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大怪我を負ったジョッキーの現在の状況とこれから……SideAの物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
20年フラワーCをアブレイズで制し、JRA初重賞制覇を飾った藤井勘一郎騎手

20年がかりで掴んだ夢の舞台

 「前で故障した馬を飛び越そうとしたところまでは記憶にあります。次に気付いた時はもう医務室にいました」

 4月21日、午前7時51分にかかってきた電話で、そう伝えられた。声の主は藤井勘一郎。遡ること5日。16日の福島競馬で落馬をしていた。

藤井勘一郎騎手
藤井勘一郎騎手

 藤井が生まれたのは1983年12月31日だから現在38歳。漫画で競馬を知り、武豊に憧れ、騎手を目指した。体が大きくなりJRAの受験資格をクリア出来なかったが、夢を諦める事は出来なかった。自ら「藤井チャレンジ」と名付け、中学卒業と同時に海の向こうにチャンスを求めた。オーストラリア、シンガポールで研修し、再びオーストラリアへ戻った2001年12月、念願の初騎乗を果たした。

 「結果は4頭立ての3着でしたけど、初めてパドックで跨った時の風景は今でもハッキリと覚えています」

 僅か2週間後にはゲートの中で騎乗馬が暴れて顎を骨折。2ヶ月のリハビリを余儀なくされたが、復帰すると、本人も驚く結果が待っていた。

 「復帰初戦で初勝利を挙げる事が出来ました」

 これを機に一気に波に乗った。ローカルで勝ち星を重ねるとシドニーに挑戦。メトロポリタンで跳ね返されるどころか、ここでも2年連続で見習いリーディング2位という活躍を見せた。

 「約5年で200勝くらい出来ました」

 また、05年には将来の伴侶となる女性と出会った。

 しかし、必ずしも追い風ばかりではなかった。06年にはビザの関係で一時帰国。藤沢和雄厩舎等で研修した後、騎乗機会を求めてシンガポールへ。08年にはまたオーストラリア。ここで落馬をして引退も頭を掠めたが、そんな時、思い留まらせてくれる出来事があった。

 「妻のお腹に新しい命が宿りました」

 奮起して、乗れるところなら世界中どこへでも飛んだ。韓国では釜山地区でリーディング争いをした。オークスやダービーも制した。日本馬とのタッグでコリアスプリントを勝った日もあった。

18年にはJRAのモーニンに騎乗して韓国でコリアスプリントを優勝した
18年にはJRAのモーニンに騎乗して韓国でコリアスプリントを優勝した

 しかし、そんな時も常にモヤモヤした思いが付きまとった。

 「妻が子供を連れて幾度も日本と外国を往来してくれました。時にはビザの取得に時間を要し、国境を挟んで長い間離れ離れになった時期もありました。なんとか腰を落ち着けて、一緒にゆっくり暮らせる環境を、という思いはいつも持っていました」

 だから自分のためだけでなく、家族のためにJRAの免許取得を目指した。その結果、6度目の受験でついに難関を突破。19年、晴れてJRAの騎手になれた。

 「海外で怪我をした事も何度もあって、挫けそうにもなったけど、チャレンジし続けて良かったです」

JRAの試験にチャレンジしていた頃の藤井(2014年撮影)
JRAの試験にチャレンジしていた頃の藤井(2014年撮影)

新たなる試練

 20年がかりでついに掴んだ夢の舞台。しかし、競馬の神様は更なる試練を彼に与えた。冒頭で記したように4月16日の福島で落馬。意識を失った藤井は、目覚めた時を次のように振り返った。

 「最初は酷く肩が凝っているような感じを受けました」

 そして、受け入れ難い事態に見舞われている事に気付いた。

 「胸から下の感覚がまるでなく、足を触っても何も感じませんでした」

 脊髄損傷。血圧が低下し、熱も出た。体中を隈なく検査した後、緊急手術が施された。

 「オーストラリアは競馬場も騎手も日本より多いので、こういう例を沢山見て来ました。でも、まさか、自分がなるとは……という感じで信じられませんでした。翌日には妻が駆けつけてくれたのですが『やっとここまで来られたのに……』と泣き崩れていました。ただ、自分は意外と冷静で、この時点ではそれほど大きな問題ではないと考えていました」

 しかし、その後も胸から下の感覚が全く戻らなかった。脊髄関係では権威ある病院へ転院すると、その後は脊髄損傷に特化したリハビリを行っている。その間もSNSでは前向きな発言だけを発信したが、実際のところは必ずしも順風満帆とは言えなかった。寝ていて背中の下に携帯電話などの硬い異物があっても全く気付かなかった。排泄の欲求はなく、管を挿して排尿や排便を促した。感染症で寝込んだ時期もあったし、車椅子で少し出ただけで意識が飛びそうになり、看護師が駆けつけた事もあった。

リハビリに励む藤井(本人提供写真)
リハビリに励む藤井(本人提供写真)

藤井チャレンジ第2章の始まり

 そんな滅入ってしまいそうな時、周囲の励ましに助けられた。

 「JRAや騎手クラブのサポートには感謝しています。また、前で落馬をした小林(脩斗)君から謝罪の電話があったけど、彼だって騎乗馬が骨折して落とされたのだから、気に留めないで良いと伝えました。他にも名前をあげればキリがないけど、クリストフ(ルメール)やミルコ(デムーロ)は常に気にかけて定期的に連絡をくれます」

サイクリング仲間のルメール騎手(中央)やデムーロ騎手(右)は定期的に連絡をくれるという(本人提供写真)
サイクリング仲間のルメール騎手(中央)やデムーロ騎手(右)は定期的に連絡をくれるという(本人提供写真)

 更に、宮崎北斗にも助けられたと続ける。

 「彼が脳神経の勉強をされている事は知っていたので、アドバイスを求め、言われた通りにすると少しですが足が動きました」

 ほんの一瞬の事だったが、証左が出来たのはその後の励みとなり、現在でもモチベーションになっていると語る。

 また、名もなき人に助けられる事もあった。

 「病棟の中を車椅子で10キログラムの重りを引きずって10キロメートル走り、病室に帰って来たら他の患者さんからミカンの差し入れがありました」

 これには次の日も頑張ろうと奮起させられ、改めて思った。

宮崎北斗騎手(写真)の助言で足が動いた事が、現在のモチベーションになっていると藤井は言う
宮崎北斗騎手(写真)の助言で足が動いた事が、現在のモチベーションになっていると藤井は言う

 「重賞こそ勝たせてもらったけど、まだGⅠも勝てていないし、やり残した事は沢山あります。辞めるわけにはいきません」

 そして、もう1つ、藤井を支えているのが、家族の存在だった。

 「現在、自分には10歳と2歳の男の子、それに7歳の女の子の3人の子供がいるのですが、今回の怪我をした後は1度も会えていません。突然、自分がこんな事になってしまったので、妻は大変だと思います。彼女は自分がJRAの騎手になるために全てを捧げて挑戦している時も常に応援してくれました。ついにJRAの騎手になれて、やっと彼女にも恩返しが出来る立場になったばかりなのにこんなすぐにリタイアするわけにはいかないんです」

 自分のため、そして家族のために藤井チャレンジの第2章が始まった。道は険しいが、彼ならきっと乗り切ってくれると信じて応援したい。

20年撮影の藤井。胸にはFUJII Challengeの文字が
20年撮影の藤井。胸にはFUJII Challengeの文字が

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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