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ファイザーCEOアルバート・ブーラ氏、ホロコーストを生き延びた両親の経験を初めて語る

佐藤仁学術研究員・著述家
(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

ギリシアのテッサロニキでホロコーストを生き延びた両親

新型コロナウィルスのワクチンで脚光を浴びているファイザーのCEOのアルバート・ブーラ氏の両親はギリシア系のユダヤ人でホロコーストの生存者である。そのアルバート・ブーラ氏が2021年1月のアウシュビッツ絶滅収容所が解放されてから76年を迎えた国際ホロコースト記念日で両親のホロコースト時代の経験を初めて語った。アルバート・ブーラ氏は戦後生まれなのでホロコーストは経験していない。

アルバート・ブーラ氏は以下のように両親の経験を語っていた。「多くのホロコースト生存者は、あまりにも悲惨な体験だったため当時の話を子供たちにはしませんでした。でも私の両親はしてくれました。それはとても幸運なことです。私たちに自分達の経験を伝えておきたかったのです。

両親は私に人生の価値を伝えたかったのです。両親は決してナチスに対しての怒りや復讐を口にしませんでした。両親はナチスが私たちの家族や友人にしたことについて、ナチスや現在のドイツを嫌わないようにと教えました。両親は生き延びることができた幸運と人生の喜びを伝えてくれました。

そのような観点で私の愛する両親である父のモイスと母サラの物語を伝えていきたいと思います。両親はギリシャのテッサロニキで生まれました。テッサロニキのユダヤ人は15世紀後半にスペインから、キリスト教への改宗を逃れて、当時のオスマントルコに移住してきました。ナチスドイツに占領されて、戦前に約5万人いたテッサロニキのユダヤ人は戦後には2000人程度しか生き残りませんでした。私の両親はその幸運な2000人の中にいました。

クリスチャンに成りすましてアテネで生き延びた父モイス

父はナチスに占領されると、他の多くのユダヤ人とともにゲットーに収容され、黄色いダビデの星を着用させられていました。そして1943年3月のある日、ゲットーがナチスによって封じられてしまい、多くのユダヤ人が絶滅収容所に移送されましたが、その時、偶然父と叔父イント氏(父の兄)はゲットーの外にいたので、助かりました。その時に、ゲットーの中にいた父の父(アルバート・ブーラ氏の祖父でアブラハム・ブーラ氏)に会って話をして、ゲットーで何が起きたかを聞いて、ゲットーには戻ってこないで、隠れるようにと言われました。それが私の父と叔父が、父のアブラハム・ブーラ氏、妻のラヘル氏(アルバート・ブーラ氏の祖母)、娘のグラジエラ氏(アルバート・ブーラ氏の叔母)、息子のデビッドに会う最後となりました。彼らはアウシュビッツ絶滅収容所に移送されてしまいました。

その後、父と叔父は、地元の警察が助けてくれて、クリスチャンネームの偽物のIDカードを手に入れてなんとかアテネまで逃げてくることができました。そして戦争が終わるまで2人はクリスチャンになりすましてアテネで生き延びることができました。戦後、ナチスドイツが去ってから父と叔父はテッサロニキに戻りましたが、家族が所有していたあらゆる財産はもうなくなっていました。全くの無一文からの出発となり、テッサロニキで2人で酒店を営み始めて、退職するまで酒店で働いていました。

処刑直前に間一髪で救われた母サラ

私の母の家族も父と同じようにゲットーに収容されていました。母は7人兄弟の一番下でした。上の姉たちはクリスチャンと結婚していたのでキリスト教徒に改宗していました。当時は異宗教間での結婚は社会的に認められていなかったため、母の父(アルバート・ブーラ氏の祖父)は一番上の姉とは口もきいていませんでした。そして、姉の住んでいるところでは、姉が元々ユダヤ人であったことは誰も知りませんでした。それで姉の家族が当時10代だった母を匿ってくれていました。しかし残りの母の家族は全員アウシュビッツ絶滅収容所に送られてしまいました。

母はナチスドイツが恐怖でほとんど外出することができなかったのですが、たまたま外出している時に逮捕されて地元の警察署に収容されてしまいました。その時に、クリスチャンだった母の叔父のコスタス・デ・マディス氏が身代金を払って釈放してもらおうとしていましたが、母の姉はナチスドイツを全く信用していなかったので、毎日昼に警察にこっそりと母の様子を見に行き、処刑されるトラックに乗せられていないか確認していました。

ある日、その恐怖が現実となり、母がトラックに積まれているのを見つけました。そこで母の姉は夫に相談して身代金を支払って釈放してもらうように打診しました。母の姉によるとその日の夜は恐怖で本当に長かったそうです。翌朝、母はナチスドイツによって処刑されるために、壁際に並ばされていましたが、間一髪でナチスがやってきて、別のラインに移されて処刑されることを免れました。母が処刑されるラインから外されるとすぐにマシンガンで残りのユダヤ人は全員撃ち殺されました。数日後に母は警察署から釈放されました。

「両親の名前を憶えなくてもホロコーストの記憶はとどめて」

そして8年後に両親はお見合いで結婚しました。父には2つの夢がありました。1つは息子が科学者になることと、もう1つは息子がユダヤ人の素敵な女性と結婚することでした。両方とも叶えることができました。

これが父のモイスと母サラの物語です。私の人生にとって、両親から聞かされたホロコースト時代の経験は、私の世界観にとてもインパクトを与えてくれました。今回、初めて両親のホロコースト時代の経験を公の場所で話しました。

この講演の話をいただいたときに、このような民族憎悪やレイシズムが多い時代の今だからこそ、両親の話をした方が良いと思いました。私もいろいろなことを思い出しました。どこにでもいるような平凡な2人の私の両親の名前は憶えておかなくても構いませんが、彼らのホロコースト時代の物語を記憶にとどめておいてもらいたいです。ホロコースト時代の経験を記憶しておくことが、同じようなことを二度と繰り返さないための勇気と情熱を持つことにつながり、それは大変重要なことです」と語っていた。

ホロコースト生存者の歴史を伝える記憶のデジタル化と記憶の継承

戦後70年以上が経過しホロコースト生存者らの高齢化も進み、多くの人が他界してしまった。当時の記憶や経験を後世に伝えようとしてホロコースト生存者らの証言を動画や3Dなどで記録して保存している、いわゆる記憶のデジタル化は積極的に進められている。また、ホロコーストの犠牲者の遺品やメモ、生存者らが所有していたホロコースト時代の物の多くは、家族らがホロコースト博物館などに寄付している。

そして既に他界してしまったり、高齢化が進んで体力や記憶力がなくなり、当時の経験や記憶を伝えられない生存者も多い。そのような両親の世代に代わって、今回のアルバート・ブーラ氏のように、ホロコースト生存者の両親の経験と記憶を子供たちが伝えるようになってきている。ホロコーストの記憶が次世代に継承されている。

だが、アルバート・ブーラ氏も語っているように、ホロコーストを経験した生存者は当時の悲惨な体験を子供たちや世間の人に語りたがらない人も多い。思い出すのも嫌だったし、理解されないだろうと思っていたという生存者の中には、後世に正しい歴史を伝えるためにということで、最近になって重たい口を開き始めた人も多い。

また欧米では主要都市のほとんどにホロコースト博物館やユダヤ博物館があり、ホロコーストに関する様々な物品が展示されている。そして、それらの多くはデジタル化されて世界中からオンラインで閲覧が可能であり、研究者やホロコースト教育に活用されている。いわゆる記憶のデジタル化の一環であり、後世にホロコーストの歴史を伝えることに貢献している。

▼アルバート・ブーラ氏は2:38から

学術研究員・著述家

グローバルガバナンスにおけるデジタルやメディアの果たす役割に関して研究。科学技術の発展とメディアの多様化によって世界は大きく進化してきました。それらが国際秩序をどう変化させたのか、また人間の行動と文化現象はどのように変容してきたのかを解明していきたいです。国際政治学(科学技術と戦争/平和・国家と人間の安全保障)歴史情報学(ホロコーストの記憶と表象のデジタル化)。修士(国際政治学)修士(社会デザイン学)。近著「情報通信アウトルック:ICTの浸透が変える未来」(NTT出版・共著)「情報通信アウトルック:ビッグデータが社会を変える」(同)「徹底研究!GAFA」(洋泉社・共著)など多数。

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