹謗中傷」という問題が加わってきた。

だから、SNS誹謗中傷に対応する法制度を定めることになった場合にも、法律上は、SNSに参加する一般人も、私企業である新聞社も、同じ「私人」というカテゴリーに入るので、同じ扱いになる。

ここで、法律の世界は常にミクロな視点とマクロな視点の両方をもっているのだということを確認しておきたい。ミクロな思考とは、被害者や加害者一人一人の事情や体験に寄り添う思考である。裁判を請け負った弁護士や相談を受けたカウンセラー、当事者の事情に密着して取材をするときの新聞記者は、各々、この立場に立つ。このミクロな視点がなかったら、生きた法律論はできないのだから、これは絶対に必要なことである。

同時に、法律の世界は、マクロな視点もとらなくてはならない。ある法律ルールが、不必要な巻き込み(過剰包摂)を起こさないかどうか、そして理論上は巻き込みを回避する策がとられたとしても、表現をする当事者がその巻き込みをおそれて表現を控える状態(萎縮)が起きないかどうか。「表現の自由」は、この思考を促す理論である。

つまり、「このような被害を今までよりもシリアスにとらえる必要がある」という認識を社会に促す必要があるときには、メディアも法律論も、まず被害者に寄り添う思考をとることになるのだが(第一段階)、それが社会や公に認識され、法制度に反映されてくる段階になると、それ以外の要素を広く視野に入れなくてはならなくなる(第二段階)。新聞協会が「バランスを」というのは、この第二段階の思考である。

「今回の規制の議論は悪質な誹謗中傷を対象とするもので、正当な批判を対象としているわけではない」ということで、この二つを切り分けたい論者もいるかもしれない。規制を急ぐべき、刑事罰を導入すべきと考える論者で、そう考えている人は多いと思う。しかし、この第二段階になってくると、この説明では足りないのである。

ここで必要になるのは、当初の意図を超えて巻き込まれてくる言論、萎縮することになる言論が出てこないか、どういう場合が想定されるか、という思考である。規制のあり方によっては、新聞などの報道メディアの活動が巻き込まれる可能性はさまざまに出てくる。だから、こうしたメディアが、影響を受ける当事者として注意喚起を求める意見書を出すことには意味がある。

イメージ図 武蔵野美術大学学生作品(使用許諾済)
イメージ図 武蔵野美術大学学生作品(使用許諾済)

どういう事柄が巻き込まれてくる可能性があるのか。詳細は別稿で改めて考えたいが、いくつか書き出してみると、まず「誹謗中傷」というのは法律用語ではなく、かなり抽象的な言葉だ。この数か月の多くの人の用法を見ると、「誹謗」は悪辣なけなし言葉、「中傷」は事実無根の事柄を言いふらすこと、といった辞書的な定義も離れて、言われた人間にとって「ひどい」「傷つく」と思えること全体を漠然と指しているように見える。この言葉の今の感覚的用法をそのまま法律論に持ち込むと、言論の自由度が相当に圧迫を受ける。被害者に寄り添う思考だけで制度を作るわけにいかない部分である。

また、政策の良しあしを抽象的に批判することは許されても、政策にかかわった公人やその家族の関与を具体的に挙げて問題追及をすることは、名誉毀損にはあたらなくても誹謗中傷だ、という形で抑え込まれる可能性は出てこないか。発信者情報の開示についてのルールも、十分に作りこまないと、スラップ訴訟に利用されたり、政治家が自分に批判的な発言者の個人情報を取得する手段として使う可能性はないか。

対策として考えられる案と、こうした《意図しなかったが生じうる問題》の可能性とを天秤の上に乗せて、つき合わせて綿密な検討をする。そうした思考が、法律にかかわる制度設計には必要となる。新聞協会の意見書はその論点を示している。

最近ではこういうときに「慎重」という言葉を使うと、案を否定するときや検討をしないことの言い換えと受け取られることも多い。筆者はそうではなく、材料を天秤の上に乗せた上で検討を、という意味で「緻密な」「綿密な」という言葉を使いたい。21日に新聞協会会議室でお話をしたさいにも、とくにこの言葉を使わせていただいた。影響を受ける可能性のあるさまざまな立場の人々から意見が出され、さらなる検討が進むことを願っている。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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