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苦しみながらも復活を目指す藤田菜七子騎手に現状を語っていただいた

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
藤田菜七子騎手

社会現象となったデビューから順調に海外でも勝利

 デビュー8年目を迎えた藤田菜七子(25歳、美浦・根本康広厩舎)。昨年の暮れ、たまたま久しぶりにゆっくりと話す機会があったので、その後、改めて取材の時間をとっていただいた。

 騎手デビューは2016年。JRAでは久しぶりに誕生した女性ジョッキー。そのニュースは競馬面からスポーツ面へ、更にスポーツ面をも飛び越し、社会面で取り上げられた。当時18歳の少女が、いきなり何台ものカメラに追われ、当惑したであろう事は、容易に察しがつく。

 「そうですね。やっとデビュー出来ただけで、何の実績もないのに注目されて……。ありがたいのは分かりますけど、初めての事ばかりだったのでどうしたらよいのか分からず、戸惑いました」

デビューした16年の藤田菜七子騎手
デビューした16年の藤田菜七子騎手

 それでも男社会に飛び込んだ精神力の強さで、年々勝ち鞍を増やした。その結果、4年目の19年には自己最多の43勝を記録した。

 「何かを掴めたとか、何かが変わったとか、そういうのはありませんでしたけど、沢山の人に支えてもらえたのがうまく噛み合って、勝たせていただけました。重賞(カペラS、コパノキッキング)初勝利もその頃(19年)でしたし、乗せてくださったオーナーや調教師の先生、厩舎の方々、皆さんに感謝しかありません」

 また、当時、JRA唯一の女性騎手として、海外から招待を受ける事も一再ならず。19年にスウェーデンで開催されたウィメンジョッキーズワールドカップに選出されると、2勝をマークし、総合優勝を飾ってみせた。

 「イギリスやアブダビ、サウジアラビア等でも乗せていただけました。デビュー当初でまだ何も分からない時期の話も多く、そんな中、沢山乗せていただけたのは幸運でした」

スウェーデンで勝利した直後の藤田
スウェーデンで勝利した直後の藤田

思わぬ形での骨折

 順風満帆と思えたそんな時、アクシデントに襲われた。

 20年の2月に落馬による左鎖骨骨折。プレートを埋める手術をして、休養を余儀なくされた。それでもその年は35勝とまずまずの成績を残したが、翌21年、再び思わぬ事態に見舞われた。それは患部からプレートを除去した直後の新潟競馬での話だった。

 「ゲートを出た瞬間に、何かが左鎖骨のあたりに当たったのが分かりました」

 一度折った部分だったので「また折れたかも……」と感じた。

 「レースが終わったら痛くて、すぐに診てもらいました。落馬をしたわけでもないのに何が起きたのか分かりませんでした」

 伝えられている手綱の結び目の尾錠がぶつかったという説に関しては次のように続けた。

 「思いあたるのがそれくらいしかありませんでした」

 診察の結果、左鎖骨がまたも粉砕されていた。

 「移植した方が治りは早いだろうという事で、股関節の骨を移植しました」

 結果、1ヶ月半で戦列に復帰出来た。しかし……。

 「良い馬を沢山依頼されているタイミングで乗れなくなってしまい、戻って来た時には騎乗数が減ってしまいました」

模索する中、助けてくれた人達

 結局、21年は14勝に終わると、昨年の22年は8勝。怪我をする前の成績には及ばない月日が、ズシリと藤田にのしかかった。

 「自分なりに一所懸命に頑張っていたつもりですけど、結果に結び付かないので何をどう頑張れば良いのか分からず、苦しみました」

 成功するためには努力が必要だが、努力をすれば成功するとは限らない。負けて当たり前の競馬の世界はそれが特に顕著なため、ジレンマに襲われる中での手探りは続いた。そんな模索の一策として、ある行動に出た。

 「何とかしないと、今のままではいけないと思い、決断しました」

 慣れ親しんだ美浦を一度離れ、栗東に滞在する事を決めたのだ。

 「普段、なかなかゆっくり話せない関西の方々と時間を取れたのは刺激になったし、勉強にもなりました」

 とりわけ調教師の藤原英昭には「お世話になった」と続ける。

「技術的な事を教えてくれた」と藤田が語る藤原英昭調教師
「技術的な事を教えてくれた」と藤田が語る藤原英昭調教師

 「藤原先生には『何より足りないのは技術』とはっきりおっしゃっていただき、その後、沢山、指導をしてもらえました」

 馬乗りに関し基本的な事は、競馬学校で教わってきた。しかし、卒業して騎手デビューした後、そのような指導を受けた事はなかった。

 「レースに於いて『ここではこういう動きをした方が良かった』という感じで教えてくださる先輩方は沢山おられました。勿論、それも勉強にはなったのですが、藤原先生からは馬を操る上での技術的な指導を受け、基本を思い出させてもらいました。騎手にはコーチがいないので、そのような役割を担ってもらえた事は、ありがたく、本当に感謝しかありませんでした」

 自分一人でやっていると「果たしてこれで正しいのか?」という不安が何度も頭をもたげた。一所懸命に間違った方向へ走ってしまっているのでは?と悩む日もあった。そんな中、方向性を示してくれた事は大きく、栗東滞在は当初の予定より長い3ヶ月に及んだ。

 美浦に戻ってからは「先輩である松岡さん(正海騎手)が事ある毎に声をかけてくださった」と語る。

 「『まだまだ負けてられないでしょ?』と言って、技術面など、何でもアドバイスをしてくれたし、相談にも乗ってもらえました。ある時はセリ会場へ連れて行ってもらえ、オーナー等、多くの方を紹介してくださいました」

何かと藤田を助けてくれたという松岡正海騎手
何かと藤田を助けてくれたという松岡正海騎手

復活に懸ける日々

 今回、名前を挙げた藤原や松岡以外にも、師匠の根本康広を始め、助けてくれるホースマンは沢山いる。当時、男しかいなかったジョッキー界に、覚悟を持って飛び込んだホースウーマンが苦しむ姿をみて、手を差し伸べたいと考える人は多いのだ。

 「沢山の人が助けてくださるのも分かっているからこそ、もっと頑張らなくてはいけないと考えています」

 今年は女性騎手が世界をラウンドするという企画があり、藤田が招待を受けていたが、残念ながらこのイベント自体が頓挫してしまった。

 「今、世界を経験出来れば、デビュー当初に行かせてもらった時とはまた違う勉強が出来るはず」と心待ちにしていた藤田にとっては残念なニュースで、荒波はまだ続くのかもしれない。それでも彼女はきっとまた戻ってくるだろう。デビュー4年目で40勝以上を記録し、重賞も制した若いジョッキーが、ものの何年かで腕を落とすとは思えない。むしろ経験を積んだ分、前進しているのは疑いようがないだろう。話題性等に流されず、見てくれている人は必ずいるはずだ。藤田菜七子のこれからに改めて注目し、応援したい。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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