世界のユタカ・武豊騎手が海外遠征原点ともいえる地へ帰って発した言葉と行動とは……

サンタアニタパーク競馬場で行われたブリーダーズCでマテラスカイに騎乗した武豊

アメリカ西海岸での経験を糧に

 11月4日、浦和競馬場で行われたJBCレディスクラシックを武豊騎手が優勝した。

 彼は前夜(時差の関係でカウント上は2日前になるが、実質前夜)までアメリカにいた。現地時間1、2日、アメリカ西海岸にあるサンタアニタパーク競馬場で行われたブリーダーズカップに参戦していたのだ。

 「ほぼ通年で真っ青な空と、向こう正面に聳える山並みが見事にマッチして映えるので大好きな競馬場です」と武豊は言うが、BCジュベナイル(G1)に出走したフルフラット(牡2歳、栗東・森秀行厩舎)は5着、BCスプリント(G1)のマテラスカイ(牡5歳、栗東・森秀行厩舎)は8着にそれぞれ敗れた。しかし、彼にとって、この地のブリーダーズCに騎乗する事は、単なる勝ち負けではない感慨深いモノがあった。

サンガブリエル山脈と通年で青い空が綺麗なサンタアニタパーク競馬場。写真はフルフラットに騎乗しBCジュベナイルに挑戦した武豊
サンガブリエル山脈と通年で青い空が綺麗なサンタアニタパーク競馬場。写真はフルフラットに騎乗しBCジュベナイルに挑戦した武豊

 サンタアニタパーク競馬場から車で10~15分ほど西へ行ったところにパサディナという街がある。2000年、武豊はそこに家を借り、かの地の競馬に参戦した。今回、彼と共にその家を訪れた。当時、何回か寄らせていただいた私でさえ懐かしく感じたのだから、そこに住んでいた彼の脳裏に様々な思いがよぎったであろう事は想像に難くない。

 「海外に行き始めたばかりの頃はユタカではなく『ユカタ』なんて呼ばれる事もありました。『本当に浴衣を着て行こうかな?』なんて考えた事もありましたよ」

 笑いながらそう語る。

今回の遠征で、2000年に住んでいた家を訪れた武豊
今回の遠征で、2000年に住んでいた家を訪れた武豊

 今年はJRA通算4100勝を達成した。1つ勝つ度に上書きされていく前人未到の大記録だが、この数字に加えられていない勝ち鞍もゆうに三桁を超えている。その中で最も多いのは現地に居を構えて騎乗した01、02年のフランスでの勝利数だが、アメリカの西海岸の競馬に挑戦したのはその前年の00年。ロサンゼルス郊外のパサディナやデルマーに家を借り、現在は閉場となったハリウッドパーク競馬場やデルマー競馬場、そして今回ブリーダーズCが行われたサンタアニタパーク競馬場を主戦場としてレースに臨んでいた。その頃、すでに日本では揺るぎのないトップジョッキーの地位を固めていた武豊だが、その名が決して印籠代わりにはならなかったアメリカでの騎手生活を振り返る。

 「競馬はだいたい週に5日、開催されていたけど、全く乗り鞍のない日もしょっちゅうありました」

 アメリカの西海岸といえばトップジョッキーが北米全土から集まる激戦区。加えてほとんどのレースが8頭立てにも満たない。5頭立てなどという事も全く珍しい事ではない。当時、かの地のジョッキーエージェントは騎手2人までを担当出来るシステムであり、つまり、3~4人の優秀なエージェントが駒を取り合う感じ。それ以外のエージェントがついた騎手が乗り数を確保するのは非常に困難。武豊をして乗れない日が茶飯事的にあったのにはこういう背景もあった。

 そもそも武豊がアメリカへ行こうとした際、声をかけてくれたエージェントは非常に優秀な人物だったのだが、当初の予定より渡米が大幅に遅れた事により、このエージェントはJ・ベイリー(通算5893勝)を担当する事になってしまった。武豊は言う。

 「ビザの申請に手間取った事もありますが、当時は日本でも次から次へと騎乗依頼が来て、素晴らしい馬達にも出合えたので、日本を発つタイミングを逸して、のびのびになってしまいました」

 もしベイリーのエージェントに担当してもらえていたら、乗り数自体はもっと増えたと考えられ、彼の技術を持ってすれば、それはイコール成績にも反映された事だろう。ちなみに先述した通り翌年、彼はフランスへ飛ぶのだが、この時、瞬時に決断し行動に移したのは、このアメリカでの苦い経験があった事も影響していたのだ。

 そんな苦戦を強いられた00年の西海岸だが、長期に及ぶ滞在という事で、当時、私も複数回、彼の元を訪れた。乗れない日もある反面、1日に2勝するなど、数少ない乗り数の中でもキラリと光る騎乗を披露するシーンにも立ち会わせていただいた。翌年から2年間のフランスでの騎乗を終えてまた日本に腰を据えるようになると、年間200勝以上を3度(03年~05年)記録。04年に出合ったディープインパクトとのコンビでは無敗で三冠を制し、黄金時代を築いた。そして現在の“現役でいながら伝説のジョッキー”という唯一無二の存在になってみせた。

今回のブリーダーズCは森秀行調教師(右)の管理馬と共に臨んだ
今回のブリーダーズCは森秀行調教師(右)の管理馬と共に臨んだ

世界が認めるユタカタケ

 そんな彼の名は当然、世界にも轟いている。

 サンタアニタパーク競馬場で他の騎手から次のように言われたと語る。

 「『ブリーダーズCの度にユタカが乗りに来るけど、日本には君しかジョッキーはいないのか?』って言われました」

 彼が日本では突出した存在になっているのは事実である。外国の関係者と競馬の話をすると、以前はアメリカなら「ユキオオカベ(岡部幸雄元騎手)」、イギリスなら「カズフジサワ(藤沢和雄調教師)」の名も出ていたが、現在ほぼ100%の確率で上がるのがユタカタケの名である。

 彼の凱旋門賞への熱き想いは日本の競馬ファンなら誰もが知るところだが、レース中、パープルのレギンスを着けているのは実はそれがブリーダーズCのイメージカラーだからという由来があるように、アメリカの一大イベントへの関心も当然、高く持っている。このようなマインドを持ち続け、行動に移している事でその名は世界へ広まった。

パープルのレギンスはブリーダーズCカラーを意識してのもの。写真はBCスプリントに挑戦したマテラスカイ
パープルのレギンスはブリーダーズCカラーを意識してのもの。写真はBCスプリントに挑戦したマテラスカイ

 今回はこんな事もあった。彼と共にロサンゼルスのレストランで食事をしていると、偶然にもそこにアイルランドの伯楽エイダン・オブライエンと子息のジョセフ・オブライエン両調教師、そして騎手のライアン・ムーアらが来店した。彼等は日本が誇るトップジョッキーに次々と握手しながら挨拶をかわした後、ジャパンやブルーム、引退の決まったマジカルなど、エイダンが管理する馬の話に花を咲かせた。そして最後は「来年はバリードイル(エイダン・オブライエン調教師が厩舎を構える場所)に乗りに来てください」とエイダンが武豊に言って、その場はお開きとなった。

ロスのレストランで偶然遭遇。左からR・ムーア、A・オブライエン、武豊、J・オブライエン
ロスのレストランで偶然遭遇。左からR・ムーア、A・オブライエン、武豊、J・オブライエン

 このようにユタカタケの名が世界に認知されるようになったのは、日本国内での活躍に満足せず、苦労するのを承知して世界へ飛び立った事が、直接的にも間接的にも関わっているのは疑いようがない。アメリカやフランスを主戦場として乗る事で、その名が広まっていったのは勿論、日本のように多くは乗れない日々の中で少しでも好成績を残せるように努力した事で、世界に認められる技術は磨かれていった。日本とは違う形態の競馬場で、数多くの世界的にも名の通ったジョッキー達を相手に覇を競った経験の一つ一つが、彼の血となり肉となって、気付けば伝説のジョッキーが構築されていったのである。

 「懐かしいですね……」

 パサディナの街を歩きながら日本が誇るナンバー1ジョッキーはそう言った。現在、彼の事を「ユカタ」と呼ぶ人は、世界中のどこにもいない。

画像

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)