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仏国でデビューした日本人騎手へ、レジェンド武豊からの言葉とプレゼント

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
現地時間7月26日、仏国で騎手デビューしたパントゥラ晃政騎手(本人提供写真)

象から馬への乗り換え

 その日、彼は1枚の100円玉を握りしめて、競馬場へ向かった。

 日本人なら誰でも持っているであろう100円玉。しかし、彼にとっては特別な硬貨。だから“そこ”でこれを持っている人は珍しかった。

 2002年7月30日。後にディープインパクトの命日となるこの日付けの生まれだから、明日が21回目の誕生日。その少し前に「夢にまでみた」誕生日プレゼントをもらったのは「パンちゃん」ことパントゥラ晃政。タイ国籍の父と日本人の母の間に生まれたハーフだった。

「パンちゃん」ことパントゥラ晃政騎手
「パンちゃん」ことパントゥラ晃政騎手

 愛知県出身の彼は、幼い頃から父の故郷であるタイを何度も訪問。その際、ある動物に恋に落ちた。

 「タイへ行くたび象に乗り、将来は象使いになりたいと考えるようになりました」

 そんな16年の事だった。親戚から「象ではなくて、馬に乗る騎手を目指しては?」と提案された。

 「ブレイクダンス等も真剣にやっていたように、体を動かすのは好きだったので、それもアリだと思いました」

 早速、競馬を観戦すると、一人の男に魅了された。

 「キタサンブラックが活躍していた頃で、武豊さんに憧れるようになりました」

武豊とキタサンブラック
武豊とキタサンブラック

 翌年、競馬学校を受験したが、乗馬経験も皆無だったために不合格。その後、乗馬を始めた。19年9月からは北フランスのタンプルーヴへ留学。高校へ通いながら、現地で乗馬を続けた。そして、そこで競馬学校を受験すると、合格。日本人は勿論、アジア人として初めて、フランスの競馬学校に受かってみせた。

フランス留学時に乗馬していた時のパントゥラ(右、本人提供写真)
フランス留学時に乗馬していた時のパントゥラ(右、本人提供写真)

競馬学校に合格し、憧れの人との対面

 こうして正式に入学したのが21年の9月。それを前にして、一旦帰国した際、彼に幾人かの調教師や騎手を紹介した。

 「藤沢先生(和雄元調教師、1998年タイキシャトルでジャックルマロワ賞優勝等)や蛯名先生(正義元騎手、現調教師、1999年エルコンドルパサーで凱旋門賞2着他)、池添さん(謙一騎手、フランス遠征多数)や藤岡佑介さん(騎手、フランス遠征多数)、クリストフ・ルメールさん(騎手、フランス出身)らフランスにゆかりのある人達を紹介していただき、勉強になったし、心構えが出来ました」

 そして、最後に“あの人”を紹介した。

 「憧れの武豊さんと会う事が出来て、騎手になりたいという気持ちがますます強くなりました」

レジェンド武豊
レジェンド武豊

フランスの競馬学校での日々

 こうしてフランスへ飛ぶと、21年9月からシャンティイの隣町グヴューにある競馬学校での寮生活が始まった。

 「学校での勉強と厩舎での実習を2週間置きに繰り返しました。学校での勉強はフランス語とか、数学とか、一般教養で、伝え聞く日本の競馬学校とはまるで違う感じでした。馬の勉強は学校では全くしなくて、厩舎での実習のみでした」

 その厩舎での実習は、とくに講師等がいるわけではなく、従業員として働く感じ。馬乗りについて教えてくれる人もいなかったため、困惑していると、同じ日本人で、現地で開業する調教師の小林智が手を差し延べてくれた。

 「小林先生が『それなら、うちの厩舎へ来る?』と誘ってくださいました」

小林智調教師
小林智調教師

 22年の3月に転厩。新天地では小林を始め、先輩のスタッフが馬乗りや、馬について、懇切丁寧に教えてくれた。

 「小林先生には、ハミの取り方といった技術面でも教わったけど、中でも印象に残ったのは“扱い方”について、です。具体的には『人間と一緒に生活するために、馬を自由にさせ過ぎてはいけない』と。そういう姿勢をしっかり教える事が、かえって馬のためになるから、しっかりと『馬の声に耳を傾けないといけない』と言われました」

 以来、上手に乗る事も大切だけど、まずは、馬と人間が共存するためのルールをきちんと理解させる教育の重要性を考えて乗るようになった。

小林厩舎で調教に跨るパントゥラ(22年撮影)
小林厩舎で調教に跨るパントゥラ(22年撮影)

初騎乗という誕生日プレゼント

 そんな生活をして1年9カ月。フランス語も「日常生活に支障がない」くらい上達したこの5月、ついに騎手免許を申請出来るまでになった。

 「それから2ケ月くらいして、やっと免許が発行されると、小林先生がすぐに騎乗馬を用意してくれました」

 誕生日直前の26日、ヴィシー競馬場で、誕生日プレゼント代わりの初騎乗が決まった。そして、その朝、1枚の100円玉を握りしめて、競馬場へ向かった。

 「3月の模擬レースは無観客でした。今回はパドックで周囲にお客さんがいたので『やっと“こっち側”に来られた!!』と感じました」

 同時に緊張もしたそうだが、馬に乗ると、不思議と落ち着きを取り戻せたと言う。

 「毎朝のように調教でも乗っている馬だったし、模擬レースの時とも同じ馬だったので、逆に落ち着かせてもらえた感じでした」

 ゲートの中では隣の枠の騎手から「初めてかい?」と聞かれ「そうなんです」と答える余裕もあった。前扉が開いた後も、事前に小林と打ち合わせた通りのポジションをとれた。しかし、コーナーで少しフクれそうになると、直線で追い出してからもフラついた。

 「鞭は4回しか叩けないルールなので、ラスト400メートルを切ってから使おうと、小林先生とも話し合いました。でも、実際にはバランスを保ちながら追うのに必死で、鞭の事はすっかり忘れていました」

 結局ゴール直前に思い出し、1度、叩いただけ。初めての実戦は5着で終戦した。

 「ゴールラインを越えた後、馬が加速しました。僕がレースで力を発揮させてあげられなかったんだと痛感し、反省しました。また、レース後は大ベテランのモッセ騎手からアドバイスをいただく等、全てが勉強になりました」

ついにフランスで騎手デビューを果たしたパントゥラ(本人提供写真)
ついにフランスで騎手デビューを果たしたパントゥラ(本人提供写真)

レジェンドからの言葉とプレゼント

 話は2年前に遡る。

 初めて武豊と顔を合わせた日の事だ。コロナ禍でもあり、小さな寿司屋を貸し切っての軽い食事にとどめたのだが、この席でのやり取りを、パントゥラは昨日の事のように覚えているという。

 「寿司屋の大将さんが、僕に向かって『じゃ、豊さんより先に凱旋門賞を勝つかもしれませんね?』と言った時でした。豊さんが笑いながら『そうかもね』と答えるかと思っていたら、真顔で『そうはさせない』って言ったんです」

 どんな話にも冗談を交えて答えていた武豊が、この時だけは一切、ふざける事なく答えた。

 「プロ意識の高さを感じると共に、自分もそう言えるような立場になりたいと思いました」

 話には更に続きがあった。

 会食後、会計を終えた日本のトップジョッキーは、お釣りを受け取ると「とっておきな」と言って、その硬貨をパントゥラに手渡した。

 「500円玉と、100円玉でした」

武豊からもらった500円玉と100円玉(本人提供写真)
武豊からもらった500円玉と100円玉(本人提供写真)

 どこにでもあるこの2枚の硬貨だが、これからフランスへ旅立とうとしていたパントゥラにとっては「特別な宝物になった」と語り、更に続ける。

 「500円玉は常に部屋に飾ってあるし、100円玉は何かある度にポケットへ忍ばせるようにしました」

 だから、騎手デビューの日も、100円玉だけは競馬場へ“連れて”行った。そして……。

 「レースへ向かう直前の、ジョッキールームを出る時に改めて握って、勇気をもらいました」

 ちなみにこのエピソードをレジェンドジョッキーに伝えると「100円玉は覚えていません」と笑った後、更に続けた。

 「次、会ったら返してもらいます」

 取り立てる場が、凱旋門賞デーのジョッキールームになる事を期待したい。

是非、凱旋門賞デーのジョッキールームで顔を合わせていただきたい武豊(右)とパントゥラ(21年撮影)
是非、凱旋門賞デーのジョッキールームで顔を合わせていただきたい武豊(右)とパントゥラ(21年撮影)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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