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3冠ジョッキーを形成した若き日の海外遠征の思い出とエピソード

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
2001年にフランスで騎乗した際の池添謙一

二十年前の出会い

 先日、騎手の池添謙一と久しぶりにゆっくりと会話をした。出版社の企画による対談だったのだが、互いに昔話となり、勢い若き日の彼の海外での話などになった。後にトップジョッキーとなる彼の、若き日のエピソードを改めて活字にしてみたい。

 私が彼と話すようになったのは二十年前。すでにデビューしてから3年が過ぎていた池添だが、彼は関西の所属で当方は関東を中心に取材していたため、それまでまじわる機会がほとんどなかったのだ。当時から武豊の海外遠征に帯同していた私はこの年も夏のドーヴィル開催に彼を訪ねた。そして、彼の泊るホテルの部屋のドアをノックすると「こんにちは!!」と言いながらあどけない顔を出したのが当時21歳の池添。取材ノートをめくると2001年7月13日の出来事だった。21歳は将来を見据え、勉強のつもりで海外渡航を決断。偉大な先輩騎手を頼ってフランス入りしていたのだ。

2001年、偉大な先輩で憧れでもある武豊(左)を頼ってフランス、ドーヴィル入りした池添
2001年、偉大な先輩で憧れでもある武豊(左)を頼ってフランス、ドーヴィル入りした池添

思いもしない形で海外初騎乗

 すぐに3人で昼食をとった後、向かったのがドーヴィル競馬場。日本のナンバー1ジョッキーは騎乗馬があったのだ。

 ところがそこで事件が起きた。この日、最初に乗ったレースでコンビを組んだ馬が故障。天才は馬場に叩きつけられると、左手を骨折。以降に予定していたレースは当然、乗り替わりとなってしまったのだ。

 ここでまた日本では考えられない事態が起きる。乗れなくなった武豊が「ケンイチを乗せてもらえないですか?」と次に騎乗を予定していた馬の陣営に問うと、話はとんとん拍子に進み、池添の海外初騎乗がタナボタ的に決定したのだ。述懐する池添の表情は今でもほころぶ。

 「とりあえずジョッキーライセンスを持って行っていたのが良かったけど、まさかこんな形で海外初騎乗が決まるなんて考えもしませんでした」

 この日は観戦するだけのつもりだったから鞍など乗るための道具は一切持参していなかった池添に、武豊が一式を貸した。しかし……。

 「ブーツだけはサイズが合わなかったので、オリビエ・ペリエに借りました」

武豊のシャツを着て、ペリエ(左)からブーツを借り「1人ワールドスーパージョッキーズ」と言われて海外初騎乗を果たした池添
武豊のシャツを着て、ペリエ(左)からブーツを借り「1人ワールドスーパージョッキーズ」と言われて海外初騎乗を果たした池添

 “1人ワールドスーパージョッキーズ”と言われて騎乗。海外で初めてコンビを組んだ馬の名は“ハッタリ”といった。レースは直線の芝1000メートル。当時はまだ新潟競馬場のこの条件がない時代。つまり、日本にはない条件での初騎乗となった。

 「返し馬も仕掛けどころも分からなくて、バタバタしたまま終わってしまいました」

 当時まだ実績がなく、翌日の新聞でも“Kanichi Ikezeo”と書かれてしまった彼が本当の意味でバタバタするのは更にこの後だった。骨折した武豊が緊急帰国。若手騎手は1人、異国に残された。武豊取材で現地入りしていた私だが、さすがにこの若者を見捨てて帰国するわけにはいかなかった。そこでしばらく2人で過ごしたのだが、池添は心細そうな表情を見せつつも現地の調教に黙々と騎乗。結果、数鞍のレース騎乗を手にした。実戦ではペースの違いに戸惑い、密集する馬群には神経を減りすらした。しかし、その1つ1つが若手のヒキダシを増やしていった。

海外初勝利のエピソード

 その後、デュランダルやカレンチャンでの香港遠征もあったが、先日の対談で話題になったのは12年1月のドバイ遠征だ。前年、オルフェーヴルで3冠を制した池添は、当時、ドバイで行われていたジョッキーマスターズ競走の招待を受け、参戦した。このイベントは世界中から前年のダービージョッキーを始めとした名騎手が招待され、複数のレースで覇を競うモノ。日本のワールドオールスタージョッキーズのような企画で、いわゆるお祭り的な要素が濃い。しかし、ここで私は池添のプロフェッショナルな姿勢を目の当たりにした。現地で顔を合わせた彼は「出走各馬の過去のレースぶりをチェックしたい」と言ったのだ。

2011年のカレンチャンとの香港遠征。レース前夜には相手各馬のレースぶりを入念にチェックした
2011年のカレンチャンとの香港遠征。レース前夜には相手各馬のレースぶりを入念にチェックした

 それまでも彼からそのようなリクエストをされる事はたびたびあった。先述した香港遠征時などがそうだ。私は外国勢の各馬の出走レースビデオを現地に持って行っているため、その度、一緒にチェック。そのVを見ながら当方で知っている情報は出来る限り伝達していた。しかし、それは国際レースだったから、と考えていた。このドバイの時は先述した通り半ばお祭り的な企画である。つまり、真剣に勝ち負けにこだわらなくてもF・デットーリを始めとした世界の名手と一緒に乗れるだけで良いのでは?と思える状況だった。ところが31歳になった池添の気持ちは違った。ここでも勝つ姿勢にこだわったのだ。

2012年、ドバイのジョッキーマスターズでの1葉。池添はF・デットーリら名手と乗れるのを喜ぶだけでなく、勝ちにこだわった
2012年、ドバイのジョッキーマスターズでの1葉。池添はF・デットーリら名手と乗れるのを喜ぶだけでなく、勝ちにこだわった

 慌てたのは当方だ。国際レースとは違ったので、真剣に出走馬のチェックは行っていなかった。ましてレースVTRなど持っていなかった。そこで急きょ、レースの見られるサイトにつなぎ、2人で各馬の過去何走かをチェックした。というわけでレース前はせわしない時間を過ごしたのだが、これを池添は無駄にしなかった。「1番チャンスがありそう」と思えたストリートアクトという馬を見事に先頭でゴールへいざなった。池添自身初となる海外での勝利は、メイダン競馬場になってからは初めてとなる日本人騎手の勝利ともなったのである。

自身海外初勝利にガッツポーズを見せる池添。向かって右はシェイク・モハメド
自身海外初勝利にガッツポーズを見せる池添。向かって右はシェイク・モハメド

経験を糧にトップジョッキーに

 こうして中東で笑みを見せたものの、同年秋には試練が待っていた。オルフェーヴルが凱旋門賞(G1)に挑戦したのだが、この大一番で「フランスでの経験が浅い」という理由から池添は鞍上に指名されなかった。翌13年もオルフェーヴルの凱旋門賞挑戦が決まると、パートナーは初夏のうちにフランス入り。少しでもかの地の競馬の経験値を積もうとしたが、残念ながらまたしてもロンシャンで鞍上を任される事はなかった。

2013年、フランスで騎乗した際の池添
2013年、フランスで騎乗した際の池添

 しかし、何とかしようと自ら現地へ赴き異国で過ごした経験は、彼自身の血となり肉となったはずだ。ブラストワンピースとコンビを組んでの4度目の有馬記念(G1)制覇も、インディチャンプやグランアレグリアでの代打ホームランも、そういった姿勢と無関係ではないだろう。初めて顔を合わせた時、彼は1つのG1も勝っていなかった。あれから20年。現在は26ものそれを制している。その姿勢が変わらぬ限り、勲章の数はまだまだ増えていくだろう。ドーヴィルのホテルでドアを開けた時のあどけない表情は、今はもうない。精悍な顔をした3冠ジョッキーのますますの活躍を期待したい。

オルフェーヴルで3冠を制すなどして今ではすっかりトップジョッキーの顔になった池添
オルフェーヴルで3冠を制すなどして今ではすっかりトップジョッキーの顔になった池添

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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