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1942年秋のオランダの悲劇 アウシュビッツでガス殺された2歳のユダヤ人の男の子

佐藤仁学術研究員・著述家
(アウシュビッツ博物館提供)

第二次世界大戦時にナチスドイツが支配下の地域でユダヤ人を差別、迫害して約600万人のユダヤ人、ロマ、政治犯らを殺害した、いわゆるホロコースト。そのホロコーストの象徴的な存在の1つがアウシュビッツ絶滅収容所。アウシュビッツ絶滅収容所では欧州からのユダヤ人やロマ、政治犯ら110万人以上が殺害された。

アウシュビッツ絶滅収容所は現在でも世界中からの観光客や欧米、イスラエルの学生らが社会科見学で訪問しており、2019年には過去最高の230万人以上がアウシュビッツ絶滅収容所を訪問していたが、2020年は世界規模でのパンデミックの影響で、アウシュビッツ絶滅収容所博物館も一時閉鎖しており、昨年の訪問者数は52万人程度だった。最近ではオンラインやバーチャルでの展示にも注力している。それでも現在でもアウシュビッツ絶滅収容所は世界的な観光名所の1つである。

そして、アウシュビッツ博物館ではツイッターでも世界中に向けて、様々な情報発信を行っている。世界的に根強い反ユダヤ主義に対しても警鐘を鳴らすツイートも多い。

アウシュビッツ博物館のツイッターの特徴は、毎日、アウシュビッツ絶滅収容所で犠牲になった方々の誕生日や殺害された日に、彼らの写真とともに生まれた場所、いつ殺害されたかを投稿していることだ。110万人以上が殺害されたアウシュビッツ絶滅収容所なので、毎日誰かしらの誕生日であり、毎日誰かしらが殺害されたり死亡したりしていた。

映画「シンドラーのリスト」での、ユダヤ人の名前と囚人番号などをナチスドイツの親衛隊やユダヤ人警察が丁寧に聞き取って、書き取っているシーンを見たことがある人が多いだろう。ナチスドイツは逮捕して収容したユダヤ人のリストを緻密に作成していた。ナチスは敗戦が色濃くなると、多くの書類を焼却したり絶滅収容所の施設を破壊しようとしたりした。それでも残った犠牲者の情報や写真、データはきちんと保存されており、デジタル化されて、戦後70年以上が経過した現在、ツイッターを通して後世に伝えられている。

1942年秋のオランダの悲劇

そして2021年11月24日のアウシュビッツ博物館のツイッターでは、1939年11月24日にオランダのエンスヘデで生まれたユダヤ人の赤ちゃんのアレックス・ヴァイジェルを紹介していた。アレックスは1942年10月にオランダのベステルボルグ収容所を経由してアウシュビッツ絶滅収容所に移送されてアウシュビッツに到着と同時に「選別」されて3歳の誕生日直前にガス室で殺害された。欧州からのユダヤ人殲滅を政策に掲げるナチスドイツは赤ちゃんや子供だからといって許して助けるようなことは絶対にしなかった。

1942年5月にオランダのユダヤ人は黄色の星をつけることを義務付けられた。そして1942年7月14日にはアムステルダムでユダヤ人数千人が逮捕され、翌日にはユダヤ人1135人を乗せた最初の移送列車がオランダを出発した。それからはほぼ毎週、時には週に2回、家畜用車両でオランダのユダヤ人はアウシュビッツなど東方の収容所に移送された。オランダからのユダヤ人の移送は全部で93回だった。1942年夏はオランダのユダヤ人の状況は絶望的だった。オランダ全土からアムステルダムに集められたユダヤ人は劇場などに一時的に詰め込まれて、そこからベステルボルグ収容所を経由して東方の収容所に大規模移送された。1回で約1000人が移送されていったが、多い時には3000人ものユダヤ人がぎゅうぎゅうに押し詰めにされた貨車で収容所に連れていかれることもあった。

ナチスドイツのユダヤ人政策は「労働を通じた絶滅」だったので、ユダヤ人は死ぬまで働かされた。そして働けない老人や子供は、収容所に到着してすぐに「選別」されてガス室で殺害された。2歳のアレックスも当然働くこともできないので「選別」されてガス室で殺害されてしまった。ユダヤ人らは食事も水も全く与えられずに数日にわたって、立ちっぱなしで貨車に大量に詰め込まれて収容所に移送されていた。そのため多くの子供や老人は、収容所に移送される貨車の中で、飢えや渇き、病気などで死亡してしまっていた。そして、たとえ生きて収容所に到着しても「選別」されて即座に殺害されてしまった。赤ちゃんや子供の多くは貨車の中で死亡してしまった。

誰もが収容所に持参した家族や友人との思い出の写真

ある程度の年齢にいってから殺害された人たちは、職業や卒業した学校、家族関係なども記録されていることも多い。だが2歳のアレックスには、そのようなパーソナルヒストリーは残っていない。ユダヤ人でさえなければ、殺害されることもなかっただろう。そして2021年11月24日には82歳の誕生日を迎えた元気なオランダのおじいちゃんだったかもしれない。

それでもこのように写真と名前が残っているだけでも奇跡的な方である。移送されてきたユダヤ人の写真は本人や家族にとってはかけがえのない大切なものである。そのため大量のユダヤ人の写真がアウシュビッツなど収容所には持って来られていた。ユダヤ人は収容所に移送される時に「東方に移住して、新たな労働に就く」と騙されていたので、最低限の荷物を持ってくることができた。だが収容所を支配しているナチスにとってユダヤ人の写真は洋服や靴などのように再利用できるものでもなく、また金やダイヤなどのように換金できるものでなかった。そのためナチスにとってユダヤ人が持ってくる品物の中で収容所において一番不要で利用価値がないものがユダヤ人の写真だった。だが誰もが必ず家族や友人らとの平和な時の写真を持ってやってきた。

ホロコースト生存者でノーベル平和賞を受賞したエリ・ヴィーゼルはボストン大学の授業で「ホロコーストで殺されたユダヤの子供たちの名前を今から私が死ぬまで読み続けても、リストの最後にたどり着く前に私は死んでしまうでしょう。そのくらいたくさんいました。でも彼らの名前を思い出してやることぐらいはしてやらないと。あの子たちの多くは墓標すらないのです」と語っていた。エリ・ヴィーゼルも母と妹をガス室で殺害された。

学術研究員・著述家

グローバルガバナンスにおけるデジタルやメディアの果たす役割に関して研究。科学技術の発展とメディアの多様化によって世界は大きく進化してきました。それらが国際秩序をどう変化させたのか、また人間の行動と文化現象はどのように変容してきたのかを解明していきたいです。国際政治学(科学技術と戦争/平和・国家と人間の安全保障)歴史情報学(ホロコーストの記憶と表象のデジタル化)。修士(国際政治学)修士(社会デザイン学)。近著「情報通信アウトルック:ICTの浸透が変える未来」(NTT出版・共著)「情報通信アウトルック:ビッグデータが社会を変える」(同)「徹底研究!GAFA」(洋泉社・共著)など多数。

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