国で検討されている「令和の日本型教育」ってなに? 漂う昭和感と根深い問題(前編)

一人一台PCが整備されただけで、いい教育になるわけではない(写真:アフロ)

 いま、国の審議会や文科省などでは「令和の日本型学校教育の構築」という呼称で「教育改革」が議論されています。どういう内容でしょうか?まさか、学校からのお知らせをデジタル化することだけがその内容ではないはずです。連絡帳での欠席連絡などは昭和なままな感じですが。きょうは「令和の日本型学校教育」とは何かについて書こうと思ったのですが・・・、実は、いまひとつはっきりしないのです。

 こうした呼称はキャッチコピー的なものなので、それでいいかなという気もしますが、いま審議されていることは、今後の大きな日本の学校教育を方向付けるものですから、注意深く見ておく必要があります。本稿ではこの「令和の日本型学校教育」をめぐる課題や問題点について議論します。

■「令和の」と言っているが、昭和なまま?

 今月上旬、中教審(中央教育審議会)が「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して 中間まとめ」を公表しました(10月7日)。幼児教育から義務教育、高校教育、特別支援教育、またICT活用や外国人児童生徒への支援なども含む、非常に幅広い内容をカバーした、たいへん重要な提言です。

(筆者撮影)
(筆者撮影)

 委員や文部科学省等の多大な尽力には敬意を表したいと思います。これだけの内容をまとめるのは、ものすごいことです。一方で、気になる点もたくさんあります。中間まとめは分量も多く(72ページ)、テーマは多岐にわたるためでしょうか、あまり詳細は報道もされていないようですし、いまのところ、批判的に検討している論考等も少ないように見えます。

 このまま突き進んで、大丈夫でしょうか?

出所)「令和の日本型学校教育」の構築を目指して(中間まとめ)概要より一部抜粋
出所)「令和の日本型学校教育」の構築を目指して(中間まとめ)概要より一部抜粋

 一言で申し上げると、「令和の日本型学校教育」と銘打ってはいるものの、基本的な発想や問題は、昭和あるいは平成の時代から引きずったままである、とわたしは捉えています。具体的には次の3点に注目して説明します(前編、後編に分けます)。

■抽象的な概念で煙に巻く

 第一に、抽象度の高い、あるいは定義が論者によってかなりまちまちな概念を持ち出して、深い議論ができないままのところがあります。おそらく委員のなかにも、なんとなくいいものというイメージで審議していたところがあるのではないでしょうか。

 特に問題が大きいのは重要なキーワードである「個別最適な学び」、「少人数による指導」、「リーダーシップ、マネジメント」です。

前掲、中間まとめの概要より一部抜粋
前掲、中間まとめの概要より一部抜粋

 「個別最適な学び」は、指導の個別化と学習の個性化を学習者側の視点から整理した概念である、と一応の説明はあります(中間まとめ本文p.14)。

 たとえば、算数・数学の授業では、ずっと前の関連する単元でつまずいている子もいれば、基礎的なところはOKという子もいるなど、さまざな子が混在しています。同じ説明をしたり、同じ練習問題を解かせたりするのでなく、その子に応じた解説や教材等で指導、学習できるといいですよね?これは指導の個別化のひとつです。他方、たとえば、社会科(生活科)で地域のことを知ろう、まち探検をしようといった学習のなかでは、個々の子どもの興味・関心はちがっているので、なるべくその子の関心や得意なことを伸ばしながら調べ学習などを進めていくこともあります。これは学習の個性化のひとつと言えるでしょう。

 指導の個別化と学習の個性化は1980年代ごろからある捉え方ですし、関連する実践はそのずっと前(戦前)からあります。ですが、指導の個別化と学習の個性化が、なぜ学びの「最適化」となるのか、また「最適化」とはどういう意味なのかは、曖昧なままです。

 最近になって「個別最適化」という言葉が注目されるようになったのはIT(ICT)技術の急速な発展と、それに呼応した経済産業省の動きかと思います。経産省の「『未来の教室』とEdTech研究会第2次提言」(2019年6月)には、「『学びの自立化・個別最適化』とは、子ども達一人ひとりの個性や特徴、そして興味関心や学習の到達度も異なることを前提にして、各自にとって最適で自立的な学習機会を提供していくことである」と書いてあります。

 これは、まともなことを書いているように見えますが、当たり前ですよね?子どもたち一人ひとりの個性や関心が違うなんてことは。

 理屈っぽいことを言うようですが、「個別最適な学び」あるいは「個別最適化」で言われていることは、お化粧をはがせば、「子どもたち一人ひとり、個に応じた丁寧な教育をやりたいです」と言っているのと、大差はないのではないか、そうわたしは感じます。

 これは企業の理念、戦略、あるいは行政、学校の計画などでもよく見られることですが、一見、きれいな修飾語を重ねて、いかにも高度なことを進める風貌をしているのですが、バズワードかそれに類する概念で煙に巻いているだけで、中身は当たり前のことを言っているだけ、ということがあります(※)。

※興味のある方は、リチャード・P・ルメルト『良い戦略、悪い戦略』(日本経済新聞出版)や拙著『思いのない学校、思いだけの学校、思いを実現する学校』(学事出版)などを参照してください。

(写真素材:photo AC)
(写真素材:photo AC)

■その学びが「最適」だなんて、誰がそう言えるのか?

 「いや、そんなことはない。AIや子どもたちの学習履歴などのビッグデータを活用して、昭和な時代にはない学びが実現するじゃないか。そこが令和の学校教育だ。」といった意見はあるでしょう。わたしもテクノロジーの活用には基本賛成ですし、経産省の実証事業などで興味深い先行事例が出てきていることも確かです。

 しかし、AIなりデータ解析の結果レコメンドされることに沿って進める学習が、なぜ「最適」だと言えるのでしょうか?そう簡単に「最適化」なんて言ってくれるな、と思います。学びや教育というのは、そんな単純な世界ではないはずです。

 たとえ話をします。自分にあった服を選びたいとき。文科省(中教審)あるいは経産省が言っているのは、Amazonのレコメンド機能にそってお買い物をするようなものじゃないでしょうか?ビッグデータや閲覧履歴等を高度に計算したうえであったとしても、子ども自身が本当に自分のアタマで考えているのか、選んでいるのか、あるいは、お仕着せのものじゃなくて、自分で服をデザインしようという子も出てくるような学びになっているのか、そこが問われているのではないでしょうか。

■なぜ、これまではうまくいっていないのか、診断がない

 それに、この40年の間、「個別最適な学び」あるいは「個に応じた指導」が十分にできてこなかったとすれば、なぜなのでしょうか?「個別最適」といった言葉こそ使っていませんが、多くの小学校や中学校、高校などの学校経営計画や指導計画のなかには、「生徒一人ひとりに応じたきめ細かな教育を行う」といった文言が登場します。なのに、不十分な点が多々あるとすれば、なぜなのか。

 そこの検証と反省がまずなされるべきなのに、中教審も経産省もそこは曖昧なまま、すっ飛ばしています。エビデンスベーストの政策立案(EBPM:Evidence-based Policy Making)以前の問題です。課題、イシューの分析が甘いのですから。

 仮にですが、個に応じた指導なり「個別最適な学び」が十分にできてこなかった理由のひとつに、教員の力量不足、あるいは授業準備をする時間が十分にないことがあったとしましょう(実際、その点を示唆するデータはたくさんあり、拙著『教師崩壊』PHPなどでも分析しています)。その場合、子どもたち一人一台端末が整備され、風景としては昭和な教室から一変して、AIやビッグデータでアシストしてくれたとしても、たいして授業の質はよくならないのではないですか?

(写真素材:photo AC)
(写真素材:photo AC)

 「令和の学校教育」や「個別最適な学び」の視野に入っているのは、AIドリル(AIが解析して、その子に応じた問題を出してくれる)だけでは決してありませんが、そうした技術を使って基礎基本を訓練しても、それは正解のある問題をなるべく速く正確に答えることを練習するものが多く、AIやコンピュータが得意とする情報処理力や計算力を磨いているに過ぎないのではないですか?AIに代替されやすい人材を育てて、「最適化」と言っていいのでしょうか?

 詳細は省略しますが、もうひとつ注目を集めている「少人数による指導」についても、何人以下の少人数学級を指しているのか(30人学級なのか、35人学級なのか、20人学級なのかなど)、あるいはティームティーチングなども含めているのか(これは少人数学級とはイコールではありません)など、よく分からない記述のまま、審議が進んでいるように見えます。

 また、中教審の文書等でこれまでも頻繁に出てきましたが、今回も相変わらずなのは、校長によるリーダーシップやマネジメントに頼った記述です。たとえば、次のくだり。

学校が様々な課題に対処し,学校における働き方改革を推進するためには,従来型のマネジメントの下,学校の有するリソースだけで対処するには限界がある。校長のリーダーシップの下,組織として教育活動に取り組む体制を整備することが必要である。その際, 校長を中心に学校組織のマネジメント力の強化を図るとともに, 学校内,あるいは学校外との関係で,「連携と分担 」 による学校マネジメントを実現することが重要となる。

出典:中間まとめp.20

 このあとの箇所で多少具体的な話も出てきますが、こうした記述も厚化粧を落とせば、ほぼ「校長、しっかり頑張れよ」と言っているだけです。従来型のマネジメントと、令和型の学校マネジメントは何がどうちがうのか、よく分からないままです。

 本稿の後編でも論じますが、文科省、中教審はあれもこれもと、学校側にやることを増やしています。「では、あとは、校長のリーダーシップのもと、マネジメントをしっかりやって頑張ってください」と現場に投げて、大丈夫でしょうか?

■なぜ、こうなるのか?

 どうして、抽象的なバズワードで煙に巻くような論調が幅をきかせるのでしょう?仮説に過ぎませんが、いくつか可能性はあります。

 第一に、キャッチ―な言葉を用いなければ、目新しさや新鮮味がなく、予算獲得が難しいこと。

 第二に、審議会の委員や文科省、経産省などの担当者としても、目新しいキーワードを打ち出したほうが、達成感が高まること。

 第三に、一人一台端末の整備(GIGAスクール)など、今後やっていくことについて、政治主導のうねりもあって、先にほぼ決まっていることも多く、これに合わせて、現状や過去の振り返り、分析は曖昧なまま、進んでいるから。つまり、本来は課題の分析、特定⇒その課題にミートする対策、政策の立案という思考順序が筋でしょうが、そうはなっていないので、「令和の日本型教育」とか「個別最適な学び」といった大きく見えるもの、大風呂敷でくるんだうえで、てんこ盛りの文書になることが起こるわけです。

 以上のわたしの見立てには誤りもあるかもしれませんし、反論、批判もあることでしょう(歓迎します)。ですが、仮に一部でも真理をついている部分もあるとすれば、これに振り回される学校現場はたまったものじゃないし、子どもたちのために本当になるでしょうか?審議の中間とはいえ、これが令和の学校教育の羅針盤とするには、はなはだ心細いです。

 根深い問題はまだまだあります。2点目、3点目については、後編で解説します。

国で検討されている「令和の日本型教育」ってなに? 漂う昭和感と根深い問題(後編)

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