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キズナを巡る男達の絆と、ダービーの馬場入り後、武豊が言った驚きの言葉とは?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
13年ダービー勝ちのキズナと武豊騎手と田重田静男厩務員

佐々木調教師との絆

 1955年1月、田重田(たじゅうた)静男は鹿児島で生を受けた。

 「実家の近くに牧場があり、しょっちゅうそこへ遊びに行っているうちに馬が好きになりました」

 結果その牧場に就職した後、調教師を紹介してもらったのを機に、栗東トレセンで厩務員になった。

田重田静男厩務員(2020年撮影)
田重田静男厩務員(2020年撮影)

 「最初に所属した厩舎の、隣の厩舎に入って来た騎手見習い生と仲良くなりました」

 それが、現在は調教師の佐々木晶三だった。

 最初に所属していた厩舎が、調教師の他界に伴い解散したため、次の厩舎に移ると、今度はその厩舎に佐々木がやってきた。

 「調教師試験に合格した佐々木先生が、技術調教師として一年間、私の所属する厩舎で働いていました」

 二人は固い絆で結ばれた。佐々木が開業した後、田重田は引っ張られる形で転厩。再び一緒に働く事になった。

 「担当させてもらったアーネストリーで、私自身初めてとなるGⅠ(11年、宝塚記念)勝ちをさせてもらいました」

11年宝塚記念をアーネストリーで勝利して、自身初のGⅠ制覇を果たした田重田
11年宝塚記念をアーネストリーで勝利して、自身初のGⅠ制覇を果たした田重田

皐月賞を諦めダービーへ

 翌12年、1頭の若駒を担当する事になった。

 「入厩したての頃はヤンチャ坊主という感じ。それでも素質の高さは別格と感じさせる馬でした」

 キズナだった。

 新馬、自己条件と連勝したが、3戦目で土がつくと、翌13年には皐月賞(GⅠ)の出走権を懸け、弥生賞(GⅡ)に挑戦した。

 しかし、結果は5着。皐月賞への道が断たれた。

 「レース直後に佐々木先生が『ダービーに切り替えてやって行こう!!』と新たな目標を明確にしてくれました」

キズナが弥生賞で敗れた直後、目標をダービーに切り替えた佐々木晶三調教師
キズナが弥生賞で敗れた直後、目標をダービーに切り替えた佐々木晶三調教師

 そこでまずは賞金を加算するため、毎日杯(GⅢ)に出走。すると、ここを快勝した。

 「騎乗した豊さん(武豊)にとっても、この勝利は大きかったのだと感じました」

 田重田がそう感じたのには、大きな理由があった。

 天才騎手の名をほしいままにしていた武豊だが、キズナに出合う前の3年ほどは成績が振るわなかった。その不振が、2010年の毎日杯で落馬し、大怪我を負った事に起因していた。それだけに「キズナの毎日杯勝利で、何か吹っ切れるモノがあったように感じたのです」と田重田は言った。

武豊騎手
武豊騎手

 続く京都新聞杯(GⅡ)も豪快な追い込みで勝利したキズナは、5月26日に行われた第80回となる日本ダービー(GⅠ)に駒を進めてきた。レース前の様子を、田重田が述懐する。

 「厩舎一丸となって“やり残した事はない”という仕上げをしたので、パドックではオーラを感じるくらい良い雰囲気でした」

ダービーのパドックでのキズナ
ダービーのパドックでのキズナ

馬場入り後、武豊に言われた言葉

 やがて、武豊を乗せ、地下道を抜けて、本馬場入場。ここで田重田は、天才ジョッキーに声をかけた。

 「ゲート裏まで行きましょうか?」

 キズナでは今までゲートまでついて行った事はなかった。ただ、今回はダービーという最初で最後の大一番。スタンド前発走という事もあり、万全を期した方が良いか?と考え、そう聞いたのだ。これに対する武豊の答えが、こうだ。

 「いえ、来ないで大丈夫です。一番見やすい場所でレースを見ておいてください」

 この答えを聞いた田重田は思った。

 「ユタカさんが、自信を持っている事が分かりました。だからスタンドへ移動して、見させてもらいました」

 ゲートが開くと後方からの競馬になった。4コーナーを回り、直線へ向いた際、前の馬がフラフラして一瞬、進路が狭まるのが分かった。しかし、ハラハラする事はなかったと言う。

 「ユタカさんのひと言があったので、どんな状況になっても安心して見ていられました」

 すると、ダービー4勝ジョッキーにいざなわれ、フラつく前の馬を上手にパスする姿が目に映った。

 「まだ前に他の馬もいたけど、その段階で勝ったと思いました」

ダービーのゴール前の武豊とキズナ(ゼッケン1番)
ダービーのゴール前の武豊とキズナ(ゼッケン1番)

 その後は皆さん、ご存知の通り。キズナは先頭でゴールを駆け抜け、第80代ダービー馬となった。

 「上がって来たユタカさんと握手をかわした際、互いに『おめでとうございます』『ありがとうございます』と言い合いました。ユタカさんから言われた『強かったですね~』という言葉と握手した手の感触は今でもしっかりと覚えています」

ダービー直後、武豊とがっちり握手をかわした田重田
ダービー直後、武豊とがっちり握手をかわした田重田

良い思い出を手に引退後の現在

 「ありがたい宝物というか、良い思い出をいただいた!」と思った田重田だが、秋には更なる「良い思い出」を手にする事になる。

 キズナは3歳の身ながら果敢に凱旋門賞(GⅠ)に挑戦。田重田も一緒に海を越えた。結果、頂には届かなかったものの4着に善戦。前哨戦のニエル賞(GⅡ)では本場イギリスのダービー馬らを破って見事に優勝した。

 「オーナーと、佐々木先生やユタカさんらと一緒に私も表彰台へ登らせていただきました。厩務員という立場で、海外で表彰してもらう機会なんてそうそうないので、忘れられない思い出になりました」

ニエル賞優勝時の表彰式。左から前田晋二オーナー、一人おいて佐々木、武豊、田重田
ニエル賞優勝時の表彰式。左から前田晋二オーナー、一人おいて佐々木、武豊、田重田

 それから7年後の話である。

 20年3月29日の中京競馬場に田重田の姿があった。この日の第9レース・大寒桜賞に、彼の担当馬が出走したのだ。

 「佐々木先生から『キズナの仔だからやってみますか?』と言われた馬でした。自分はもう定年が近付いていたので、最後まで面倒を見る事が出来ないのは分かっていたのですが『お願いします』と返事をしました」

 こうして担当したキズナ産駒の名はリメンバーメモリー。この大寒桜賞が、田重田にとってのラストランとなった。

田重田にとってラストランとなったリメンバーメモリーの大寒桜賞
田重田にとってラストランとなったリメンバーメモリーの大寒桜賞

 それから3年以上が過ぎ、68歳となった田重田は今でも毎週末の競馬を楽しみにしていると言う。

 「息子が池江(泰寿)先生の下で働かせていただいています。天下の池江厩舎ですし、本人ももう独立しているので、心配はしていませんが、気にはなります。また、佐々木厩舎やキズナ産駒の成績も欠かさずにチェックしています。ソングライン(父キズナ)のヴィクトリアマイル勝ちも当然、嬉しかったです」

 こう言うと、一度閉じた口を再び開き、続けた。

 「勿論、ダービーがどういう結果になるか?というのも気になります。キズナで勝たせていただいた時の事を思い出しながら、今年も観戦するつもりです」

 キズナのダービーから丁度10年。第90回となる今年のダービーは、いよいよ今週末、ゲートが開く。

キズナと武豊と田重田元厩務員
キズナと武豊と田重田元厩務員

 (文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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