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ウィンクスを擁する大厩舎で働く日本人騎手が父親とかわした約束とは……

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
ウィンクスを擁するC・ウォーラー厩舎で働く市川雄介騎手

騎手への道を諦めきれずオーストラリアへ飛ぶ

 オーストラリアへ遠征中のクルーガーが13日に行われるクイーンエリザベスS(G1)に急きょ連闘で出走する事になった。

 このレースで誰よりも注目を浴びているのはウィンクスだ。7歳になる牝馬はこのレースを前にして32連勝中。G1も24勝と平地競走のG1勝利数としては世界記録を樹立。そんな彼女の現役ラストランという事で国内外を問わず注目されている。

 そんな最強牝馬が所属するのは地元のリーディング調教師クリス・ウォーラーの厩舎なのだが、実はここで汗を流す日本人騎手がいる事は意外と知られていない。導入が長くなったが今回はそんな男を紹介したい。

セリ場での市川雄介騎手(2015年撮影)
セリ場での市川雄介騎手(2015年撮影)

 市川雄介は1990年4月20日生まれだからもう間も無く29歳になる。父・達夫、母・ひろ子の下、東京都府中市で生まれ2人の妹と共に育てられた。

 幼少時はサッカーに興じていたが、小学5~6年生の頃にゲームを通じて競馬が好きになった。「最初に好きになった馬はナリタトップロードでした」と述懐する。

 父からは「高校くらいは出て、大学に行った方が良いんじゃないか?」とは言われたものの、決して反対はされなかったため、中学卒業時に競馬学校を受験。二次試験でふるいにかけられたが諦め切れず、1年間高校へ通った後、再受験。しかし……。

 「またも不合格でした」

 それでも諦め切れなかった市川は2007年、17歳の時にオーストラリアへ飛び、騎手への道を模索した。かの地では受け入れてくれる調教師を探してゴールドコースト、ブリスベンを経てシドニーにたどり着いた。

 「最初にシドニーに来た時は誰一人知り合いがいない状況でした。英語も出来なかったけど、厩舎に住み込んでジョッキーを目指しました」

 騎手免許を取得したのはそれから2年後。19歳になってからだった。

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父との約束

 現在、それから10年が過ぎた。オーストラリアへ渡ってからは干支がひと回りした。その間には様々な事があった。デビュー戦は後方のままついていけなかった。10戦目で待望の初勝利をあげた。その1勝のみに終わったデビュー年を糧に、年間36勝した年もあった。通算ではついに120を超える勝ち鞍をあげた。冒頭で記したようにC・ウォーラー厩舎を手伝うまでになった。

 また、15年には名古屋競馬で短期免許を取得。3ヶ月だが、念願の日本での騎乗を果たした。18年にはシドニーC(G1)に乗った。これが自身初のG1騎乗だった。

シドニーC騎乗時の市川
シドニーC騎乗時の市川

 「補欠馬が繰り上がりで使える事になり依頼が舞い込みました。他の競馬場で乗る予定を組んでいたけど、そちらは急きょキャンセルしてG1に乗せてもらいました」

 こういった間、常に応援してくれたのが家族だった。

 「両親共にオーストラリアまで応援に来てくれた事もあったし、名古屋競馬の時も家族4人で何回か観に来てくれました」

 異国へ向けて馬具を送ってもらったり、本を送ってもらったりという事も度々あったと言う。

 そんな中、父が倒れたと連絡が入ったのが17年の事だった。癌だった。

 「手術は成功し、なんとか一命は取り留めました」

 ところが翌年、再発した。今度はあんばいが良くなかった。「年内はもつだろう」と言われ、動けるうちにと家族旅行を計画。9月末に緊急帰国した。しかし、競馬の神様はなんと意地悪だろう。このタイミングで市川にG1の騎乗依頼が舞い込んだ。ジェイクズヒルというその馬は、ウォーラー厩舎の管理馬だった。

 市川は旅行へ行けなくなった事を父に謝り、とんぼ返りでオーストラリアへ戻った。

 「帰り際に父が『頑張るんだぞ』と言ってくれました」

昨年は日本から遠征したプレストウィックの最終追い切りに騎乗した
昨年は日本から遠征したプレストウィックの最終追い切りに騎乗した

 こうして9月29日に騎乗した自身2度目のG1・メトロポリタンだったが「思うように乗れず」最下位に沈んだ。そして、それから1カ月と経たない10月26日の金曜日の夜、再び連絡が入った。今度はすぐに帰国しないと死に目にあえないかもしれないと言われた。しかし、翌日の土曜日には3レースも騎乗予定があった。悩んだ市川だったが、急な乗り替わりで関係者に迷惑をかけるよりも自分が競馬に乗る事を父は望むだろうと考え、もう一日とどまる決意をした。

 「ずっと応援してくれた父に、勝って恩返しをしたい」

 そう思って3鞍に乗ったが、残念ながら先頭でゴールを駆け抜ける事は出来なかった。競馬を終えた市川はすぐに飛行機に飛び乗った。しかし、帰国した彼を待っていたのはモノ言わぬ父の亡骸だった。10月27日、父・達夫逝去。享年67歳だった。

 「とくに何かを言う人ではなかったけど、生きていてくれるだけで支えになっていました。いなくなって初めてそんな事に気付きました」

 父から最後に言われた『頑張るんだぞ』という言葉を胸に、市川は世界で活躍できるホースマンになりたいと語る。

 「応援してくれた父のためにも、もっともっと頑張ってやっていきます!!」

 ひいてはそれが残された家族のため、そして市川自身のためになることを父は知っていたのだろう。異国で頑張る男のますますの活躍に期待したい。

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(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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