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マレーシア航空機撃墜と「ワグネル・ゲート」事件。ウクライナのスパイ組織の挫折と無念

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家
2014年7月17日ドネツク地方のグラボヴォ付近で墜落したマレーシア機の残骸。(写真:ロイター/アフロ)

ウクライナ東部で2014年7月17日にマレーシア航空機が撃墜された事件は、まだ記憶に新しい。

乗客283人と乗組員15人の全員が死亡した。

オランダを中心とした共同捜査チームは2月8日、撃墜に使われたミサイルの提供はロシアのプーチン大統領が決定した可能性が高いとする最終報告書を公表した

撃墜事件が起きたのは、ロシアによるクリミア併合から約4ヶ月後、ウクライナで本格的な内戦が深刻になった時期である。この撃墜事件を機に、西側につくキーウと、親ロシア側の対立が、急激に高まった。

共同捜査チームは、自称「ドネツク人民共和国」が、ロシア提供の地対空ミサイルを発射して、マレーシア機を撃墜したと認定した。最終報告書は「共和国」とロシア情報機関の通話から、「プーチン氏が(供与を)認可したという具体的な証拠がある」とした。

しかし、プーチン氏の刑事責任を問える証拠はなく、捜査を終了するという。

マレーシア機撃墜を聞くと、いつも思い出すのが「ワグネル・ゲート」事件である。

もし、ウクライナの情報機関「GUR(ウクライナ国防省情報総局)」が立てた、「ワグネルの傭兵逮捕作戦」が成功していたら、一網打尽とも言えるような作戦が功を奏していたら、その後の推移は変わったのだろうか。

この「ワグネル・ゲート」事件の存在は、オランダに本拠地がある調査サイト「べリングキャット」が、ロシアの独立系メディア「ザ・インサイダー」と共同で調査を行い、発表したものである。「べリングキャット」は、欧州議会のワグネル非難決議に引用されたこともある。

戦争が始まる前、内戦状態の時からウクライナ情勢に関心がある西欧の人には、ネットで広まって、結構知られている事件だと思う。

ただ、独立系の情報はあまり取り上げない傾向がある大メディアは報道していないようで、あまり一般的には知られていない。ウクライナでは世間を騒がせるニュースになったと聞くが、当時は同国発の情報には、人々はあまり関心を払っていなかったのだろう。

どんな事件だったのだろうか。やや古いニュースだが、日本語では(知る範囲では)見たことがないので、紹介したいと思う。

撃墜の容疑者を拘束

まず最初は、2019年6月のことだった。ウクライナの情報機関GURは、ウラジミール・ツェマフという人物を捕らえるという大胆な作戦を実行した。

彼は自称「ドネツク人民共和国」の分離主義者の司令官である。そして、2014年にロシアが供給したミサイルランチャーによって撃墜されたマレーシア航空17便の撃墜に関与した疑いがもたれていた。

ツェマフ氏は、自称自分の国である「共和国」の中で、ウクライナのGURのエージェント達に捕まったわけだ。

エージェント達は、彼を眠らせた後、車椅子に乗せ、前線を横切って連れて行ったのだという。

彼らは警備員に、自分たちは彼の親族で、治療のために彼をウクライナ側に連れて行くのだと言って成功した。

この成功に勇気づけられたため、GURはもっと大きなことを実行しようとしたのだという。ロシア側のセキュリティの脆弱さがわかったからだ。様々な方法が検討された。

2019年末から2020年初めにかけて、強制連行の成功経験を持つ特殊作戦指揮官数名が、ウクライナ保安庁(SBU。旧KGB)から、GURに移った。彼らの影響下で、「おとり捜査」はより具体的な、そしてさらに野心的な輪郭を持つようになったという。

ワグネルのメンバーで、ウクライナで犯罪を働いた可能性のある人達を、一網打尽というほどの勢いで逮捕しようという作戦が固まり、政治指導部に提示され承認されたのは、2020年7月初旬のことだという。

その名を「プロジェクト・アベニュー作戦」という。

ウクライナ情報機関「GUR」の作戦

ワグネルはロシアの代理軍ではあるが、傭兵は「派遣」と「派遣」の間に、数ヶ月、あるいは数年も自宅で待機し、大きくない企業が提供する小さな仕事を探していることが多い。そこで、GURは、リクルートエージェントに偽装することにしたのだ。

彼らは、サンクトペテルブルクにある、活動していない本物のロシアの民間軍事会社のIDを盗んだ。そして、求人広告を出した。

最初は、傭兵の募集に使われていたことで知られるロシアの求人広告サイトに、あいまいな表現の募集を多数掲載した。月額 225,000 ルーブル (約3200ドル/2900ユーロ) を支払う仕事であり、会社の資産を守るために海外に赴任することを示唆しているだけである。武器の取り扱いの経験と、訓練証明書が必要であると書かれていた。

しかし、あまりにも応募が多すぎた。軍務経験がある者が応募してきたといっても、アフガニスタン戦争やチェチェン戦争では、ウクライナには対象外である。

ウクライナ側は戦略を変え、この「プロジェクト・アベニュー作戦」の新責任者を任命した(「ワグネル・ゲート」はウクライナのメディアの呼び名)。今まではインテリジェンス(情報・諜報)主導だったが、今度はツェマフ奪還作戦を監督していたSBUの防諜部門に所属していた特殊作戦要員から、責任者が任命されたのだ。

募集要項や収集した情報を整理した後、有望な候補者の面接を開始した。

リクルーターの名は「セルゲイ・ペトロビッチ」とした。彼はSIMカードのない追跡不可能な特殊な電話機と、シリアの電話番号を表示するように設定された発信者番号偽装ソフトが渡された。

応募者の中に、「シャーマン」という傭兵がいた。彼は仲間内にも、既に目をつけていたウクライナの情報機関にも、その名で知られていた。アルテム・ミリャーエフ。1981年生まれである。

チェチェン、ドンバス、シリアで軍事的経験を積んできたと書いているだけでなく、「ドネツク人民共和国」の突撃旅団の副司令官として、100人以上の戦闘員を指揮したことがあるとも書いていた。

「人事部長」との最初のやり取りで、「シャーマン」はウクライナ人スパイと話しているとは知らずに、昔の部下の中から採用したいと申し出た。そして数十人のロシア人傭兵が集まった。

「シリアにいるリクルーター、セルゲイ・ペトロビッチ」は、シャーマンに、全体で約50名の戦闘員からなる3つの小隊が必要であり、それぞれシャーマンに報告する小隊指揮官がいると言った。

シャーマンに募集を委託したことは、大成功を収めた。

たくさんの応募があったが、シャーマンの紹介だと書いてあった。

200人以上の応募者に、偽りの民間軍事会社は、「規定の申請用紙」を送る。現住所、電話番号、電子メール、身長、体重、靴のサイズ、学歴、軍隊経験など、すべての個人情報が記載される。

そして候補者が「承認」されると、それぞれが詳細な(軍の)履歴書を送る。軍歴の証明書、健康診断書、指揮官からの軍の照会状、軍の賞やメダルなどをスキャンした物を付ける。それらをシャーマンに送るように指示する。

こうしてウクライナ側は、2020年6月初旬までには、数百ページに及ぶ有用な個人情報を手にしたのである。

集まった傭兵は、全員ではないが、多くがワグネルの一員としてドンバス地方で戦った経験のある者であった。ワグネルの他には、ロシアが支援する「義勇軍」の一員として戦った者もいれば、ロシアの軍や治安維持機関のために直接働いていた者もいた。

そして、ほとんどの人物は、ウクライナであれ、その後のシリア、リビア、中央アフリカ共和国であれ、ある時点でワグネル・グループの傭兵として働いていたのである。

例えば、中央アフリカ共和国の参謀総長の軍事顧問を務めたと主張する者や、2014年にドンバスでウクライナのヘリコプターを撃墜したことを、証拠映像付きで自慢している者もいる。

彼らは相手がウクライナの情報機関とは知らずに、多くの個人情報を提供していたのである。

しかも、彼らの履歴書には、ウクライナにおけるロシアのハイブリッド戦争がどのように展開されたかを直接的に認める内容や詳細も含まれていたのだ。

ある戦闘員は、2014年にドンバスに到着したことを「反政府勢力を隠れ蓑として」と表現し、他の戦闘員は、ロシア軍の正規部隊による直接の配備と表現していた。

さらにウクライナ側は、応募申請者の中には、2014年と2015年にウクライナ東部で犯されたとみなされる重大犯罪で、SBUがすでに指名手配している名前があることに気づき始めたのである。

こうして、2020年5月末までには、3つの小隊に分かれた180人の架空の小規模私兵軍が出来上がっていった。戦闘員たちは小隊での地位を争っていた。ある者は「シャーマン」を回避して「ペトロビッチ」から直接昇進の命を得ようとした。

そして多くの者は、作戦開始と最初の給与の支払いを長く待たねばならないことに不満を漏らしていた。

傭兵になる予定だった人物の一人は、自分の個人的な状況に不満を抱き、ロシアの保安局FSBに苦情を言うとまで脅した(この人物は本当にFSBに進行中の募集について知らせたようだが、ロシア保安局がこの情報に基づいて行動を起こした証拠は何もないという)。

また、何人かの「ペトロビッチ」に会いたいという希望は強かった。何度か架空のアポがつくられた。ウクライナ側は用意万端整えるために時間が稼ぎが必要だったが、コロナ禍が味方をした。2020年の初めから半ばにかけて、ロシア政府は民間機の封鎖措置を導入していたのだ。

そして、束ねる立場のシャーマンには支払いをしたことは、戦闘員たちの引き止めに役立った。

そんな中、「ペトロビッチ」は「シリアで戦死」した。彼らから見れば殉職である。後任「パブロビッチ」への引き継ぎに時間がかかることにして、時間の引き伸ばしに成功した。高まってきた不満を抑える効果も期待できた。

後任者「パブロビッチ」は、シリアではなく、ロシア企業ロスネフチも掘削事業を行っているベネズエラに、彼らを配置することにした。「パブロビッチ」が使った電話番号は、ベネズエラの首都カラカスにあるロシア大使館の領事部のものを偽装した。

そのころロスネフチは本当に、盗賊から施設を守るために、同じぐらいの数の経験豊富な戦闘員を必要としていたのだ。偽装を成功させるのに役立った。

ロシアからベラルーシ、トルコへ

いよいよ実行である。

まず、33名の最も重要な人達が、モスクワからベラルーシの首都ミンスクまでは、公共バスで移動する。

当時モスクワからは、コロナ禍のために民間機が動いていなかったし、ベラルーシは都合の良い国であったためだという。

コロナ禍で、陸路でも国境を越えるのは簡単ではなかったが、賄賂を払って国境を越えた。

ロシアからベラルーシへの渡航は、コロナ禍のせいで、医療のため、ベラルーシ国営企業への就職のため、トランジット(乗り継ぎ)のため、の3つしか認められていない。彼らはトルコへの飛行機チケットを持っているのでトランジットに当たるはずである。

賄賂とは、国境沿いに旅行保険を売るキオスクがある。そこで旅行保険とベラルーシの国営企業との雇用契約書(スタンプ付き)をセットにして、1000ルーブル(15米ドル)で売っているのである。

この悪徳商法はその後、国境閉鎖の問題に対する一般的な解決策として認知されるようになった。

ミンスクに着いた後、トルコ航空の飛行機でイスタンブールに向かう。ミンスクとイスタンブールの間、飛行機は28分間ウクライナの領空を横切ることになる。飛行機を着陸させるために爆破予告を装うには、十分な時間である(ちなみに、これは違法行為である)。

もう一つ、ウクライナでの緊急着陸を可能にする方法があった。心臓発作などで乗客が緊急の治療を必要とする場合だ。

しかしその場合、ミンスクとウクライナ国境はさほど距離が離れておらず、機長がミンスクに引き返す選択をする可能性がある。爆破予告ならば、ウクライナ上空ではウクライナの管制官がどの空港に着陸させるか、指示することができるのだ。しかも、乗客に何も知らせないことも指示できる。

そして飛行機はウクライナに着陸、GURは彼らを捕まえて、傭兵をウクライナの国内情報機関であるSBUに逮捕させるという筋書きだ。SBUは、法執行の捜査機能も持っている。

約200人全員の逮捕は無理だし、必要もなさそうで、せいぜい40人くらいだろうとGURは考えていた。

SBUのチームは、28人の要注意人物のリストを作成した。これは都合のよい数字だった。送り出して捕らえる予定の一小隊のメンバーが、ドンバスのベテランばかりだとわかると不審に思われる。ウクライナの戦闘経験のない傭兵を加えて、45人くらいまで増員することになった。

ところが、7月はバカンスシーズンで、結局47人になった全員が一度に同じ飛行機に搭乗できなかった。7月25日にトルコに向かう便のチケットが34枚、その2日後の便のチケットが13枚見つかった。

2つに分かれて向かうことになったが、2つ目のグループの渡航は、もっともらしく飛行機の予約はされたが、実行はされないと見ていた。つまり逮捕者は34人となるだろう。

シャーマンは、WhatsApp(ラインのようなもの)でグループチャット 「1st Group ロシア」を作成し、34人の旅行者の相互連絡にいそしんでいた。

いよいよという時に計画変更

彼らは7月24日の午前8時にモスクワの中央バスターミナルに集合、そこからバスでミンスクに移動、その日の夜遅くに到着しそのまま空港に向かい、翌朝10時50分にトルコへ出発、13時30分に到着する予定であった。決して使われることのないはずの10月19日の帰りの切符ももっている。

最初のグループの33人は、時間通りにモスクワに到着した。一人減っているが、イゴール・タラカノフは土壇場で怖気づき、姿を見せなかったのだという(正しく怖がった運の良い奴だ・・・)。

ところが、2020年7月24日、約30人の傭兵を乗せたバスがモスクワからミンスクに向けて出発したとき、ゼレンスキー大統領が作戦を延期したのだという。1週間の延期を、大統領府のイエルマーク長官は提案したという。

(この情報は証言者によるもので、ウクライナ大統領府には確認が取れていない)。

理由は、前日にウクライナがドンバスで、ロシアと分離主義者と停戦に合意したからだ。大統領府は、この合意が7月27日に発効することに希望を抱いており、この作戦で停戦が台無しになることを恐れていたということだ。

その成果は、スイス大統領シモネッタ・ソマルーガ(当時)と共同記者会見で発表していた。この停戦は、「ノルマンディー4カ国」(ロシア、フランス、ドイツ、ウクライナで構成)の署名が必要だが、それが7月27日に発効する予定であった。

スイス連邦大統領兼法務大臣のシモネッタ・ソマルーガ。2015年。スイスの大統領は閣僚7人のうち1人が1年ごとに交代で務める輪番制である。
スイス連邦大統領兼法務大臣のシモネッタ・ソマルーガ。2015年。スイスの大統領は閣僚7人のうち1人が1年ごとに交代で務める輪番制である。写真:ロイター/アフロ

付け加えると、このような方法で飛行機を着陸させるのは、違法である。ごまかす方法は事前に策を綿密に講じていたが、この点も不安材料だったかもしれない

GURのバーバ長官によれば、1週間の延期は実現不可能だと主張、大統領府は4日間の延期で29日出発を提案した。そしてなんとか、30日にチケットが取れたという。第二陣は8月1日に延期した。

(この点も、ウクライナ大統領府には確認が取れていない)。

そのせいで、ベラルーシに到着したばかりの傭兵たちは、ミンスクのホテルで数日間待機するようにと通告されてしまった。7月30日まで待つことになり、まずはミンスクの三ツ星ホテルに泊まった。延泊できなかったので、次に郊外のスパホテルにチェックインして待っていた。

シャーマンをはじめ不満な戦闘員はいたが、延泊を有給扱いにすることで、気を取り直したという。

(ちなみにルカシェンコ大統領は、その後、この方法をそっくり真似たようなやり方をした。2021年5月、アテネとビリニュスの間を移動していたライアンエアーのフライトに対し、爆破予告があったとしてミンスクに迂回させ緊急着陸させた。これは、ベラルーシの野党活動家のロマン・プロタセビッチを拘束するためだった。「空賊」と呼ばれ、国際的な怒りと制裁を招いた)。

ベラルーシ情報機関による発見

一方で、当時ベラルーシは、あと20日ほどで8月12日の大統領選挙を控えたときであった。

ルカシェンコ大統領が再選するだろうと報じられていたが、野党候補や議員がもっともらしい理由をつけて逮捕や拘束されて排除されており、市民の不満や不信は募っていた。

そのため大統領はピリピリしていた。実際にその後、この選挙で彼が「8割の得票を得て6選された」との発表の後、市民の怒りは頂点に達し、全国で大規模な抗議デモやストライキが起きることになる。しかし弾圧されたのだ。

ルカシェンコは、この選挙にあたって、西側が自分を陥れようとしていると確信しているだけではなく、ロシアの干渉も恐れていると言われていた。

大統領は、これに先立つ7月9日のベラルーシ・メディアとのオフレコ会談で、4人のロシア情報部員(GRU職員)が国内で拘束され、彼らは「(野党指導者で、出馬表明するなり投獄された)シャルヘイ・ツィハヌスキーと連携していた」と述べたという。ロシアへの不信感は、いっぱいだったわけだ。

ワグネル関係者、逮捕

そんな情勢のなか、明日イスタンブールに向かって飛び立ち、ウクライナで逮捕するはずだった1日前の7月29日、ウクライナの計画の実態を知らないベラルーシのKGBは、ミンスクでワグネルの傭兵達を発見、33人を逮捕したと発表した。

実際には、前から小さいバスで監視しており、夜明け前の午前4時半、ベラルーシKGBのAグループのスペツナズ隊がホテルに突入し、バルコニーからロシア人傭兵の部屋にスタングレネード(手榴弾)を打ち込んだのだという。

傭兵たちは、手錠をかけられ、ひざまづき、壁に向かったまま、22時間警察署に拘束された。

最初の報告書で公表された名前と生年月日は、全員がロシア国籍で、一人はウクライナとベラルーシの二重国籍であることも判明していた。ちなみにこの一人は延泊の際に親戚の家に滞在しに行ったために、手榴弾はお見舞いされずにすんだ。

この逮捕劇で、ルカシェンコ氏が公然と「我が国に混乱をもたらすために、彼らを送り込んだ」と非難した相手は、ロシアであった。

クレムリンとプーチン大統領は、さぞかしびっくりしたことだろう。釈明と納得のいく説明に苦労したという。キーウでは発覚でパニックとなった。

傭兵たちは7月29日、即座に裁判にかけられた。彼らは、拘束された野党のツィハヌスキー氏とスタトケビッチ氏と協力して、政府転覆と市民暴動を引き起こそうと企てたとして起訴された。傭兵たちは必死に否定していたという(そうでしょうとも)。

ベラルーシ国営テレビは、拘束の映像を放映した。ルカシェンコ大統領は、ロシアの傭兵が次期選挙を妨害するためにやってきたと非難する声明を出し、安全保障理事会を緊急に招集した。

その後彼は、どういう意図があったのか、拘束した33人の傭兵をウクライナ当局とクレムリンの両方にちらつかせ、最終的にどちらの国が傭兵を獲得しても構わないという姿勢を示し、それぞれの国が傭兵を受け取るための主張をするように呼びかけた。

傭兵の身柄を「オークションにかけた」と言われた。

ウクライナ側は、正式なアプローチとしては、8月3日、被拘束者に起訴状を送達し、法的ルートを通じてベラルーシに、彼らがウクライナでの重大な犯罪で起訴されたことを知らせた。 そして、ベラルーシに身柄を引き渡すよう要請した。

一方で、水面下では別のアプローチがあり、一部の傭兵でもいいから本当に引き渡しがなされるよう、相手の求めに応じて、全員の情報を渡したようである。

8月3日の時点で、クレムリン当局は33人のロシア人傭兵の苦境の真相を知らないようだった。ペスコフ報道官とロシアのミンスク領事の両方が、彼らは民間警備会社のメンバーで「第三国への派遣に向かう途中」、単に飛行機に乗り遅れただけだと声明を出している。

このことは、ベラルーシ当局によって乱暴に否定された。安全保障会議のアンドレイ・ラフコフ議長は「ロシアの民間軍事会社が、ベラルーシを経由して第三国への旅行を手配するのなら、まずロシアの情報機関であるFSB(旧KGB)やGRUの担当者が、最初にミンスクの相手と連絡を取るはずだろう。それをしない会社など一つもないだろう」と言った。

8月5日、ロシア検察庁はベラルーシ検察庁に対し、拘束された32人のロシア人をモスクワに引き渡すよう正式要請を提出した。唯一人のベラルーシ二重国籍国民は含まれていないようだ。

ようやくロシア側は、真相にたどり着いたようだった。親クレムリン派の新聞「コムソモリスカヤ・プラウダ」に、この事件にウクライナが関与しているという、FSB職員に扮した人物のインタビューが、掲載された。(表向きは)ロシアの調査委員会が、この事件の調査を開始した。

プーチン大統領はルカシェンコ大統領に電話をした。

しかし、したたかなルカシェンコ大統領はめげない様子だった。

ベラルーシで大統領選挙が行われた8月9日の時点では、彼は傭兵の到着に「第三国」の役割があったというロシアのシナリオは信じないと繰り返していた。

数日前には、ウクライナとロシアの検事総長をベラルーシに招き、「国際的な合意に基づいてベラルーシ検事総長と事件を解決する」とまで言い出していたのだ。

結局裏で何があったのか、8月14日モスクワがオークションの「落札」を発表、彼らはロシアへ引き渡された。そしてウクライナのGURはすべてを失った。あれほどの計画を実行しながら、一人も拘束できなかった。

ベラルーシではそのころ、大統領選の結果に怒った市民による、前代未聞の反ルカシェンコの抗議活動が起こっていた。デモに反政府集会にストライキ。

ロシアの少なくとも3機の軍用と思われる飛行機が、ミンスクへ出動した。結局ルカシェンコが頼ったのは、ロシア軍の威嚇力だった。

非難されるゼレンスキー大統領

ゼレンスキー大統領は全てを台無しにしてしまったと、ウクライナのメディアに激しく批判された。

2014年初頭から、ウクライナの情報機関は、東部で戦う傭兵を含むロシアの武装勢力に関するデータ収集と、プロファイルの作成に着手していた。SBUは、重大な犯罪を犯したと判断された個々の過激派について、犯罪書類の作成を開始した。ポロシェンコ前大統領の時代からである。

6年もかけて積み上げてきたのに、最後の最後で政治により失敗した。情報部員たちはどんなに無念だっただろうか。「平和の合意」など、決して信じてはならない相手だったのだ。

しかもゼレンスキー大統領は、この事件の前の2019年に、オランダを中心とした共同捜査チームの要求を聞き入れず、捕虜交換の際に、GURが捕えた分離主義者の司令官ウラジミール・ツェマフを、ロシア側に引き渡すことに同意してしまっていた。このことで既に弱腰と非難されていたのだ。

ゼレンスキー大統領は、10月に解任したGRUの長官バーバ氏のせいであり、彼を「野心家であり詐欺師」と呼んで非難した。

このあたりの真相は、もはやわからない。ゼレンスキー大統領が当時弱腰だったのは事実だが(軍事同盟国がないのだから無理もないが)、腐敗の多い国でもある。ウクライナに平和と復興の時期が訪れれば、真相が明かされるかもしれないが・・・。

この「ワグネル・ゲート」事件以来、キーウとモスクワの間の対立はいっそう高まった。ロシア軍は既に、数ヶ月前から国境に集結し出していた。この事件発覚の約半年後、プーチン大統領はウクライナに侵略し、戦争が始まった。

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※ネットか記事執筆ソフトか両方か、調子が狂ったようにひどく、ひどい状態の記事を読んだ読者にお詫び申し上げます。

欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家

フランス・パリ在住。追求するテーマは異文明の出会い、平等と自由。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。日本EU学会、日仏政治学会会員。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。前大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著「ニッポンの評判 世界17カ国レポート」新潮社、欧州の章編著「世界で広がる脱原発」宝島社、他。Association de Presse France-Japon会員。仏の某省関連で働く。出版社の編集者出身。 早大卒。ご連絡 saorit2010あっとhotmail.fr

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