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「懸賞生活」なすびのドキュメンタリーが「告発もの」にならなかった理由

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
ドキュメンタリー映画「The Contestant」に出演するなすび

「人は、懸賞だけで生きていけるか?」

 そんな奇抜なコンセプトの番組「電波少年的懸賞生活」が日本で高視聴率を挙げたのは、1998年。

 何も知らないままオーディション会場に行き、くじ引きで出演者に選ばれた、なすびこと浜津智明は、そのままアパートの一室に連れて行かれ、裸にさせられた。服、食べ物など、生きていくのに必要なものは懸賞で当てなければいけない。この生活が終わるのは、当選品の総額が100万円に達した時。だがついに目標を達成すると、今度はまたもや何も伝えられないまま韓国に連れて行かれ、そこで再び同じことをやらされたのだった。

 アパートの中の様子は常に撮影されていたが、それらの映像は「ほとんど使わない」と言われていた契約書もない。すべてがテレビ放映され、日本中の目にさらされていたと知るのは、韓国での目標額を達成し、日本に戻ってきた時だ。

「電波少年的懸賞生活」が放映されたのは、ジム・キャリー主演の映画「トゥルーマン・ショー」が公開される前。アメリカで「サバイバー」が大ヒットしてリアリティ番組ブームが起きるのも、2年後である。リアリティ番組というジャンルも確立していなかった26年前のこととはいえ、現代の、とりわけ欧米の観客にとって、これはかなりの衝撃。多くの人の最初のリアクションは、「搾取だ」「訴訟しないのか」だろう。つい最近、アメリカでは、90年代の子供番組の暗い内情を暴くドキュメンタリーシリーズ「Quiet on Set: The Dark Side of Kids TV」が話題を呼んだだけに、なおさらだ。

 だが、現地時間5月2日からディズニー傘下のHuluで全米配信されるドキュメンタリー映画「The Contestant」は、この番組を批判し、告発することはしない。番組撮影当時の部分については中立的にアプローチし、番組の前や後のなすびの人生、とりわけ東日本大震災で大きな被害を受けた地元福島の復興支援に取り組んだり、エベレストの登頂に挑んだりしたことを、しっかりと語る。そんな中では、なすび本人、母、妹だけでなく、“悪者”的存在である土屋敏男プロデューサーの率直なコメントも織り込まれていく。

連れられていった部屋にあるのは、山積みのハガキと多数の雑誌。生活に必要なものは懸賞で当てなければならない
連れられていった部屋にあるのは、山積みのハガキと多数の雑誌。生活に必要なものは懸賞で当てなければならない

 この題材に注目し、なすびに話を持ちかけたのは、今作で長編映画監督デビューを果たすクレア・ティトリー。パンデミックで入国制限があり、日本に来られなかったイギリス人のティトリーと密なコラボレーションをしながらインタビュー録りを行ったのは、日系イギリス人のプロデューサー、メグミ・インマン。この映画において重要である「電波少年的懸賞生活」の映像には、英語字幕を付けるのでなく、声は吹き替え、キャプションも同じ雰囲気で英語にするなどたっぷりと手をかけ、西洋の観客にわかりやすいようにしている。

 アメリカでの配信デビューに当たり、ニューヨークを訪れたなすびとティトリー監督に話を聞いた。

話が来た時は「詐欺じゃないかと思った(笑)」

――クレアさんはどのようにして「電波少年的懸賞生活」に出会ったのですか?そしてなぜドキュメンタリー映画で語りたいと思ったのでしょうか?

クレア・ティトリー(以下クレア)「別のプロジェクトのためにリサーチをしていて、偶然見つけたんです。インターネットで何かを探していたら、直接関係ないものが出てきて、そこからまた何かにつながる、ということはよくありますよね?そんな中で、なすびの話に強い興味を持ったのですが、私が見つけたのは、日本の文化を面白がるものばかりで、なすびの人物像に迫るものはありませんでした。

 それで私は、なすびの視点にもとづく話を語ってみたいと思ったのです。それも、『懸賞生活』だけではなく、彼という人を全体から見る話を。なすびにも、私はそう伝えました」

――クレアさんから連絡をもらった時、なすびさんはどう思いましたか?

なすび「ありがたいことに、『懸賞生活』が終わってからも、1年に1度とか2年に1度くらいのペースで、海外のテレビ、ラジオ、雑誌、新聞から取材を受けていたんです。なので、インターネットに残っている僕の映像を見て、‘クレイジー・ジャパニーズ’みたいに興味を持ってくれる人がいるのはわかっていたんですが、その人たちの多くは『これは明らかな人権侵害だ』『権利を取り戻すために日本テレビなり土屋プロデューサーなりを訴えるべき』という、ネガティブなとらえ方をしていたんですね。

 クレアさんから依頼があった時、ドキュメンタリー映画を作ろうという依頼はそれまでなかったし、交渉を重ねていくうちに、『あなたの人間性に興味を持った。告発ものにするのではなく、一緒に模索していきましょう』と言ってもらえて、それなら協力できるかなと思いました。

 クレアさんのことは、ぶっちゃけ何も知らなかったので、もしかしたら詐欺じゃないかとも思ったんですけど、『懸賞生活』でも騙されたようなものだし、騙されるなら騙されるでいいやと思って(笑)。『懸賞生活』よりひどいことにはならないだろうと、それくらいの覚悟で進めていったら、クレアさんは親切で、僕のことを気遣ってくれる人でした」

くじ引きに当たり、出演が決まった瞬間。「あの時、当たらなかったら」とは、時々想像する。「あれは本当に偶然だったのかということも、どちらが(芸能界に入る上で)近道だったのかということも」
くじ引きに当たり、出演が決まった瞬間。「あの時、当たらなかったら」とは、時々想像する。「あれは本当に偶然だったのかということも、どちらが(芸能界に入る上で)近道だったのかということも」

――実際、今日の観客の感覚では、契約書もなく、本人の同意もないことをやらせていた「懸賞生活」は、搾取、虐待と思われて当然なのですが、そこを批判しないアプローチを取ったのはなぜですか?

クレア「土屋プロデューサーが当時やったことは倫理上正しくないということを、あえて西洋の観客のために言葉で伝える必要はないと思ったからです。それは映画を見れば明らかです。

 この映画に出演を同意してくれた彼に、私は大きな敬意を持っています。それはとても勇気のいることです。彼はテレビのプロデューサーですから、西洋のメディアが何を聞いてくるかわかっていたはず。自分がどういうふうに受け止められるかを。実際、私たちは、質問するにあたって遠慮しませんでした。それに対して彼は率直に答えてくれました。彼には本当に感心します」

――なすびさんは、海外の方から「なぜ訴訟しないんだ」と言われて、「自分はこのまま黙っていていいのだろうか」と考えたことはありますか?

なすび「この3日間ほどの取材でも、『sue(訴訟する)』という言葉を何度も聞いて、その単語を覚えちゃったくらいです(笑)。でも、YouTubeもリアリティ番組もなかった25年くらい前のことですし。当時の日本で『電波少年』はすごく人気があった番組。土屋プロデューサーはすごい権力を持っていて、あの番組に出れば若手芸人はみんなブレイクすると言われていました。僕も、番組が終わってから街を歩けば『なすびだ』と必ず気付かれました。それくらい有名にしてもらったというのもありますし。

 それに、当時の日本で『電波少年』に人権を侵害されたんだから訴訟したほうがいい、なんて言ってくる人はひとりもいませんでした。メディアと争うこと自体、あの頃に日本では考えられなかったことです。海外のメディアからそういうふうに言われて、僕も少しずつ気づいてはいったんですけれども、そんな中で気持ちも変わっていって、訴えて権利を奪い返すとか、お金を得るっていうことは、僕にとってそんなに重要なのかなと思うようになってきたんですね」

トラウマとして抱えるのではなく、ポジティブなことに使う

――どのように気持ちが変化していったのでしょうか?

なすび「2011年の東日本大震災で、僕の故郷福島が大きな被害に遭って、被災地のみなさんといろいろ話をしたんですね。避難所で誰かが『冷えたおにぎりと菓子パンしかなくて辛い』と言った時に、僕が『懸賞生活』のことを思い出して、『僕はあの番組の時に食べるものが本当になくて、ドッグフードを食べたんですよ』と言うと、『そうか、君よりまだ恵まれているのかもしれないな』となったりして。もちろん、それで全部が解決するわけではないですが、そんなふうに希望や心の安らぎを提供できると、『あの経験は無駄じゃなかったのかもしれないな。あの番組を通じて福島、東北のみなさんに寄り添うことができたんだから』と思ったりしたんです。過去は変えられないのだし、自分の中であの経験をトラウマとして抱えていくのではなく、未来を変えていくことに使っていけるのではないかと。

 日本ではまだこのドキュメンタリー映画の配信が決まっていないとのことで、今、ジャニーズや宝塚などで揺れているところだけに、『いよいよなすびが日本テレビと土屋さんを告発するんじゃないか』というふうにとらえられているのかなとも思うんですが、『そうじゃないですよ』と僕は伝えたいです」

「地元の人たちは頑張っていて、福島は復興していっているのだということも、この映画を通じて伝えたい」となすび
「地元の人たちは頑張っていて、福島は復興していっているのだということも、この映画を通じて伝えたい」となすび

――実際、この映画は、被災地での活動、そしてエベレスト登頂と、ポジティブな話に展開して行きますね。

なすび「エベレスト登頂は3度失敗して、4度目で成功したんです。その間、やめたい、もう続けられないと思ったことは、何度もありました。でも日本人のガイドさんから、『1年3ヶ月も部屋に閉じこもった時の精神力は、登山にもつながるかもしれない。頂上まで1歩1歩、諦めずに登っていく努力は、ハガキを1枚1枚書き続けることに重なる部分があるかもしれないから、未経験でもあなたには素質があるかもしれない』と言われたんですよね。もちろん僕はエベレストに登るための精神修行のために『懸賞生活』に出たわけではないんですが(笑)。まさかここで活きてくるかと思いました。

 そうやってくじけそうになりながらも、『あの番組のほうがもっと辛かったから頑張れるはずだ』と思って、4度目にして成功したことを、僕だけのものにしておくのではなくて、ポジティブなものとして世界に発信できるかもしれないと思ったんです。立場の弱い、抑圧されている方々に、僕のメッセージが響くことがあるのではないかと。そのためには、(このドキュメンタリーで)本当は話したくないことも全部さらけ出さないといけないと思いました。まあ、最初に全裸をさらけだしているんですけれども、あらためて、身も心も」

映画を見た母が監督に言った言葉

――映画の中に出てくるお母様やお姉様の言葉を聞いて、どう感じましたか?

なすび「『懸賞生活』の前から、母には芸能界入りを反対されていました。今でも芸能界をやめて普通に就職してくれと言われたりします。『懸賞生活』の話題は、家庭内でタブーとまでは言いませんけれど、あまり前向きにとらえられていなかったので、この映画を通じてお互いの本音を知ることができたのはよかったと思います。

(この映画が世界初上映された)昨年9月のトロント映画祭には行けなかったんですが、11月のニューヨーク・ドキュメンタリー映画祭には家族も来て、母と姉に映画を見てもらいました。その後、母は、(プロデューサーの)メグミ(・インマン)さんに通訳してもらって、クレアさんに『この映画を作ってくれて本当にありがとう』と言ったらしいんです。それを聞いて、年月はかかったけれど、ようやく母に認めてもらえることをやれたのかなと思いました」

このドキュメンタリーでは、なすびの母と姉も、「懸賞生活」を見た時の気持ちを率直に語っている
このドキュメンタリーでは、なすびの母と姉も、「懸賞生活」を見た時の気持ちを率直に語っている

――なすびさんのお母様からお礼を言われた時、クレアさんはどう思いましたか?また、この次はどんなドキュメンタリー映画を作りたいと思っていますか?

クレア「お母様とお姉様に直接お会いするのはあの時が初めてで、上映前、私はとても緊張しました。この映画のせいで彼女らが再びトラウマを受けることにはしたくなかったので。ですから、お母様にこの映画を気に入っていただけたのは、私にとって、本当に特別なことでした。

 次の企画としては、今、ふたつほど進めているのですが、この題材を上回るのはなかなか厳しいかもしれませんね。この映画が配信され、手元を離れてしまうことを、私は少し寂しくも感じています。映画を作る時、かかわった人々とは家族のような関係になりますから。人生のその部分の幕が閉じてしまうのは、ちょっとほろ苦い思いです」

「The Contestant」の日本での公開あるいは配信は、未定。

場面写真:Hulu

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「シュプール」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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