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トーニャ・ハーディングは、自分の映画が作られることにどう反応したのか

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
自分を演じるマーゴット・ロビーとレッドカーペットに立ったトーニャ・ハーディング(写真:Shutterstock/アフロ)

 この名前を、当時、いったい何度聞いたことだろう。だが、彼女の存在すら、多くの人は、もうすっかり忘れてしまっていたのではないだろうか。

 ニューヨーク・タイムズ紙が「スポーツ界最大のスキャンダル」と呼んだ “ナンシー・ケリガン襲撃事件”が起きた1994年、すでにL.A.に住んでいた筆者は、深夜のトーク番組がどこもかしこもトーニャ・ハーディングのネタで盛り上がっていたのを覚えている。オリンピックに出たいがために、人を使ってライバルのナンシー・ケリガンにケガを負わせたスケート選手。共謀したのは彼女の元夫とボディガードで、しかも、ハーディングは下品、ケリガンは上品というイメージで知られていた。フィギュアという美しい世界で起こるにはあまりにも安っぽいこの話に、人々は魅了され、ハーディングは、トリプルアクセルを達成した選手としてよりも、バカな犯罪を計画した悪女として、より強く歴史に名を残すことになったのである。

 それから20年以上を経て、この懐かしのお騒がせ人が、再び脚光を浴びることになった。来月4日、ついに日本でも公開となる「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」は、昨年9月のトロント映画祭でのプレミア以来、高い評価を集め、複数部門でオスカーにも候補入りした大傑作だ。主演とプロデューサーを兼任するのはマーゴット・ロビー。現在27歳のロビーは、この事件について何も知らなかったが、スティーブン・ロジャースが書いた脚本に強烈に惹かれ、どうしても自分の手で実現させたいと思ったのだという。

事件当時、ハーディング(マーゴット・ロビー)はマスコミに追いかけ回され、深夜のトーク番組などで、さんざん意地悪なジョークのネタにもされた
事件当時、ハーディング(マーゴット・ロビー)はマスコミに追いかけ回され、深夜のトーク番組などで、さんざん意地悪なジョークのネタにもされた

 日本語タイトルには「史上最大のスキャンダル」という副題がついたが、映画はあの事件だけに焦点を当てるものではない。ようやく出てくる時には、「あの出来事」と軽く呼ばれたりする(そのセリフはロビーの即興だったそうである)。観客がそこを期待していることは作り手も当然わかっているし、ハーディングの運命を変えたその出来事がストーリーの重要な部分であることは言うまでもないのだが、幼少期にさかのぼり、彼女が母親や夫、あるいは世間からどのような扱いを受けてきたのかを赤裸々に描くのが、この映画だ。

 彼女の知られざる側面を語る今作を見れば、彼女に対する意見は、多少なりとも変わるだろう。だが、今作は決して彼女を美化するものではなく、みっともない部分も正直に見せる。それでも、ハーディングは、この映画に最初から協力的だったそうだ。そして、完成作も気に入ったとのことである。クレイグ・ギレスピー監督がハーディングに映画を見せたのは、トロント映画祭の2週間前のことだ。

「僕らは、彼女にとっての正義を貫いたと思っている。彼女に同情を感じる映画にしたとも信じていたよ。だけど、自分を客観的に見るのは難しいし、トーニャ本人がそう感じてくれるかどうか、不安だった。映画には、彼女にとっての辛い思い出がたくさん出てくるわけだしね。もちろん彼女本人がそれらの話をしてくれたんだが、それが再現される様子を見せられるのは、また違うだろう」と言うギレスピー監督は、ハーディングと彼女の現在の夫のために、オレゴン州ポートランドの映画館を借り切って、プライベートの試写を行っている。「トーニャは、映画で語られること全部に同意したわけじゃないが、全体的には満足してくれたよ」(ギレスピー)。

 ハーディングが同意しなかったのは、元夫ジェフ・ギルーリーの発言や視点がからむ部分だ。しかし、それはまさにこの映画のねらい。今作は、同じ話を、ハーディング、ギルーリー、そして彼女の母、それぞれの視点から語るものなのだ。当然のことながら、そこには矛盾も生まれる。「いろんな視点が入った、複雑な構成。だけど、むしろ、誰の話を聞いているのかそのうちわからなくなってしまうほうが面白いと思ったんだよね」(ギレスピー)。

ハーディングはロビーにスケートの個人指導をオファー

 この企画を立ち上げたのは、脚本家ロジャースだ。ドキュメンタリー番組「30 for 30」を見て、ハーディングの物語を映画にできないかと考えた彼は、彼女のエージェントなりマネージャーなりがどこにいるのか、連絡先を探した。その結果行き着いたのは、ハーディングが暮らしていたポートランドの安モーテル。ロジャースはすぐさま現地に向かい、6時間にわたってインタビューを行った。「その音声は、最初から最後まで全部聞いたわ」と、ロビーは振り返る。

「だけど、スティーブンはその後、自分はジェフからも話を聞くべきだと思ったの。それで、ジェフを探し出し、彼にも同じくらい長いインタビューをしたのよ。そうしたら、ふたりの話はかなり矛盾していて、それが脚本の骨格になったというわけ」(ロビー)。

ハーディングの元夫を演じるセバスチャン・スタン(左)は、DV夫だった彼について、「彼はトーニャを愛していたと思う。脚本にもそうあったし、僕はそう信じて演じた」と語っている
ハーディングの元夫を演じるセバスチャン・スタン(左)は、DV夫だった彼について、「彼はトーニャを愛していたと思う。脚本にもそうあったし、僕はそう信じて演じた」と語っている

 ロビー自身もまた、ハーディングとはたっぷりと時間を過ごした。

「意外なことに、トーニャは、自分のことより私のことを心配してくれたの。彼女が『スケートの特訓はどう?』と聞くから、『苦労しています。いつも身体中が痛いです』と答えると、『具体的に、何に苦労しているの?』と突っ込んできて、彼女自身がどんなトレーニングをしたのか、細かなアドバイスをくれたわ。しまいには、『私が直接あなたに特訓をしてあげましょうか』とまで言ってくれたの」と、ロビーはその時の驚きを語る。

「彼女はまた、『あなたは若いけれど、どうやって名声に対応しているの?』とも聞いてくれた。彼女自身が若い時からメディアに追いかけられて、ひどい思いをさせられたからでしょうね。幸いなことに、私は、私のために何がいいのかを本気で考えてくれる人たちに囲まれている。彼女は、そうじゃなかった。それに、彼女はお金もなくて、大きな門のある家に住むとか、大きな車で移動するとかいった物理的なバリアをもつこともできなかったのよ。ウエイトレスとして働いていた彼女にアプローチするのは、記者たちにとって、すごく簡単なことだったの」(ロビー)。

 ギルーリーを演じるセバスチャン・スタンも、本人から話を聞くことができた。スタンはその内容を詳しくは語ってくれなかったが、口髭についての会話は教えてくれている。「どの写真を見ても、ジェフはいつも口髭を生やしていたから、どうしてなのか聞いたんだ。でも、自分でもよくわからないみたいだったよ。その頃はなんとなくそんな気分だったんだそうだ」(スタン)。

 ギルーリーはプレミアに出席しておらず、北米公開後に映画を見たのかどうかもわからない。ロジャースやスタンと話をすることには応じても、彼は、この映画が作られることを、本音では嬉しく思っていなかったのだろうとスタンは推測する。「彼は脚本も読んでいないんだ。読みたくないと言ったんだよ。自分の人生のあの時期が掘り返されるのは、楽しいことではなかったんじゃないかな」(スタン)。

DV母、ケリガンらの反応は?

 ギレスピーがロジャースに聞いたところによると、ハーディングとギルーリーの話で、唯一、矛盾しなかったのは、ハーディングの母ラヴォナ・ハーディングの人柄についてだったそうだ。結婚、離婚を繰り返し、実の娘に対して毎日のように肉体的、精神的な暴力をふるうラヴォナを演じたアリソン・ジャネイは、今作で見事、オスカー助演女優賞を受賞している。しかし、ジャネイはおろか、ロジャースも、本人に会うことはかなっていない。「トーニャですら、母親がどこにいるか、知らないんだよ」と、ギレスピー。当然、ジャネイが演じる自分を彼女がどう思ったのかは、わからない。

アリソン・ジャネイの壮絶な母親ぶりには、トロントでのプレミア以来、大絶賛が寄せられた。オスカーでも、見事助演女優賞を受賞している。
アリソン・ジャネイの壮絶な母親ぶりには、トロントでのプレミア以来、大絶賛が寄せられた。オスカーでも、見事助演女優賞を受賞している。

 ケリガンには、撮影開始前にロジャースが脚本を送っている。「ナンシーは、二ヶ所くらいの削除を要求してきたらしいよ。僕が監督に決まる前のことだし、この映画ができることについて、彼女がどう感じたのかは知らないけれどね。あの話がまたぶり返されるのは、辛かったかもしれないとは思う。オリンピックでメダルを取ったのに、その事実より、あの事件のほうを、人は覚えているんだから」(ギレスピー)。

 犯行に深く関わった、ハーディングのボディガードを自称するショーンは、映画にユーモアを与える存在でもある。本人はすでに亡くなっており、彼の話も聞くことはできていない。

「亡くなったのは10年ほど前。でも、彼は生前、テレビで(有名ジャーナリスト)ダイアン・ソイヤーにインタビューを受けている。映画の中でもその時のショーンの発言を使っているが、実は、僕らはそのインタビューを全部再現して撮影したんだよ。全部で5分。それはDVDに特典映像として入れる予定さ」(ギレスピー)。

 DVDが出るのが、早くも待ち遠しい。

「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」は、5月4日(金・祝)より全国ロードショー

場面写真:2017 Al Film Entertainment LLC

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「シュプール」「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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