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コロナ禍でIPCから国内へ転職した28歳。篠原果歩、東京パラ後の未来へ夢を描く(1)

佐々木延江国際障害者スポーツ写真連絡協議会パラフォト代表
インタビューに応える篠原果歩 写真・内田和稔

 9月5日、コロナ禍の賛否の中で開催された東京2020パラリンピックが閉幕した。東京のビル、都会のジャングルで「調和する不協和音」をコンセプトに、多様性を象徴するカラフルな衣装をまとった多様な障害を持つ人々の演舞により彩られ、描かれた閉会式が幕を閉じた。

 「ダイバーシティ&インクルージョン」への一貫した想いが、聖火となって灯され、13日間、162の国と地域、および国を追われた人々など約4400人の障害のある選手たちを照らした。異なる環境から集まり、無観客の東京で競い合った。

9月5日、カラフルに彩られたパラリンピックの閉会式が国立競技場で開催された 写真・PARAPHOTO/中村 Manto 真人
9月5日、カラフルに彩られたパラリンピックの閉会式が国立競技場で開催された 写真・PARAPHOTO/中村 Manto 真人

 選手とともに大会関係者もまた役割を終えた。しかし、パラリンピックの真の役割はこれからが本番である。その未来への渦中のひとりとして期待される若者・篠原果歩(しのはらかほ/28歳)がいる。東京パラリンピックへは主催者であるIPC(国際パラリンピック委員会)のコンサルタントとして参加した。

 筆者は、2017年、大学院生だった篠原に出会い行動力あるシャープな視点で活動する彼女が、これから東京大会を通じてどんな経験や成長をするのか注目した。互いに無観客の大会になるとは想像だにしていなかったが、ここに再会し、篠原ならではの世界がさらに広がっているのを知ることができた。

1人でIPCへ

 篠原は、大学院卒業後、パラリンピックムーブメントの本拠地であるアギトス財団(本部ボン/ドイツ)へインターンとして乗り込み、2018年に日本人フルタイム職員として初めて就職した。

インターン時代にドバイで行われた、2017年アジアユースパラゲームズ。Proud Paralympianのボランティア・メンバーたちと。後列一番右が篠原 筆者撮影
インターン時代にドバイで行われた、2017年アジアユースパラゲームズ。Proud Paralympianのボランティア・メンバーたちと。後列一番右が篠原 筆者撮影

 「私がインターンを希望した頃、まさに次は東京だっていう時でしたが、日本からオリンピックのインターンを希望する人はいたけど、パラリンピック何それ? っていう感じでした」と、当時の篠原は話していた。

 オリパラ自国開催を前にスポーツへの関心、オリンピック関連の職業への憧れが高まる時期であっても、障害者のスポーツはまだまだ日本の若い学生にとって人気がなかった。

パラリンピック教育プログラムに携わる

 オリパラ自国開催へ向かうなか、大学院生だった篠原は、パラリンピアンをテーマにした修士論文に取り組んでいた。「ロールモデル」、つまり「パラアスリートの表象」に関する研究を行い、国際的な視野でスポーツと障害のあるアスリートの課題解決に携わろうとしていた。

 アギトス財団のスタッフとして、パラリンピック教育プログラム「I’mPOSSIBLE」の開発と、パラリンピアンとしての経験をユース世代のパラアスリートへ伝える「Proud Paralympian」のワークショップの運営にIPC側のスタッフとして関わり、大学院での研究をさらに進める形で携わった。

2017年の年末にドバイで開催されたアジアユースパラゲームズでIPCのワークショップ「Proud Paralympian(=プラウドパラリンピアン)」の運営に携わる篠原果歩。 写真・PARAPHOTO/山下元気
2017年の年末にドバイで開催されたアジアユースパラゲームズでIPCのワークショップ「Proud Paralympian(=プラウドパラリンピアン)」の運営に携わる篠原果歩。 写真・PARAPHOTO/山下元気

 「Proud Paralympian」は、東京パラリンピックに向け注目を集める世界のパラリンピアンが講師になり固有の経験を生かして伝えるアスリート教育プログラムである。

 参加した若いパラアスリートはこれから自分自身のエピソードを生み出し成長していくことを連想できたのではないだろうか。4年前このプログラムに参加し東京大会に出場した選手も多い。

アギトス財団からローレウス財団へ

 IPCの再編成でアギトス財団はIPCに部分的に組み込まれる方向ですすんでいる。篠原もIPCの所属となったが、2020年末、パンデミックのさなかで「スポーツ界のアカデミー賞」とされる「ローレウス・ワールド・スポーツ・アワード」などを担うローレウス・スポーツ・フォー・グッド財団へ転職するために、ボンから帰国した。年明けから、勤務地は東京となった。

佐々木:転職してみてどうですか?

篠原:パラリンピックムーブメントでは障害のある人へ、国や組織を通じて参加性を高めたり、スポーツする人を発掘したりしています。IPCではI’mPOSSIBLEなどの教材開発や普及もNPC(各国のパラリンピック委員会)を通じて行っていました。

 現在の仕事は、スポーツを通じた若い女性や子どもたちの社会開発を担当しています。

パラリンピックを終え関わった感想を語る篠原果歩。9月12日、東京にて 写真・内田和稔
パラリンピックを終え関わった感想を語る篠原果歩。9月12日、東京にて 写真・内田和稔

篠原:女性のスポーツは競技者の母数が少ないことがパラスポーツと共通します。スポーツをやっている人が少ないと、やった瞬間にハイパフォーマンスに行っちゃう。そこはすでにエリートスポーツで、余暇時間に楽しむスポーツっていうのにはあまり陽が当たっていません。

 障害のある人だって、ただやりたいだけなのに、パラ目指さない? ってことになりますよね。楽しむスポーツ、するスポーツが、社会をどう良くできるか。どうすればスポーツが社会問題としてある貧困とか、差別をなくすことができるかを考えています。

佐々木:ロールモデルであるかどうかの前に、アスリート自身の幸せみたいなものがあって、まずそっちのほうに課題があるのかもしれませんね。

篠原:あとやっぱり、海外で働いていて、もっとアジアとか日本など自分にルーツのある世界に貢献したいという気持ちが強くなったり、日本で活動するマネージャーを募集されていたので、それで応募したんです。

<この記事は、2021年9月29日にPARAPHOTOに掲載されたものです。

「コロナ禍でIPCから国内へ転職した28歳。篠原果歩、東京パラ後の未来へ夢を描く(2)」へつづく>

国際障害者スポーツ写真連絡協議会パラフォト代表

パラスポーツを伝えるファンのメディア「パラフォト」(国際障害者スポーツ写真連絡協議会)代表。2000年シドニー大会から夏・冬のパラリンピックをNPOメディアのチームで取材。パラアスリートの感性や現地観戦・交流によるインスピレーションでパラスポーツの街づくりが進むことを願っている。

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