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「ダブル・キッチン」「冬彦さん」野際陽子がヒットドラマの「母」になった理由【野際陽子物語】

笹山敬輔演劇研究者
TBSのある赤坂サカス(写真:イメージマート)

「私はテレビ女優」――野際陽子は自らをそう語った。昔ほどではないにせよ、テレビドラマの方が映画よりも格下に見られがちである。だが、野際はこだわりをもって数多くの作品に出演し、冬彦の母で再ブレイクした『ずっとあなたが好きだった』から、遺作となった『やすらぎの郷』までの25年間、テレビドラマの最前線に立ち続けた。

『ずっとあなたが好きだった』や『ダブル・キッチン』のプロデューサーを務めたTBSの貴島誠一郎は、テレビドラマの魅力を次のように語る。

テレビドラマは毎週放送することで、登場人物だけでなく、ドラマそのものが成長していくんです。そこが作り手の面白さですし、俳優さんも同じじゃないですか。

1990年代に貴島はヒットメーカーとなり、一連のドラマは「貴島組」と呼ばれた。その貴島組の顔だったのが野際である。貴島にテレビ女優としての野際陽子について語ってもらった。

ホームドラマの伝統

1989年に貴島がドラマ制作の現場に異動してきたとき、TBSドラマは低迷していた。時代はバブル真っ盛りで、都会に生きる若者の恋愛を描くトレンディドラマが、フジテレビを中心にテレビ界を席捲していた。その先駆けとなった『抱きしめたい!』では、ダブル主演を務めた浅野温子と浅野ゆう子が「W浅野」と称され、野際も浅野ゆう子の母親役をファッショナブルに演じていた。

一方、貴島は初めてプロデュースした連続ドラマ『結婚したい男たち』でフジテレビの路線を狙ったが、まったく歯が立たなかった。そこで、ブームの後追いをやめ、TBSらしさとは何かを模索した結果、行き着いたのが「ホームドラマ」だった。

TBSにはホームドラマの伝統がある。1970年代前半までは『ありがとう』や『寺内貫太郎一家』のような、東京の下町に暮らす家族の物語が人気を得ていた。70年代後半から80年代にかけては、『岸辺のアルバム』や『金曜日の妻たちへ』が新興住宅地における核家族の問題を描いてきた。貴島によると、その伝統は今も活きているという。

『逃げ恥』(『逃げるは恥だが役に立つ』)にもTBSドラマの伝統が息づいています。内容もそうですけど、ハードの部分でいえば、ホームドラマはセット中心のドラマなんです。石井ふく子さんがプロデューサー時代の『東芝日曜劇場』は、公園なんかも全部セットで作ってました。スタジオのセットが芝居場であるという考え。だから、『寺内貫太郎一家』もちゃぶ台がメインのセットでしたし、『逃げ恥』も同居のマンションにいろんな人が来て、ドラマが展開する。その点は、ちゃんと伝統を引き継いでるんですね。

伝統を継承しながらも、テレビドラマは時代を映す鏡でもある。貴島は、『ダブル・キッチン』では二世帯住宅、『スウィート・ホーム』では「お受験」と新しい要素を取り入れ、ヒット作を生み出していった。貴島組は90年代に一時代を築きあげる。当時の雑誌には次のように評された。「『ドラマのTBS』を復活させた貴島&野際の最強コンビ」。

主役を輝かせる役

貴島は、日本テレビのドラマ『愛さずにいられない』でエキセントリックな母親役を演じる野際を見て、冬彦の母をオファーした。だが、初対面の打ち合わせで、役について深く聞かれ、トンチンカンな説明をしてしまう。貴島は、「野際さんはこの若い新人プロデューサーを助けてあげようという気持ちになったのかもしれない」と笑う。野際の起用は当たり、彼女の熱演によってドラマが大きく育っていった。

次の『ダブル・キッチン』では、野際がコメディエンヌとしての才能を開花させる。山口智子との嫁姑バトルは爽快で、野際が鼓を打ち、山口が玉のれんに八つ当たりしながら互いの悪口を言うシーンは、ドラマの名物となった。貴島によれば、そこにもTBSの伝統が活きている。

『ダブル・キッチン』は、久世光彦さんの『寺内貫太郎一家』を下敷きにしました。最後の鼓と玉のれんのシーンは、ちゃぶ台返しのオマージュなんです。

野際は新しい姑像を確立する一方で、似たような着物姿の母親役が続く。そんなときも、野際は役の性格や境遇を考え、緻密に役作りをしていった。

野際さんは、髪型とか、着物の柄とかでも役にアプローチされていました。衣裳さんは大変だったみたい。野際さんはおしゃれな人ですけど、自分をきれいに見せようっていう発想は全くない。あくまでも主役を引き立てるためでした。

野際にはテレビ女優としての信念があった。自分は主役ではなく、主役を輝かせる役をやる。90年代の野際は、今を時めく女優が主演のドラマで脇を固めた。賀来千香子、山口智子、浅野ゆう子、坂井真紀……。野際はいつも彼女たちを輝かせるために、自分がどのポジションに回るかを考えていた。野際は若手女優を育てる名キャッチャーでもあった。

野際さんには『キイハンター』で丹波さんに育てられたという思いがあったんじゃないですか。野際さんは育てるというような押しつけがましい感じではなかったですけどね。本当だったら、野際さんに役作りについてちゃんと聞いておけば、後輩の女優さんに残せる言葉がいっぱいあったと思います。

野際を慕う女優は多い。彼女たちは今も、テレビドラマのなかで輝いている。

最後の「親孝行」

貴島にとって、野際は自分を育ててくれた「芸能界の母」だった。だが、貴島組の色が付き過ぎると、他局の仕事がしにくくなるだろうと、ある時期から意識的に違う人をキャスティングするようにした。それはある種の「親離れ」だったのかもしれない。

あるとき、野際の声がかすれているという噂が、ネット記事で書かれた。貴島は心配になり、久しぶりに食事へと誘った。それは、野際が亡くなる7ヶ月前のことだった。

親孝行というわけじゃないですけど、丸の内にある「ウルフギャング」という有名なステーキ屋さんに行きました。11月くらいでしたが、野際さんは黒いワンピースにハイヒールをはいて、丸の内に颯爽といらっしゃった。最後までおしゃれでしたね。

90年代に姑役を独占していた野際は、晩年にはおばあちゃん役もこなすようになっていた。そんな野際が、一度だけ貴島に逆オファーしたことがあるという。

野際さんとの仕事は、90年代にやりきった感じがあります。ただ、野際さんはいつか『意地悪ばあさん』をやりたいっておっしゃってた。野際さんのなかでは、もうイメージできてたんじゃないですか。それを実現できなかったことが、唯一の心残りですね。

(文中敬称略)

【この記事は北日本新聞社の協力を得て取材・執筆しました。同社発行のフリーマガジン『まんまる』に掲載した連載記事を加筆・編集しています。今回の続きとなる最新回は7月14日発行の『まんまる』に掲載しています。】

演劇研究者

1979(昭和54)年、富山県生まれ。筑波大学大学院博士課程人文社会科学研究科文芸・言語専攻修了。博士(文学)。専門は日本近代演劇。著書に『演技術の日本近代』(森話社)、『幻の近代アイドル史――明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記』(彩流社)、『昭和芸人 七人の最期』(文春文庫)、『興行師列伝――愛と裏切りの近代芸能史』(新潮新書)。最新刊に『ドリフターズとその時代』(文春新書)。

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