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イギリスで「連合王国」解体の危機が起こっていた。「国内市場法」の波紋。

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家
貴族院の内部。今年1月のEU離脱法に関する議論中の様子(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

英国が欧州連合(EU)を2月に離脱してもうすぐ10カ月、年末に移行期間が終わろうとしている。

もう時間がない。ウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長は、11月25日「これからの数日が決定的になる」「EUは『合意なし(NO DEAL)』のシナリオに十分な準備をしている」と欧州議会に対して述べた

今日に至るまで、英国政府とEUは、英国政府が議会に提出した「国内市場法」をめぐって、大紛糾している。

この法案をEUとの関係だけで見るならば、それほど話は入り組んでいない。問題は、この法案は、連合王国解体のリスクをはらんでいることだ。

本題に入る前に、今までの経緯を説明しておきたい。

EUが英国を提訴しようとする

ジョンソン政権は、9月9日、この「国内市場法」案を議会に提出した。

EUと大問題になったのは、EUと英国の離脱協定で北アイルランドに関する取り決めの一部を、英国が一方的に変更する権限を英国閣僚に与えていたからだ。

EUと英国が結んだ協定は、国際条約である。英国は、国際法違反を犯す法案を提出したのだ。

EU側は「信頼を深刻に損ねるものだ」と憤慨した。あれほど大騒ぎして、長い時間をかけてやっと合意したのに、くつがえそうとするとは、EUの怒りは当然である。EUは9月30日までに該当部分を削除するように要求した。

そして期限が来ても削除しなかったので、EU(欧州委員会)は英国に、欧州司法裁判所(EUの最高裁に相当)に提訴する手続きの始まりとして、通知書を出すと発表。1カ月以内の返答を求めた。

移行期間中はまだ、英国はこの裁判所の管轄内にある(ただし、一般的には判決には数年かかり、その前に和解するケースがほとんど)。

英国では、5人の首相経験者は、猛批判していた。「国際条約を破るなんて英国の国際的立場を傷つける」「国の恥」とまで言っていた。

それなのに、結局下院(庶民院)ではこの国際法違反の法案は採択された。意外にあっさりしたものだ。

ところが、さらに意外なことに、11月11日、上院(貴族院)でストップがかかったのだ。極めて珍しいことで、上院では該当項目を削除する案が、433対165の大差で可決された。上院の保守党から44人の造反者が出たという

EUとしては、一応ほっとする内容だ。

さてジョンソン政権はどうするか。

法的には「下院の優越」がある。日本の「衆議院の優越」と、手続きは違うが同じ概念である。上院の判断を下院でくつがえし元に戻す道は、あることはある。

ところが、ここで別の深刻な問題が起こったのだ。

4つのクニからなる英国を束ねる法律は?

いよいよ本題である。

そもそも「国内市場法」とは何なのか、これを理解しないと問題がわからない。

この法案は、英国が来年1月1日にEUから実質上も離脱した後、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの「クニ(nation)」の間で、モノとサービスの自由な流通を確保するためのものだという

なぜこのような法律が必要になったのだろうか。

もともと市場法は、1706年にイングランド(ウェールズ含む)とスコットランドの間に結ばれた条約に起源があるという。開かれた自由な貿易を保証するために、内部市場が創設されたのだ。

この時は、イングランド王国とスコットランド王国は、2つの独立した王国だった。ウェールズは、13世紀に既にイングランドの支配下に入っていた(ちなみに、この時からイングランド王太子は代々「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を引き継ぐことになり、今に至る)。

翌年1707年「合同法」によって政治的に「グレートブリテン王国」が誕生した。これが今の「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」の起源である。

まだ300年くらいしか経っていないが、「十分長い」とみるか、「たった300年?」とみるか。

数世紀の時が流れ、1973年、英国はEUに加盟した(当時はEC/欧州共同体)。イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドにはそれぞれ自治政府があるが、彼らが結んでいた貿易に関する法のほとんどは、EUの域内市場に関する法に置き換えられた。

そして今。ジョンソン首相が認めているように、「合意なし」のシナリオの可能性が高い。そうすると、4つの「クニ(nation)」に今後何が起こるのだろうか。

移行期間の終了(2021年1月1日)までに合意に至らず、EUの域内市場に関する法律に拘束されなくなった場合、4つのクニのそれぞれの議会は、基本的に異なる貿易制限や規制を設定することが不可能ではなくなるのだ。

例えば、ウェールズで養殖された子羊は、もしスコットランドがより高い基準の規制を設けた場合、同地で販売することができない、等が起こる可能性がある。

このような事態になれば、外国が英国と貿易をする際にも、大変困ることになる。日本は英国と「包括的経済連携協定」を10月に結んだばかりだが、最悪の仮説の場合、イングランドしか通用しないことになってしまう。スコットランドに工場をもっている日本企業もあるのに。

このギャップを埋めるために、ジョンソン政府は「国内市場法」を提案したのだ。

これは名前のとおり、英国の4つの「クニ」に、内部市場を創設するというものだ。法案が可決されれば、「EUとの合意なし」のシナリオでも、共通の貿易ルールが英国全体に適用されることが保証される。

今までも4つの「クニ」は、EUのもとで共通の貿易ルールをもっていた。今後も何か共通のルールをもち続け、英国を一つの市場にして、外国に保証を与えなければならない。必要な作業だ。

だからこそ、5人の首相経験者も含めてあれほど批判があったが、結局は条件を付けて妥協して、賛成340、反対263のかなりの差で下院では可決されたのだ。

ところが、この法案はスコットランドとウェールズの要人の激怒を招いたのだ。なぜだろうか。

イングランドの下の身分?

一言で言うのなら、スコットランドとウェールズは、自分たちがもつ権利をイングランドに奪われた、あるいは委譲されたと怒っているのだ。

インディペンデント』によると、スコットランド自治政府の長、ニコラ・スタジョーンは「この法案は、重要な問題について、スコットランドがロンドンから独立して行動する能力を脅かすであろうもの」と述べた。

ウェールズ自治政府の大臣、ジェレミー・マイルズは、この法案を「民主主義への攻撃であり、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの人々への侮辱だ」「英国政府は、地方自治体から権限を奪うことで、連合王国の将来を犠牲にしようと計画している」と非難した。

様々な問題が生じている。

まず、EUが支出していたインフラ、経済開発、文化、スポーツ、教育活動、訓練などの分野におけるプログラム。今後は、ロンドンの議会の閣僚たちが、設計と実施を管理することが提案されている。

これに対してスコットランドの首都エジンバラでは激怒の声があがっているという。自分たちの権限が失われ、イングランドに従属する立場になるためだ。

一方ウェールズでは、ニューポートに16億ポンド(約2200億円)をかけてM4バイパス道をつくる計画があったのだが、ウェールズ自治政府が却下した。しかし、もしこの法案が可決されたら、ロンドンの大臣が決めてしまいかねないーーといった具体的な内容が登場して、対立が先鋭化している。

次に、補助金の問題がある。

法案には、国の補助金の問題は、ロンドンの議会に留保されているという原則が、明記されているという。そして、英国の4つのクニにおいて、単一市場の維持を監視・助言するために、罰金を科す権限を持つ「国内市場局」を新たに創設するとしている。

補助金の問題は、EUとの交渉でも暗礁にのりあげている部分だ。「公正な競争条件」に関わる問題なのだが、おそらく解決しないのではないか。なぜなら内容の問題というより、主権の問題だからだ。

英国側は、要は「結果的にEUと同じ内容にするのであっても、それは英国が自発的にそうするのであって、EUに縛られて従うからではない」としたいのだ。でもEU側は「恩恵を受けたいなら規則に従ってください。良いとこ取りはできません」という姿勢である。

そして英国内でも、EU基金にかわる英国の基金が、どのように機能し利用できるか全く情報がない(つまり誰にもわからない)と、英国商工会議所は報告しているという。

このように、補助金や基金の問題は未だに闇の中なのである(あと1カ月しかないのに)。

この構図で大変興味深いのは、ジョンソン政権は「EUに主権を奪われた」と心の底から嫌だったくせに、同じようなことをスコットランドやウェールズにしようとしていることだ。

昔筆者は、連合が二つ重なると、小さいほうの連合が自然と解体するのではないかと思っていた。それだけではなかった。解体を促すのは、政治家の信頼関係をぶち壊す行いだった・・・。

スコットランドのマイケル・ラッセル自治政府憲法大臣は「これは対等の真のパートナーシップではない」と激怒している。

「これは、実にみすぼらしい青写真だ。悪質な貿易の合意への扉を開き、スコットランド議会が設立されて以来、我々が経験したことのないような権限委譲の襲撃を可能にするものだ」「私たちは、そんなことは許せない」と述べた。

さらに「食品基準、環境基準で『底辺への競争』の扉を開くだろうし、最小の単位価格表示など、重要な公衆衛生政策を危険にさらすだろう」と述べた。さらにEUとの問題は「スコットランド政府が国際条約を破る訳にはいかない」「英国が義務を果たしていないと外国がみなし、貿易協定の締結が難しくなったら、スコットランド経済を直撃する」と言った。

また前述のウェールズのマイルズ大臣は「ウェールズの企業への支援、重要なインフラや投資の機会、ウェールズのスーパーマーケットの棚に並ぶ食品の安全性に関する重要な決定は、ウェールズ政府がウェールズ議会の同意を得て、ウェールズで行うべきだ」という。

さらに、「英国政府は露骨に、権限委譲を書き換えようとしている。また、一次法を求めているという事実は、彼らが私たちから権限を奪おうとしていることを示している」と厳しく批判。

「私たちは、内部市場の原則を信じているが、この法案はそれを実現するために必要なものではない。私たちは、この法案が表す権力の掌握と、底辺への競争に対して挑戦するために、私たちができることは何でもする」。

規制・基準の問題だけではなく、スコットランドとウェールズの両者から「底辺への競争」という言葉が聞かれたのも、興味深い。

これは「国や政府が企業に有利な政策を行うと、どんどん労働や福祉、環境が最低水準に向かっていく」という考えだ。資本家 VS 労働者、右派 VS 左派という解釈も可能だろう。

参考記事(CNN):スコットランド、全土で生理用品を無料提供 世界初の法案可決

4つの「クニ」の中で、経済と金融が圧倒的に強いイングランドに対して、スコットランドやウェールズは福祉国家の志向が強いということだ。EUの存在の基本は左派思想なので、そういう所でもEUと相性がいいのかもしれないが。

なぜか活躍する貴族院

これを救ったのは、またしても上院(貴族院)だった。

上院は、ロンドンの大臣たちは、問題となっている権限の行使が許可される前に、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの同意を求めなければいけないという措置を考えた。そして、77票の得票差で、賛成多数で採決したという

ただし、クニが拒否権を行使するという脅威を回避するための規定も設けている。

そして、同意が1カ月以内に与えられない場合、大臣は先に進めることができるが、そうしている理由を説明する声明を公表する必要があるという。

貴族院も、なかなかやるではないか。

英国は「議会制民主主義の雄」とも言える存在だが、二院制や下院の優越とは、実によく考えられた制度なんだなと、このように機能しているのを見ると実感させられる。

貴族院は「議員が選ばれていない」「責任がない」など、散々批判されている(もっとも貴族院といっても、今では一代貴族が大半を占め、世襲貴族のための議会の椅子数は限定されているが)。

1999年以来、3つの法案しか阻止したことがないというから、不要論が出るのも当然なのかもしれない。

ところが今回は、立て続けに2つの法案を阻止し、ジョンソン政権の方針に打撃を与えた。一つは国際的な英国の立場を救い、もう一つは英国内部の解体の危機を救った。民主的に選ばれていない議員たちのほうが、冷静でまとも(?)だったということだろうか。

一番の問題とは

こちらのほうも、ジョンソン政権は、下院の優越の権利を行使できないわけではない。実際、保守党は下院で単独過半数をとっているのだ。

まだまだ火種はくすぶっている。

おそらくイギリスの一番の問題は、このような連合王国解体の危機につながるような問題ーー何と言っても4つのクニを束ねる根源的な法律に関する問題だーーが、控えめな報道しかされず、静かな重大問題と化したことにあるのではないか。

EUとの問題のほうは、比較的大きく取り上げられた。バイデン次期アメリカ大統領が口をはさんできたので、よけいに注目されたのだろう。それに対して、ブレグジットによる国内の混乱の問題は聞き飽きているし、どの国もコロナ禍が毎日大きなニュースだ。

とはいっても、このような重大で深刻な問題を、報道が大きく取り上げて騒がないような土壌が出来上がってしまっていることが一番の問題なのだと思う。

とりあえず貴族院のおかげで、一応はトーンが落ちた状態だが(コロナ禍が大変でもあるし)、とてもこのまま収まるとは思えない。この問題は移行期間終了後の英国の姿に、最も暗い影を落としたように感じている。火種は消えたのではない。最初に起こった火が消されただけではないだろうか。

とにかく今、何よりも「連合王国」の維持に大事なのは、エリザベス女王(94歳)が崩御しないことだろう。

欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者、作家

フランス・パリ在住。追求するテーマは異文明の出会い、平等と自由。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。日本EU学会、日仏政治学会会員。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。前大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著「ニッポンの評判 世界17カ国レポート」新潮社、欧州の章編著「世界で広がる脱原発」宝島社、他。Association de Presse France-Japon会員。仏の某省関連で働く。出版社の編集者出身。 早大卒。ご連絡 saorit2010あっとhotmail.fr

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