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コロナの時代の「言論の自由」ーー 「緊急」の中でこそ「批判の自由」が大切な理由

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
いま必要な「自粛」は、波風を立てない「同調」を求めることとは異なる(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

1 緊急事態、憲法があるから必要な措置ができない、は誤り

4月7日の緊急事態宣言から4日が経過した。

この方向に向かうべきではない、と思う流れがいくつか出てきた。

ひとつは、今回の「緊急事態宣言」と憲法改正論議の中で言われる「緊急事態条項」とはまったく別物なのだが、今回の緊急事態措置を行うために憲法改正論議が必要だ、との発言が一部議員と首相から出たこと、もうひとつは「批判」の価値を否定するムードが、著名人のメディア発言や一般人のSNS発言の中から出てきたことである。

緊急事態、改憲論議も必要 安倍首相 時事通信、4月7日配信

今回の緊急事態宣言と、それに伴う各種の措置(政府と自治体が行う休業要請や自粛要請など)は、現行憲法のもとにある「改正 新型インフルエンザ対策特別措置法」に基づいて行われるものである。これは憲法改正によって新設することが提唱されている「緊急事態条項」とは、まったく異なる。一方、「緊急事態条項」は、一口に言えば、政府の判断で民主主義のプロセスを止めて、政府(行政権)だけの判断で法律と同じ効力をもつ政令を発令できる、というものである。

今回の新型コロナウイルス対策について、「現行憲法のもとでは有効な対策が行えない」とするのは、まったくの誤りである。感染症拡大防止のために政府が最大限の努力をすべきことは、現行憲法と抵触しないどころか、憲法が求めていることなのである。

国には、憲法25条1項によって「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する責任、25条2項「公衆衛生」によって感染症を防止する責任がある。25条2項は努力義務にとどまる規定になってはいるが、政策努力を行うべきことは、憲法が国に要請している。

このために経済活動にどうしても今以上の制約をしなくてはならないときには22条・29条の「公共の福祉」に基づいて、法律のもと、政策を打つことができる。医療施設増設のために、土地建物などの財産を収用することも可能である。営業自粛にともなう損失補償をどこまでやれるかは、今、国中を巻き込む争点となっているが(もちろん国には最大限の誠実な対処を求めたいが)、土地建物などの財産を国が収用して使う場合には、買い上げなど「正当な補償」をすることを条件に「やっていい」と、憲法29条3項が言っているのである。

これらに憲法改正は必要ない。コロナ問題が憲法改正の正当化のために利用されている、あるいは、現行憲法が必要な措置をやらないための言い訳として利用されていると見えても仕方がない。無用の回り道をしている暇があったら、必要な措置をとるための議論と実施を迅速にやってほしい、と言わずにはいられない。

2 民主主義と「表現の自由」

このすり替えは、言葉がまぎらわしいことに加えて、民主主義をまともにやるのは面倒だという政府側の傾向に端を発しているのではないだろうか。その傾向は、2015年9月の安保法制に関する法改正の実質強行採決のときにも、2017年に憲法53条に基づく臨時会開催要求を黙殺して衆議院解散が行われたときにも、顕著だった。解散総選挙をやることが民主主義なのではない。選ばれたからには「民主主義」のルールを定めている憲法を守りつつ、民意を汲み取りながら必要な仕事を粘り強く行うことが、本来の民主政治である。その《粘り》が失われる傾向が続いてきたことを、まず前提として思い起こしておく必要がある。

そして2020年4月11日現在、営業自粛をする人々への休業補償や生活保障が有効な形で進まず、「宣言」を受けた自治体の決断に対して「宣言」を出した側の政府(内閣)のほうが及び腰な姿勢を見せてしまったため、多くの関係者をダブルバインド状態に置いてしまったこと、さらにまだ感染拡大リスクを高める行動をとっている人々が散見されること、などなどが重なった。その状態に業を煮やした一般人の側から、「もっと強い強制力を発揮してほしい」という声も出てきている。しかし、ここで警察などの「強制力」に頼ることは、大きな代償を伴う。歌舞伎町ですでにそれが起きていることを指摘する動画がツイッター上に投稿されている。)。

このように警察による威嚇で抑え込んだり、憲法を改正して「緊急事態条項」を発動して抑え込んだりすれば、コロナ問題を切り抜けた後の社会が、民主的な社会に戻れなくなっていく。

ここには「民主主義では埒が明かない」という一般人側の諦観も流れ込んでいるように見える。しかしここで民主主義という面倒な方式を手放し、「黙って政府にお任せコース」を選択することは、肺の疾患から逃れるために脳や心臓を手放すことと同じである。ここで「脳」というのは、「自分のことは自分で決める」という自己統治の意志、「心臓」というのは、その意志や情報を社会にめぐらせる血流ポンプのことである。その血流を支えるのが「表現の自由」である。「表現の自由」にとって「批判の自由」は最も大切な要素である。

民主主義を支えるのは「言論の自由」である。民主主義から「言論の自由」が見失われると、「選挙でいったん選んだ人々のすることには従うしかない」というロジックがまかり通ってしまい、民主主義という言葉は、為政者のすることを正当化するための合言葉に堕してしまう。日本国憲法は16条で「請願権」を保障し、19条で「思想良心の自由」を保障し、21条で「表現の自由」を保障しているが、それは、「いったん選んだらおしまい」にしないための権利保障である。

3 批判の抑え込みと情報統制が行われるのか?

選ばれた側の為政者にしてみれば、大変なときには口出しをしないでほしい、忙しいときには雑音につきあってはいられない、という気分に駆られやすいだろう。そして為政者は常に大変だったり忙しかったりするだろう。だからこそ、その言い訳によって「言論の自由」が封じられることのないように、憲法は「表現の自由」を明確に保障することで、その言い訳のほうを封じる役割を担っている。しかし、コロナ対策に関連して、ここに懸念すべき状況が起きてきた。たとえば、次の新聞報道の見出しが問題の所在をよく伝えている。私たちは、このテーマに関しては、約80年前の歴史に学ぶべきことが、まだまだある。

「国難だから政権批判するな」が生み出す「本当の国難」  毎日新聞デジタル 4月11日

また、緊急事態宣言が発出された4月7日同日、外務省が新型コロナウイルスへの日本政府の対応に関し、SNS上の投稿をコントロールすることが報じられた。

海外SNS投稿、AIで情報分析 政府コロナ対応巡り   毎日新聞デジタル4月7日

これによれば、外務省は新型コロナウイルスへの日本政府の対応に関し、海外からのSNS投稿を人工知能(AI)などで調査・分析したうえで、誤った情報に反論する取り組みを始めるという。集団感染が起きたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の対応を批判する投稿が相次いだことを踏まえた対応だという。ツイッターなどの情報を分析する企業に委託し、主要20カ国・地域(G20)などからの書き込みを収集・分析する。誤った情報だけでなく、関心が集まる懸念事項があれば、日本政府が「正しい情報」を発信する、とも報じられている。

誤った情報(デマ)への対応は、状況によっては必要だろう。表現を規制・制約するのではなく(これはやってはいけない)、たとえば感染者数などの公共情報について、謝った情報(デマ)が拡散されたとき、「正確な情報はこちらです」とアナウンスする、などである。「関心が集まる懸念事項」について「正しい情報」を発信する、というのは、素直に読めばこの意味だろう。

しかし、この動きを「批判を封じ込める情報操作」と見て、強い警戒を示す論説もある。

24億円! 厚労省でも同様の予算…国民の生活補償より情報操作に金かける安倍政権  リテラ 2020.04.10 配信

この記事によれば、この外務省の対応には24億円の予算が計上されており、さらに今月7日以降、外務省以外の省庁でも同種の対策に予算を割いているという。7日に閣議決定された新型コロナの緊急経済対策で、感染拡大防止の一環として「情報発信の充実」が掲げられたことを受けてのことだという。

この「対策」は、政府批判を封じ込めて、政府がよしとする内容だけを「正しい情報」とする言論統制となるのかどうか。その可能性はある。今、そうだと断言することまでは筆者にはできないが、ここは国民がその方向を食い止めるためにしっかり見続ける必要がある。※

そのときに必要なのは、批判的思考である。

※【4月12日追記:外務省が出したPDF文書を見てみると、この情報対策は、「感染症を巡るネガティブな対日認識を払拭するため,…SNS等インターネットを通じ,我が国の状況や取組に係る情報発信を拡充。」とある。発信を削除させるなどの粗暴な抑え込みではないようである。しかし、日本の対策に対しては海外から、数々の疑問や批判が寄せられており、この中には貴重な指摘が多く含まれている。これを「払拭する」姿勢が正しいのかどうか。この問題は、後日、稿を改めて論じたい。】

4 「批判をしている場合ではない」?

「国難」「緊急」「非常時」といった言葉は、「今は批判をしている場合ではない」というムードを作り出しやすい。たとえば、次の記事の見出しはどうだろう。

YOSHIKI「今は誰かを批判する時ではない」「人間の強さを見せつける時」に賛同続々 スポニチ4/11(土) 配信

アーティストの発言は、ときに大きな社会的影響力を持つ。YOSHIKIは「ライブ自粛を呼びかけるなど新型コロナウイルス感染拡大防止について発信を続けている」という。ライブが感染を拡大させる危険性については、だいぶ明確になってきた。音楽に感染拡大の危険性があるわけではない。ライブでは、人間の呼吸を介した集団感染が起きやすい、という話である。これは専門家だけが語りうる知識ではなく、周知の常識になったと見ていいだろう。

この人物のこの言葉自体は、政策批判に言及したものではなく、自粛せずに集客ライブを行った他のアーティストたちを批判するつもりはない、という意味らしい。ほかにもスポーツ選手などの著名人の中から、似た趣旨の発言が見られるようになってきたが、これも、スポーツイベントが中止になったことへの無念や悔しさを今はこらえよう、という意味だと思う。私はこれらの呼びかけを、条件付きで意義のあるものと思っている。条件付きというのは、これが「批判の自由」を塞ぐ空気を作り出す可能性があることには注意が必要だからである。そこで、とりあえず、「批判」を二つに分けてみる。

(1)批判的思考というものは、人間が自分らしく生きるためにも、社会を作っていくためにも、必要なものである。かみ砕いて言えば、与えられたものを絶対化せず、自分の頭で考えて、正しいと思うときには賛同し、間違っていると思うときには賛同しない、といったことである。

また、当事者として「それではない」と言わなくてはならないときもある。足を骨折して松葉杖が必要だと言っている人に竹馬が与えられたら、「私が必要としているのは、それではなくてコレなんです」と言うべきだ。まともな為政者であれば、現実のニーズに噛み合った施策をしよう、そのための情報は「それは違う」という批判も含めて必要だ、と考えるはずである。

このとき、私たちは当然に、批判的思考を働かせている。その結果の賛同ならば、無自覚な同調や従属ということにはならない。

(2)一方、ある人が言うことは反射的にすべて間違っていると考え、「その手はくわないぞ」と否定する姿勢を示すことを「批判」と呼ぶ場合もある。あるいは、誰かをけなして叩いて楽しむ、憂さ晴らしとしての「批判」もあるかもしれない。あるいは、言葉尻をとらえて揚げ足をとる、知識や言い回しの巧拙を取り上げてマウンティングに走り、それが自己目的化しているような「批判」というものもある。知識の量や言葉の巧拙を競う知的ゲームの土俵ではそれもアリだが、コロナ問題はそうした知的ゲームのネタではない。生命・経済・社会的生存、そして各種人権のすべてがかかっている、真正の緊要政策課題である。

民主主義というものは、(1)で挙げた「批判的思考」抜きには成り立たない。しかし実社会では、「批判」は、(2)のタイプのものも含む。先にあげた「今は誰かを批判する時ではない」という呼びかけは、この(2)のレベルの「批判」のことを言っているのだとしたら、筆者もそれに賛成する。あるいは、ホッブズに倣って、「人は死の危険を目前にして、虚勢(優劣を競う欲求)にこだわっている場合ではないと気づいたとき、生きるための妥協を受け入れる、その妥協の産物が国家と法だ」というべきだろうか。

例えば筆者は、必ずしも必要だったとは思われない「緊急事態宣言」には、消極的賛成しかできない。しかし発出されたとなれば、その是非を論じることに注力するよりも、これが適切に運用されること、議論が「緊急事態条項」の話へと横滑りして必要な施策が行われない事態が起きればそこを「批判」することに労力を使いたい。「緊急事態宣言」そのものについては、妥協の姿勢をとっていることになる。

しかし、もしも「今は批判をしている場合ではない」という呼びかけが(1)の意味の批判を塞ぐ結果となると、社会は今以上の危機に陥る。

今だからこそ「批判」と「批判リテラシー」が必要な理由

前にも書いたことだが、ここで国や自治体が、未知の経験について最も賢明な策をとれる保証はない。民主主義はもともと、少数者の専断に委ねると陥りがちな《最悪のシナリオ》を、社会メンバー全体の参加とコントロールによって回避しよう、というリスク回避思考の選択である。未知の経験については、政府の対応は不完全だったり的外れだったり、無策だったり無謀だったりする可能性は十分にある。そういう発想に立って、情報と知識を持ち寄るのが民主主義にかなう思考である。これは上記(1)の批判的思考を生かさなければできないことである。

ここには、自分の現実のニーズ(どこにどのような補償や支援策が必要か)について知らせる表現、噛み合わない政策について指摘する批判表現も含まれる。このための「表現の自由」や「請願権」は、今、この状況だからこそ、為政者に届くよう、最大限に尊重され確保されるべきなのである。仮にこれを塞ぐような「措置」があったとしたら、憲法違反と言わなくてはならない。

YOSHIKIがライブ自粛を呼びかけるのと同じく、不特定多数の人が参集して声をあげるタイプの集会は、今は自粛したほうがいいと筆者は考えているが、これは「表現」を自粛することを求めているのではない。感染防止の観点から、今だけ表現の発信方法を切り替えよう、と呼びかけているのである。この自粛と、「異を唱えるな、波風を立てるな」という「同調圧力」とは別物であり、これが混同されて同調圧力へ傾いていくことには、警戒心を持たなくてはならない。

そして、必要な「批判」の価値が否定されることのないよう、可能な限り(1)の意味の批判言論を意識するという「批判のリテラシー」をセットで心がける必要も、今はあるだろう。(娯楽としての批判を封じていいという意味ではないので、筆者が憲法研究者として言えるのは、発言者各人が「意識しよう」というところまでである。)

政府要人にとっては、「言論の自由」によって発せられる多数の声に船を揺さぶられることは、面倒なことではあるだろう。しかし、そこにこそ価値のある指摘や着想を発見できるのではないか。

人間の体で言えば、摂取した食べ物の中から、必要な栄養素をより分けて必要なところに届ける作用を、私たちは日々、行っている。民主主義の中の「言論の自由」と為政者との関係も、これに似ている。それは、膨大な砂の中から砂金を採り出す作業に似ている。その作業ができることが、為政者の条件である。その作業を嫌って、批判を塞いでしまっては、民主主義の社会は基礎体力を失って衰退していく。「国難」「緊急」という言葉のもとにこの状況を乗り切ることを余儀なくされた今、私たちは、その分岐点に立っている(すでに日本はたくさんの分岐点を通過してしまったが、筆者はまだ「手遅れ」とは書かない)。

外務省その他の省庁に割り当てられた情報コントルールにかかわる予算が、規模とプライオリティ(優先性)において適切なものであるか、その運用が民主政治・民主社会を損なう《統制》に傾くことがないかどうか。さらに民主主義の停止を正面から認める「緊急事態条項」の議論へ話が横滑りして、真に緊急を要する事柄が放置されはしないか。私たちは粘り強く見守っていく必要がある。(了)

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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