ローマ教皇 スロバキアのホロコースト記念碑を歴史的訪問
ナチスの傀儡政権だったスロバキアの大統領は聖職者で司祭だったティソ
ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が2021年9月にスロバキアのブラチスラバを訪問した。そしてブラチスラバにあるホロコースト記念碑を訪問した。第2次大戦時にナチスドイツが約600万人のユダヤ人、政治犯、ロマなどを殺害した、いわゆるホロコースト。
1939年3月にヒトラーによって独立宣言を強要されたスロバキアは初代首相・大統領に司祭で聖職者だったティソが就任。司祭で聖職者だったティソがナチスに協力してホロコーストに加担していたことから、スロバキアへの教皇の訪問は歴史的であり、現地では大きく報道され、ネットでも話題になっている。
当時のティソが率いるスロバキアはナチスの傀儡政権だったために、ホロコースト政策にも加担。ブラチスラバでも反ユダヤ法が導入され、ユダヤ人の基本的な人権がはく奪された。また銀行口座が凍結され、宝石や絵画、銀製品が没収された。ユダヤ人とわかるように、黄色い星の着用も義務付けられた。そして当時75000人いたスロバキアのユダヤ人は強制収容所に移送され、68000人が殺害された。現在スロバキアにいるユダヤ人は5000人程度。
1944年初頭、ナチスドイツがまだハンガリーを侵攻していなかったので、スロバキアの多くのユダヤ人が偽造旅券を使って隣国のハンガリーに避難した。だが当時のハンガリーの法律では、ハンガリーに住む知人や親せきが正式な養子にするならスロバキアの子供の移民認めるというものだったので、親権を放棄しなければならなかった。またスロバキアの法律ではハンガリーへの移民を禁じていたので、ユダヤ人の子供を送り出すために闇ブローカーが違法な国境越えを高額で行っていた。
そしてスロバキアのユダヤ人らは収容所からの脱出と情報提供でも有名だった。1944年4月にはアウシュビッツ絶滅収容所から、スロバキアのルードルフ・ヴルバとアルフレート・ヴェツレルの2人のユダヤ人が脱出できた。その時にナチスドイツの悪行を世界に知らしめるために、証拠となるチクロンBの缶も持ち出せた。アウシュビッツを脱出して3日後にスロバキアに辿りついて、スロバキアのユダヤ人評議会にアウシュビッツ絶滅収容所での実態を伝えた。そしてハンガリーのユダヤ人が大量殺戮されることも警告し、スイス経由で世界ユダヤ人評議会にも伝えられたが、ハンガリーのユダヤ人には届かなかった。また1944年5月にはスロバキアのシェスワフ・モルドヴィッチとアルノシ・ロージンの2人のユダヤ人がアウシュビッツから脱出。収容所の実態を連合国や中立国に伝えた。だがアメリカやイギリスも解放に向けた絶滅収容所への空爆など積極的な行動はとらなかった。
ホロコーストの記憶のデジタル化
戦後70年以上が経過しホロコースト生存者らの高齢化も進み、多くの人が他界してしまった。当時の記憶や経験を後世に伝えようとしてホロコースト生存者らの証言を動画や3Dなどで記録して保存している、いわゆる記憶のデジタル化は積極的に進められている。またホロコーストの犠牲者の遺品やメモ、生存者らが所有していたホロコースト時代の物の多くは、家族らがホロコースト博物館などに寄付している。
チェコスロバキアの時代から、チェコにあったテレジン強制収容所は、ナチスドイツがイメージ向上のためにプロパガンダ用に設置した有名な収容所だったので、記憶のデジタル化の整備も進んでいる。多くのテレジン強制収容所の情報やデータ、当時体験した人々の記憶や体験談がデジタル化されて保管されている。だがスロバキアでのホロコースト時代の記憶や体験のデジタル化は、チェコのものに比べるとまだこれからだ。戦後の冷戦時代にはソ連の共産主義下で、ホロコースト時代の情報もほとんど出てこなかった。ブラスチラバのホロコースト記念碑も、冷戦時代の1960年に共産主義者によって破壊されてしまったシナゴーグ(ユダヤ人の教会)の跡地にある。