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唐突に星になった親日家騎手・ミナリクが、亡くなる前にとった驚きの行動とは?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
日本で騎乗していた頃のフィリップ・ミナリク騎手

たびたび届いた「Omedeto」のメッセージ

-2021年10月3日

 「そう、僕が彼にあげたモノなんだ」

 通信ツール“WhatsApp”での彼とのやり取りを遡ると、この日付にこう記されていた。

 この日、フランスのパリロンシャン競馬場では第100回となる凱旋門賞(GⅠ)が行われた。記念すべき回数となった大一番で、日本から遠征したクロノジェネシス(栗東・齋藤崇史厩舎)やディープボンド(栗東・大久保龍志厩舎)を破って真っ先にゴールに飛び込んだのはトルカータータッソ。ドイツからの遠征馬の手綱を取ったのはレネ・ピューヒュレクで、レース後、外したばかりの鞍を彼が誇らしげに高く掲げると、その下に、思わぬ名前が記されていた。

 “Filip Minarik”

 フィリップ・ミナリクのサインだった。

 そこで早速、彼に連絡をすると、冒頭の返事が返って来た。聞くと、落馬により引退を余儀なくされた彼が、弟分のように可愛がるピューヒュレクに鞍を託し「僕はもう乗れないけど、凱旋門賞へ連れて行ってくれ」と頼んだのだと言う。

 そのメッセージには肩を組む2人の写真が貼付されていた。

凱旋門賞勝利騎手レネ・ピューヒュレク(左)とフィリップ・ミナリク
凱旋門賞勝利騎手レネ・ピューヒュレク(左)とフィリップ・ミナリク

-2021年11月7日

 「Omedeto」

 そんな文字と共に日本の国旗やトロフィーの絵文字。そして「日本がブリーダーズCを勝ちましたね!」とのメッセージも送られてきた。

 アメリカ時間6日、矢作芳人厩舎の2頭、すなわちラヴズオンリーユーとマルシュロレーヌがそれぞれブリーダーズCフィリー&メアターフとディスタフを制していた。このように日本馬が国境を越えて活躍した時や、日本でGⅠが行われるたびに、ミナリクからメッセージが届いた。

 彼と最初に言葉をかわしたのは17年の秋。ジャパンC(GⅠ)に挑戦したドイツ馬ギニョールに騎乗するため、来日した際だった。その後、一緒に来日していたダニエレ・ポルク騎手が急逝すると、その話をミナリクから聞くうちに一気に距離が縮まった。それから、事ある毎に時にZoomをまじえて連絡を取り合うようになったのだ。

17年ジャパンCでのポルク(左)とミナリク
17年ジャパンCでのポルク(左)とミナリク

日本が大好きだった面倒見の良い男

-2021年11月27日

 日本茶を持った写真が送られてくる。

 「お茶!」と返すと「これが大好き!!」。そう語る彼の部屋の壁には多くの日本の写真が飾られていた。

ミナリクの部屋の壁に飾られている写真
ミナリクの部屋の壁に飾られている写真

-2021年12月9日

 バウイルザン・ムルザバエフとの2ショットと共に「彼はドイツのチャンピオンジョッキーです。いずれ日本に行きたがっているので助けてあげてください」とのメッセージ。

 実際にムルザバエフは翌年のジャパンCでテュネスに騎乗するために来日。その後、短期免許を取得し、日本で騎乗をすると年末には単勝90・6倍のドゥラエレーデを駆ってホープフルS(GⅠ)を優勝。一躍、日本でもその名を轟かす。

 このエピソード一つをとっても、ミナリクの面倒見の良さが分かるだろう。

ムルザバエフ(右)との一葉(本人提供写真)
ムルザバエフ(右)との一葉(本人提供写真)

-2022年3月27日

 「Big OMEDETO」の文字と共に日の丸やシャンペンの絵文字。

 現地時間26日、ドバイでシャフリヤール(栗東・藤原英昭厩舎)がドバイシーマクラシック(GⅠ)を、パンサラッサ(栗東・矢作芳人厩舎)がドバイターフ(GⅠ)をそれぞれ優勝。他にもバスラットレオンやステイフーリッシュ(いずれも矢作芳人厩舎)、クラウンプライド(栗東・新谷功一厩舎)が重賞を勝つ等、日本勢が大活躍。それにすかさずミナリクが反応し、メッセージを送って来た。本当に日本の事が大好きで、応援してくれる人だった。

再会

-2022年7月17日

 「サトシ、イギリス、アスコットで行われるシャーガーCには行きますか?」

 との連絡。行く旨を伝えると「僕も行けるように調整しています」との事。

 そして、実際に8月に行われたシャーガーCに彼は姿を現した。ウェルカムパーティーの席で、ピューヒュレクとケリン・マカヴォイを加え、4人で話した。その際、ミナリクは次のように言っていた。

 「僕は馬に乗る事はもう出来ないけど、いつかまた日本に行きたいんだ。日本のファンに会いたいんだ。あんな素晴らしいファンはいないよ。僕が人生で最も苦しい時に、色々なプレゼントや、資金面での大きな援助をしてくれたのも日本のファンだった。是非、また会ってお礼が言いたいんだ」

 この時は、いずれそんな日が来ると、信じて疑わなかった。

昨年のシャーガーC(イギリス)での一葉。左からピューヒュレク、マカヴォイ、ミナリクと筆者
昨年のシャーガーC(イギリス)での一葉。左からピューヒュレク、マカヴォイ、ミナリクと筆者

 -2022年8月22日

 「こんな嬉しいメッセージが届いたよ」

 そんな言葉と共に、動画が転送されてきた。クリストフ・ルメールのアップから始まったその動画は、やがてルメールの隣を映し出した。そこには武豊がいた。2人は口々にミナリクに「応援しているから」「ガンバッテ」と告げていた。更にその1週間後には藤井勘一郎とのやり取りが送られてきた。藤井もミナリクと同じように落馬で大怪我を負い、リハビリに励んでいた。藤井に、ミナリクとの話を伺うと、次のように言った。

 「自分も大変なのに、いつも僕の事を気にかけて励ましてくれます。ありがたい限りです」

ルメールと武豊から届けられた動画の一部(本人提供写真)
ルメールと武豊から届けられた動画の一部(本人提供写真)

-2023年3月22日

 「毎朝、調教を見に行っていますか?」

 このメッセージを受け取ったのはドバイで、だった。私は、週末に行われるドバイワールドカップデーに備え、現地入り。ミナリクもまた、観戦しに中東を訪れていた。翌23日、久しぶりに再会した彼はアーモンドアイのジャンパーを着て現れた。週末まで、何度も顔を合わせたが、まさかこれが彼と直接、会話をかわす最後の機会になるとは、思いもしなかった。

ドバイにて、アーモンドアイのジャンパーに身を包むミナリク
ドバイにて、アーモンドアイのジャンパーに身を包むミナリク

驚きの行動と、彼に伝えたい2つの事

 ドイツで4度もリーディングジョッキーの座に輝いたミナリク。そんな彼の運命の歯車が大きく狂ったのは20年7月3日の事だった。この日、ドイツのマンハイム競馬場で騎乗した彼は落馬。大怪我を負い、約1カ月にわたって意識を失った。詳細は先に記したので省くが、彼は奇跡的に回復。日常生活が出来るまでになった。

 今年の3月、ドバイで最後に会った時、彼は面白い動画を見せてくれた。

 そこに映っていたのは、1人の男が馬に跨る場面だった。

 「乗っているのは僕さ。保険の関係で乗っている事はまだ内緒にしておかなければいけないし、そもそもジョッキーに戻れるレベルの騎乗ではないけど、こんな日がまた来るなんて夢のようだよ」

 馬に乗れていたとは、正直、驚いた。そして、その目は明るい未来を見据え、輝いているように見えた。

 しかし、同時に彼はこうも言っていた。

 「ご覧の通りスムーズに歩く事すらまだ難しいし、痺れは今でも残っているけどね……」

 首を痛めた事により、寝ても覚めてもそういうコンディションが続く生活と付き合っていく事は、さぞ苦しいだろうと、察せられた。

苦しかった闘病生活時代の一葉。せっかく乗り切ったのに……(本人提供写真)
苦しかった闘病生活時代の一葉。せっかく乗り切ったのに……(本人提供写真)

 今回、紹介した彼とのやり取りは、ほんの一部で、この間にも「デットーリからメッセージが届いたよ」とか「日本から鞍を取り寄せて、ドイツの皆に配るんだ」とか「今、彼と一緒にいるよ」という文言と共に、ドイツで頑張る日本人の見習い騎手である寺地秀一との写真が送られてきた事もあった。まだ小さな可愛いお嬢さんと遊ぶ動画が送られてきた事もあった。そして、この6月6日には「Japan Style(日本式)」との文字と共に、自らが製作したというブルゾンの写真が送られてきた。しかし、彼からの連絡はそれが最後だった。

ミナリクから届いた最後のメッセージ
ミナリクから届いた最後のメッセージ

 ご存知のように、日本時間の5日、彼の訃報が届いた。ピューヒュレクもムルザバエフも、藤井もルメールも、そして武豊も、信じられない報告に耳を疑い、続いて悲しみの言葉を口にした。ミナリクの、機嫌が悪い態度を見た事はなかった。彼の事を悪く言う人に会った事がなかった。私も何度、居酒屋やレストランで時間を共にしたか分からない。本当に誰からも愛された男は、皆にお別れの言葉を言わせる間も与えず、唐突に逝ってしまった。

 まだ48歳。昏睡状態が続いた際、こんな結末のために回復を願ったわけではない。ポルクに会いに行くのは早過ぎる。WhatsAppの返事がまだ出来ていないじゃないか……。日本のファンにお礼を言いに行くと言っていたじゃないか……。言いたい事は山ほどあるが、ふた言だけに集約して、最後に記そう。「安らかに眠ってほしい」。そして「今までありがとう」。

日本の居酒屋も大好きだったミナリク
日本の居酒屋も大好きだったミナリク

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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