生徒の下着の色まで指定するなど、行き過ぎた校則や指導が問題となる中、先週、文部科学省は、全国の教育委員会に対して、社会常識や時代に合わせて積極的に校則を見直すよう連絡した(NHKニュース6/12)。ただし、これは国が「校則を見直しなさい」と指示したものではなく、事例などの情報提供を行ったに過ぎない(次の図)。

文部科学省「校則の見直し等に関する取組事例について」より冒頭を抜粋
文部科学省「校則の見直し等に関する取組事例について」より冒頭を抜粋

■校則の根拠法令はない

 実は「校則を守らなければならない」ということは、どこにも書いていない。そんな法令はない。

 また、「○○(例:生徒の服装、髪型など)は校則で定めなければならない」と書いている法令もないし、学習指導要領にも記述はない。つまり、学校生活の中では強そうに見える校則だが、根拠となる法令はない

 基本的には法に触れることは法で解決する話だから(例:人のものを盗まない)、校則の出る幕は少なくていい、校則はあっても最低限でいい、とわたしは考えている。

 ただし、学校は学習する場であるし、多くの子どもたちが共同で長い時間を過ごす場でもあるので、一定のルールが必要な場合はある。そのため、裁判例では、学校が教育目的を達成するために必要かつ合理的範囲内において校則を制定することは認められてきた(※注)。

 たとえば、自転車やバイクでの通学を認めないという校則がある。学校のスペース上どうしても駐輪場が確保できない場合や、多くの生徒が集まるなか、乗り入れを認めては事故を起こしやすいといった理由がある場合がある。こういうケースで「ブラック校則」などと呼ぶ人はほとんどいないだろう。

(※注)ただし、これまでの判例の多くが、学校(校長)の裁量を広く認めすぎだ、という批判はある。

■必要性、理由がよくわからない校則も

 だが、いま問題となっているのは、合理的な理由がよくわからない校則や、子どもたちの人権、多様性を抑圧するような規制があるからだ。校則がつくられた当時はそれなりの理由や背景があったとしても、いまはあまり意味をなさないばかりか、むしろ教育上望ましくない校則や生徒「指導」が続いている学校もある。(こういうのを”指導”と呼ぶことも躊躇するが。)

 たとえば、「ツーブロック禁止」としている都立高校があることについて、昨年の都議会で東京都の教育長はこう答弁している。

「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から、定めているものでございます」

毎日新聞2020/7/17

 この理由で納得する人はおそらくほとんどいないだろう。ツーブロックにしていたら、道端で絡まれやすくなるのか?百歩譲って仮にそうだとしても、だからといって、学校外の空間でのことであり、学校が禁止する必要性はあるのか?など疑問はたくさん浮かぶ。

 福岡県弁護士会が2020年に福岡市内の中学校を調査したところ、頭髪について男女という区別で規制を設けている中学校は約84%、髪型について定めている中学校は約87%、スカート丈を定める中学校は約85%、下着(肌着)の色について指定する中学校は約83%と大半だった(弁護士会のウェブページ)。

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画像はイメージ提供:KimoMaru/イメージマート

■文科省が口をはさむことか?

 今回の文科省の文書にも書かれているとおり、校則の制定、見直しの権限は、各校の校長にある。文科省でも、教育委員会でもない。だから、今回も、文科省は「事務連絡」という穏やかな、法的拘束力のないかたちで、お知らせしているに過ぎない。この事務連絡が出たところで、どこまで見直しが進むのか、そこは一番は各学校次第だし、個々の学校を監督、指導する教育委員会の出方次第のところもある。

 とはいえ、逆に言えば、国がこういうことまで口をはさまないといけないほど、各学校では見直しが進んでいない、ということなのかもしれない。もちろん、一部の学校はすでに校則を見直しているので、一概に論じられることではないが、前述の福岡市への調査のように、まだまだ進んでいない例も少なくない。

 文科省に言われて、やっと、学校は重い腰を上げるというのも、どうかと思う人も多いのではないだろうか?理不尽な校則を続けることは、子どもの人権に関わるし、学校への信頼を落とす。公務員として信頼失墜行為ではないかとさえ、わたしは思うのだが。

 人権尊重や多様性が大事だ、たとえば「性的マイノリティの人のことも考えましょう」と道徳の時間などには言っている教師自身が、校則で多様性を認めない。むしろハラスメントと認定されるような校則チェックまでしているところもある。これは矛盾しているし、おかしいことだと、教師自身のなかにも気づいている人も多い。

 なのに、学校は、なぜ変わらないのか?

■「校則をゆるめると、生徒指導が大変になる」は本当か?

 さまざまな事情、背景はあるし、学校によっても話はちがってくることではあるが、次のことは踏まえておいたほうがよいと思う。

 校則がなかなか改まらない理由のひとつは、「校則をゆるめると、生徒指導上、面倒になる」と先生たちは考えているからだ。学校からすれば「これは校則です、ルールです」として押しつけていたほうが、ラクだ。

 「なんで茶髪は禁止なのですか?」、「どうしてピアスはいけないんですか?」、「お化粧はダメですか?」などなど、言っていくとキリがないことは多い。学校、教師としては、「ルールで決まっている。ルールを守れないヤツは社会人としてもやっていけないぞ」などと言っておいたほうが、話が早いのだ。

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写真はイメージ写真:アフロ

 だが、この理屈はかなり苦しい。

 ルールと言うなら、守らないといけないのは、校則よりも法律だ。法律で「黒髪でなければならない」などとはどこにも書いていない。理由をよく説明できないことを押しつけて、それは本来「教育」とか「指導」と呼ぶべきものではないだろう。

 それに、「校則をゆるめると、生徒指導上大変になる」というのは、本当にそうなのか、怪しい。本当にそうなら、中学校や高校よりも”ゆるい”(校則があまりない)全国各地の小学校は、もっと荒れているはずだ。

 生徒の問題行動が起きているとすれば、それは、校則で押さえつけて解決する話ではなく、別の背景や要因に目を向けるべきだ。

 約1年前の休校中もわかったはずだ。細かいことを教師に言わなくても、それほど人に迷惑をかけるような事件は起きない(もちろん例外はある話だが、だからといって、全生徒の行動や容姿を事前規制する合理的理由にはならない)。

 似たことは、部活の関連でも話題に上る。ほんの2、3年前まで「部活動を減らすと、地域で悪いことをする生徒が増える。部活は生徒指導上、不可欠だ」と真顔で話す教師はかなりいた。「ほんまでっか?」と普通は思う理屈だと思うが、かつて荒れた学校を部活動を通じて立て直してきた経験がある教師ほど、そういう信念をもちやすいようだ。

 部活にさまざまな教育的な意義があるのは確かだが、部活がなかったとしても、生徒が荒れるわけではない。新型コロナの影響で部活が長く休止になったときの状況を見ても、それは明らかだ。

 なぜ、なかなか学校は変わらないか。この背景のひとつには、先生たち(それも発言力の大きい管理職やベテラン教員)が過去の成功体験や経験からアップデートができていないことがあるのではないか。あるいは、そうした人たちの認識を変えていけるような働きかけや意見出しが、同質性の高い教員集団のなかで、できていない学校もあるのではないか。

■忙しいから、変われないのか?

 先日Twitterで学校の先生と思われる方から、「理不尽な校則をみなおす前に、理不尽な教員の労働環境をなんとかしてくれ」という趣旨のコメントをいただいた。

 どちらか一方が大事なのではない。この2つは両方進めていけることだ(二律背反ではない)。こうしたコメントが出るのは、それだけ疲れている先生たちもいる、ということかと思う。

 確かに学校の長時間労働の実態は異常で、深刻だ。だが、だからといって、「校則の見直しを議論しているヒマなどない」というのは暴論だろう。

 逆に、忙しいなら、スカート丈や髪の毛の色のチェックなど、さっさとやめたらよいのに、と思う。

 校則をゆるめると、地域などからクレームが入り、それでまたややこしくなる。だから教師は積極的に校則を見直そうという動きに向かいにくい、という事情はある。だが、これも、だからといって、校則を見直せない理由にはならない。地域の方とも丁寧に話をしていくしかない。

 学校側が校則の見直しができない、したくないと思っている背景、事情を丁寧に見ていく必要はあるが、一方で、それは本当にできない理由なのか、固定観念、思い込みをもう少しゆるめていく必要があるのではないか、と問い直す必要もある。

(参考)

荻上チキ・内田良 『ブラック校則 理不尽な苦しみの現実』

妹尾昌俊『教師と学校の失敗学:なぜ変化に対応できないのか』

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