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900勝達成のベテラン騎手は2人の恩人と1人の今は亡き同期から形成されていた

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
昨年暮れJRA通算900勝を達成した江田照男騎手

デビュー時に支えてくれた2人の恩人

 ある冬の日の美浦トレセン。無口で知られるライアン・ムーアがわざわざ私のところにやってきて、言った。

 「あれは誰だい?」

 視線の先には全身ピンクの男がいた。シャツは半袖。

 江田照男だ。

 実は彼、私が持っている草野球チームのメンバーでもあるのだが、その試合の際はしっかりアンダーシャツを着用している。しかし、朝の調教時はたとえ氷点下でも半袖なのだ。

 そんな彼は昨年の暮れ、JRA通算900勝を達成した。“穴男”の異名を持つ江田は多くの後輩達に記念のプラカードを掲げられ、笑みを見せた。現在のそんな彼は2人の恩人と亡くなった1人の同期から形成されている。そんな話を記していこう。

日中、趣味で行う野球ではアンダーシャツを着用している江田
日中、趣味で行う野球ではアンダーシャツを着用している江田

 江田照男は1972年2月8日、福島県で父・勝男、母・カツ子の下に生まれ、兄と妹と育てられた。幼少時は野球や剣道に興じ、書道も嗜んだ。小学生の時の文集に『将来はプロスポーツ選手になる』と記した彼が、競馬と出合ったのは中学3年生の時。学校の廊下に『競馬学校生徒募集』のポスターが貼られているのを見つけた。その何気ない行為が彼の人生を大きく変えた。書かれている身長や体重などの制限を全てクリアしていたため、受けてみる事にしたのだ。

 「試験会場は福島競馬場でした。運動神経は良かったので、その点は大丈夫かと思ったのですが、筆記試験は自信がありませんでした」

 そんな本人の気持ちとは裏腹、合格した。

 「120人くらい受けて、合格は12人でした」

 これだけの難関を突破したにもかかわらず、3日目にはもう辞めようと思ったと述懐する。

 「競馬学校で初めて馬に跨りました。あんな大きい生き物をコントロール出来るわけがないと思い、辞めようかと思いました」

年頭早々、カナシバリで初茜賞を優勝した江田だが、競馬学校は入学3日で「辞めたいと思った」と言う
年頭早々、カナシバリで初茜賞を優勝した江田だが、競馬学校は入学3日で「辞めたいと思った」と言う

 しかし、ここで辞めて実家に帰っても家族に迷惑をかけるだけと考え直した。すると1年後、大きな出会いが待っていた。2年生となり、トレセンの厩舎実習に行った時の事だ。

 「田子(冬樹)厩舎でお世話になったのですが『調教は出来るだけ多く乗れるようにしなさい』と言われ、他の調教師も紹介していただき、乗せてもらえました。1日に10頭以上乗る事もよくありました」

 3年で卒業し、90年にデビューした時も師匠の考えは変わらなかった。

 「田子先生は『とにかく数を乗らないと駄目』と仰られて、調教も競馬もあちこちの厩舎の馬に沢山乗れるようにしてくださいました」

 そんな中でもう一つの出合いがあった。3月の初騎乗も4月の初勝利もアラブのカガミヤマという馬でマークした。その馬の調教師は矢野照正。全面的に江田をバックアップしてくれた。

 「何頭か調教で乗せてくださって『その中から好きな馬に乗って良い』と選択させてくれる事もありました。カガミヤマもそんな1頭でした」

 また「技術は見て盗め」と言われた。

 「当時は岡部(幸雄元騎手)さんがずば抜けていました。個人的な付き合いは全くなく、話した事もなかったけど、手綱捌きはくまなくチェックして見させてもらいました」

 8月5日には重賞初騎乗となる関屋記念(G3)でサファリオリーブの手綱をとった。結果は6着だったが「一瞬良い脚を使ってそう差のない競馬が出来た」事から、重賞レベルの馬を知った。するとそれからひと月と経たない同月26日、新潟記念(G3)で再びサファリオリーブに騎乗。15頭立てのブービー14番人気という低評価だったが、3頭横並びのゴールでハナ差先着。江田は新人騎手ながら早くも重賞初制覇。“穴男”の歴史が始まった。

デビュー年にサファリオリーブで重賞新潟記念を制覇。向かって右は江田が「恩人」と語る田子調教師(写真提供=JRA)
デビュー年にサファリオリーブで重賞新潟記念を制覇。向かって右は江田が「恩人」と語る田子調教師(写真提供=JRA)

 「サファリオリーブは田子先生が管理する馬でした。僕自身もそうだけど、厩舎にとっても初の重賞勝ちだったのが嬉しかったです」

 結局1年目に27勝を挙げ、関東新人騎手賞を獲得した江田は、翌91年、更にアッと言わせる大仕事をする。天皇賞(秋)で矢野照正厩舎のプレクラスニーに騎乗すると、1位入線したメジロマックイーンの降着による繰り上がりといえ、勝利。デビュー2年目、19歳、G1初騎乗でいきなり天皇賞を優勝するという偉業を達成してみせた。

 「プレクラスニーは爪の形状からして道悪を走れる馬ではなかったのに、この時は頑張ってくれました。ただ、はるかに離されての2位入線だったから、正直、勝ったという現実味はないままインタビューや表彰式を受けていました」

穴男から若手へのメッセージと自らの今後について

 その後も江田は穴をあけまくる。98年には障害帰りで単勝355・7倍、12頭立て12番人気だったテンジンショウグン(矢野照正厩舎)で日経賞(G2)を優勝。2000年には単勝257・5倍、16頭立て16番人気のダイタクヤマトでスプリンターズS(G1)を制覇。12年には単勝167・1倍、14頭立て12番人気のネコパンチで日経賞を勝利。“穴男”は現在もなお健在で、昨年挙げた18勝も1番人気馬での勝利は2つのみ。単勝182・2倍のホープフルサインで大穴をあけたり、単勝10番人気のランペドゥーザでカーネーションCを勝ったり、同じく10番人気のカップッチョで勝利した。通算900勝まで5勝としてから積み上げた勝ち星もそれぞれ8、6、7、5、8番人気での優勝劇だった。江田は言う。

通算900勝達成となった昨年暮れの立志S(モルフェオルフェ)での口取り写真
通算900勝達成となった昨年暮れの立志S(モルフェオルフェ)での口取り写真

 「僕よりも若くてもっと勝っている騎手もいるので威張れる数字とは思っていません。ただ、ここまで出来たのは2人の恩人、田子先生と矢野照先生のお陰だと思っています。田子先生はもう亡くなられてしまったけど、今でも感謝の気持ちを忘れた事はありません」

 さて、そんな江田が900勝を達成した際、何人もの後輩騎手達が記念のプラカードを掲げに来た事は冒頭に記した。福島訛りでも分かるように、飾り気がなく慕われる性格という事もあるが、後輩達を思う気持ちも、彼が好かれる要因だ。

 「自分が若い時と違い、今の若い子達は調教師から全面的なバックアップを受けるのも難しくなっています。時代の流れであって調教師が悪いわけではないけど、すぐに乗り替わりになるのも当たり前です。それだけに若い子達には頑張って欲しいという気持ちがあります」

 そして、自身にも共通する事であり、若手に望む事として「少しでも長く乗れるのが1番良い」と言い、更に続けた。

 「同期に玉ノ井健志がいました」

 今の若いファンは聞きなれない名前かもしれない。90年に騎手デビューした彼は、2年後、中山競馬場でのレース中に落馬。帰らぬ人となった。

 「もうあんな経験はしたくないですからね。自分だけでなく、若い子にも長く乗ってもらいたい。そのためには危険な乗り方はして欲しくないし、してはいけないと考えて乗っているつもりです」

トレセンでは全身ピンクの江田照男。周囲が皆ジャンパーに身を包む中、真冬でも半袖だ
トレセンでは全身ピンクの江田照男。周囲が皆ジャンパーに身を包む中、真冬でも半袖だ

 トレセンでのエピソードは冒頭で記したモノだけではない。先日、デンコウアンジュで愛知杯を制した大ベテラン柴田善臣と話していた時もこんな事があった。年頭から活躍している武豊や横山典弘の名も挙げつつ、柴田に「ベテランが元気で嬉しいね」と話すと、彼も「まだまだ元気だよ」と答えた。そんな時、偶然、目の前に現れたのが江田だった。例によって半袖の彼を見て、柴田は笑いながら言った。

 「江田テルの元気にはかなわないけどね」

 当の本人は「この格好でも風邪をひいた事がない丈夫な身体」と言い、更に「生んでくれた親に感謝」と語る。今更だが病気の心配はなさそうだ。怪我や事故にはくれぐれも注意して、これからも長く騎乗し、穴をあけまくっていただきたい。

画像

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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