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香港デモに加わり、中国ブラックリスト入りのスター、デニス・ホー。映画を撮ったNYの監督も日常に不安?

斉藤博昭映画ジャーナリスト
有名人としてデモの先頭に立つことで、社会に与える影響と失ったもの、どちらもある。

デニス・ホー

日本では、その名前を聞いたことがない人もいるかもしれない。しかし香港では誰もが知るスーパースターである。1996年に歌手の道へ進み、デビュー後は音楽賞を次々と受賞。香港ポップス界を牽引するシンガーソングライターとなったデニス・ホー。コンサートは瞬殺でチケット完売する人気で、俳優としてのキャリアも積んだ。

そんなデニス・ホーのドキュメンタリーがなぜ今、作られたのか? それは、彼女の生きざまが、あまりにも「今の時代」を象徴し、人々に必要とされているからだろう。

国家安全維持法の施行によって、中国からの抑圧は厳しくなるばかり。香港ではますます表現の自由、言論の自由が制限される傾向にある。2019年、香港で民主派による大規模なデモが続いていたことは、日本でもニュースで頻繁に流れたが、そのデモに最前線で参加していたのが、トップスターのデニス・ホーなのである。警察の機動隊に対しても、ひるむことなく立ち向かい、対話をしようと試みていた。

2014年の、いわゆる「雨傘運動」でも香港市民とともに座り込みを続け、逮捕までされたデニス・ホーは、その時点で中国政府からブラックリスト扱いとなり、芸能活動に支障もきたした。中国での仕事は激減し、大手のスポンサーとの契約もなくなった。それでも彼女はひるまない。

同性愛者であると告白し、香港デモでも先頭に立つ

さらに2012年、デニス・ホーは香港でのLGBTパレードで、自らが同性愛者であることをカムアウトした。これは香港の女性芸能人として初めてのケース。

香港民主派、さらにLGBTの「旗手」となったデニス・ホー。その姿に、フィルムメーカーが興味を抱き、映画『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』は生まれたのである。監督を務めたのは、アメリカ人のスー・ウィリアムズ。30年にもわたってドキュメンタリーの制作に関わり、中国の作品も多く手がけてきた彼女が、デニス・ホーと会ったのは、2017年。その時点まで、デニスの名前を聞いたことがなかったというウィリアムズ監督だが、数ヶ月後にライブを観て、そのカリスマ性に衝撃を受け、ミュージシャンとして、そして民主活動家としてのデニスをカメラで追うことを決意する。

しかし制作を始めた2018年から、香港の状況は急速に変わっていく。「一国二制度」を守る前提があるにもかかわらず、中国政府は、あの手この手で香港の自由を制限しようと試みているのは、ニュースでも伝えられるとおり。

これほど制作の過程で状況が急変するのは、ウィリアムズ監督にとっても予想外のケースだったという。

「2014年の逮捕でデニスは中国のブラックリストに載せられ、私が会った2017年、彼女はシンガーとしてのキャリアをどのように続けるか、模索していました。同じくアーティストとしてブラックリストに入ったアイ・ウェイウェイ(中国の美術家)の例を知っていましたから、私はその点に興味を持ったのです。そして2019年の初めに撮影を締めくくり、編集を始めたところ、香港での抗議活動が激化しました。デモに関わったデニスの行動があまりにもドラマチックで、完成しかけていた作品に重要な追加を決めたのです。私にとっても予想外の展開でしたね」

香港生まれのデニス・ホーだが、11歳で家族とともにカナダへ移住。そこでの経験が現在の民主派活動への根源にもなっている。
香港生まれのデニス・ホーだが、11歳で家族とともにカナダへ移住。そこでの経験が現在の民主派活動への根源にもなっている。

当初の公開を延期してまで、監督が作品に収めるべきと考えた、2019年の香港民主派デモ。それゆえに映像は生々しく迫ってくるが、状況が状況だけにニューヨークを拠点にするウィリアムズ監督は香港に飛ぶことはできなかった。現地の信頼できるスタッフ、およびデニス本人に撮影を頼んだことを「もちろん行きたかったが、後悔はしていない」と言い切る。

メールがハッキングされた? 外出時も不安が残る

しかし心配なのは、このような作品を世に送り出すことで、デニスにも、そしてニューヨークに暮らす監督にも、中国からの多大な圧力がかかるのではないか、ということ。

「映画の準備の際に、デニスの周囲の人に話を聞こうと試みましたが、その多くがカメラの前でのインタビューを拒絶しました。映像に残されることに危険を感じたのでしょう。デニスに関しては、この映画の完成に関係なく、中国は彼女の言動をつねに気にしています。じつは数週間前、私にも奇妙なことが起きました。メールがいくつか、ハッキングされて読まれた形跡があったのです。相手はテキサスに住む謎の人物でした。たしかに外を歩くとき、ちょっと恐怖心を感じることはありますね。ただ私は、そこまで有名人ではないので、こうして作品についてインタビューで自由に話すことができるのだと思います」

このようにデニス・ホーの行動を通して、中国と香港の現状を伝える本作だが、そのテーマと同じくらい、いやそれ以上に観る人の心を揺さぶるのは、デニスのアーティストとしての才能だ。要所に盛り込まれるライブシーンでは彼女のヴォーカルにシンプルに圧倒される。そして歌詞に込められた自身の葛藤、同性への想いが絡まり、ひとりの美しい人間が浮かび上がった瞬間、国や人種、職業に関係なく、信念に対してまっすぐに行動するデニスに素直に勇気づけられるのだ。大げさだが、この映画によって人生が変わる人もいるかもしれない。

「今回、一緒に仕事をした若いカメラアシスタントたちは、デニスや、彼女について語る人の言葉に熱心に耳を傾け、素直に驚いていました。その意味で、映画が彼らの人生を変えたと実感しています。私はプロパガンダで映画を作ったわけではありません。でもこれから日本で観る方たちも、2014年にデニスが多くのことを失いつつ、その後、自分が正しいことをやったと自信をもって生きる姿から、何か新たな視点が見えてきて、思いを解放するきっかけになると確信しています」

日本も、徐々にではあるが、トップスターといわれる人たちが政治的発言をする姿を、たまに見かけるようになった。しかしデニス・ホーのように、すべてをさらけ出し、キャリアをなげうつ覚悟で行動する人は、まだ現れていないと感じる。

「この不安定な世界では、権威主義の政府や、強引に権力を握ろうとする人が後を絶ちません。だから、アーティストたちはもっと声を上げる必要があると感じます。言葉を通して直接的にでもいい。作品を通して抽象的にでもいい」

デニス・ホーの生き方に触発されることで、世界が少しでもいい方向へ変わるのか? それは、わからない。しかし、変わることを恐れてはいけない。少なくとも、間違ったことを黙って見過ごしてはならない。『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』は、そんな思いを巡らす意味で、必見のドキュメンタリーである。

コンサートシーンは圧巻の一言。中でもクイーンの「愛にすべてを」を歌うシーンは、当時の強い決意が重なって魂が揺さぶられる。
コンサートシーンは圧巻の一言。中でもクイーンの「愛にすべてを」を歌うシーンは、当時の強い決意が重なって魂が揺さぶられる。

『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』

6月5日(土)より、シアター・イメージフォーラムにて公開

※その他、全国で順次公開。劇場詳細はこちら

配給/太秦

(c) Aquarian Works, LLC

映画ジャーナリスト

1997年にフリーとなり、映画専門のライター、インタビュアーとして活躍。おもな執筆媒体は、シネマトゥデイ、Safari、ヤングマガジン、クーリエ・ジャポン、スクリーン、キネマ旬報、映画秘宝、VOGUE、シネコンウォーカー、MOVIE WALKER PRESS、スカパー!、GQ JAPAN、 CINEMORE、BANGER!!!、劇場用パンフレットなど。日本映画ペンクラブ会員。全米の映画賞、クリティックス・チョイス・アワード(CCA)に投票する同会員。コロンビアのカルタヘナ国際映画祭、釜山国際映画祭では審査員も経験。「リリーのすべて」(早川書房刊)など翻訳も手がける。

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