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山びこ学校と無着成恭さん  戦後農村の滅びを見据え考えたこと

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

山びこ学校と無着成恭さん  戦後農村の滅びを見据え考えたこと

大野和興

◆戦後教育運動の金字塔

 7月24日、無着成恭さんが亡くなりました。96歳でした。無着さんの死を新聞で読んで思ったのは、時代はこうやって一枚一枚更新されていくのだなあ、ということでした。無着さんはある意味で戦後日本を代表する人でした。一つの時代がおわった、とふと思いました。

 親しそうに「無着さん」と書きましたが、ご本人と直接の面識があるわけではありません。ぼくが知っている無着さんは『山びこ学校』の無着さんです。だからぼくは「山びこ学校」の無着さんしか書けません。というか、山びこ学校のことしか書けない。

 『山びこ学校』とはそも何者か。この、山形県の山村の中学生の作文集は、戦前戦後を通して続いた民間教育運動「生活綴り方運動」の戦後における大きな成果だといえます。自分の生活を見つめ、観察し、書く。そこから、例えば自分は、あるいはこの村は、なんでこんなに貧乏なんだ、というということを自分なりに導き出す。当然この運動は権力者にとっては都合が悪い。

 その結果、アジア太平洋戦争が始まると、生活綴り方を基盤に東北に根を張った北方教育運動は弾圧をくらい、逼塞を余儀なくされました。敗戦後息を吹き返した北方教育運動が作り上げた金字塔が、師範学校を出たばかりの無着さんが最初に赴任した山形県南村山郡山元村(現上山市)の村立山元中学校での生活綴り方の実践の成果をまとめた『山びこ学校』だったのです。 

 『山びこ学校』は1951年にベストセラーになり、無着さんも全国レベルの有名人になります。しかし村の貧乏を全国に広め、恥をさらしたと無着は村人からひんしゅくをかいます。そして村を去る。

 ノンフィクション作家佐野眞一の作品に『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの40年』というのがあります。(初版は1992年8月。現在新潮文庫で読める)。この作品は、山びこ学校が全国的に有名になったその後を追ったものです。当時、作文集『山びこ学校』がどのように読まれたか。『遠い「山びこ」』が新潮文庫に入ったとき解説を書いた作家の出久根達郎は「私は昭和25年に小学校に上がったが、私と同じ世代の者で『山びこ学校』の名前を知らない方は、おそらく一人もいないだろう」と書いています。出久根は集団就職で上京した中卒の勤労少年で、山びこ学校の子どもたちと同じ貧乏階層の生まれでした。貧乏人どうしの親近感にあふれるいい解説だ読みながら思ったものです。

◆四国山地の片隅で 

 当時ぼくは、四国のちょうど真ん中あたりにあたる四国山地のまっただ中で小学生をやっていました。住んでいたのは愛媛県上浮穴郡参川村大字中川字祝谷。ここにも『山びこ学校』は当たり前のようにありました。

 ぼくの村は、山また山が連なり、山の間を幾筋もの谷川が走り、人は谷筋と山の中腹にちょぼちょぼと集まって住み、田んぼはちょぼちょぼしかなく、後は傾斜地を拓いた畑にこんにゃくやイモなどをこれまたちょぼちょぼと植え、畑まわりには土止めをかねて製紙原料のミツマタや桑。時々山焼きをして雑穀やソバを植え、また山に返す。それに炭焼きと奥山の国有林からの木だしで生きている、極貧の村でした。

 ここは母親の故郷で、戦中生まれの男の子3人を抱えて戦争未亡人になった母親は、敗戦間近、県都松山でB29による大空襲に遭い、命からがら逃れて両親(ぼくにとっては祖父母)を頼って住み着いたのでした。 

 生活のために地元小学校で養護教員をしていた母親の本箱の中に『山びこ学校』はありました。なにしろ活字に飢えていました。子どもが読める本をいえば、ときたま部落中をめぐりめぐってやってくる表紙も途中も終わりの方も抜け落ちて、筋も追えない骸骨のような「少年探偵団」くらい。それでも名探偵明智小五郎とその助手である小林少年の名前はいまも脳髄に焼き付いています。活字を探して母親の本箱にあった『山びこ学校』をなんとか読めるかなあ、と引き出して、1ページ目で釘付けになりました。

 一面の深い雪、その中に一軒の民家が半分雪に埋もれている。そして短い文章。「雪がこんこんと降っています。人間はその下でくらしているのです。」とある。

 ぼくが住む参川村は山国で標高もそれなりにあり、毎冬数度は30センチくらいの積雪がありますが、なにしろ南国四国だから根雪にはならず、1週間もすると山や道ばたを除いてすっかり溶けてしまう。「雪の下でくらしている」という光景を一生懸命思い描いて、世界にはいろいろなところがあり、いろいろなくらし方があるなあ。と思ったのでした。

◆江口江一と佐藤藤三郎

 作文集『山びこ学校』のハイライトは、なんといっても江口江一の「母の死とその後」でした。「僕の家は貧乏で、山元村の中でもいちばんくらい貧乏です」で始まるこの作文は、自分の家のくらし、仕事、母親の死さえ冷静に的確にとらえ、その原因を分析し、その悲しさを描写していて、何度読んでも心がゆさぶられます。

 子どもたちの日常とその背後にある貧困を、子どもたち自身がつかまえ、表現する、教育という仕事のすごさを知ることができます。無着さんのすごさは、これだけにとどまりません。村では中学生ともなれば一人前の労働力でした。母子家庭だった江一には一家を支える役割があり、仕事に追われて学校に出てこられません。ある日、無着は級長の佐藤藤三郎に「江一が学校に少しでも出られるようなんとかならんか」と相談します。

 「なんとかなる」とこたえた藤三郎は江一と話し、クラスに投げかけ、誰がいつどのように江一の仕事を分担できるかを見事に作り上げる。助け合い、協同して、合理的に解決する、それが山びこ学校だったのです。

 江一は中学を出て地元の森林組合に就職、山林で生きられる村をめざして懸命に働き、31歳の時くも膜下出血で急死します。

 藤三郎は農業をしながら地元の定時制農業高校に通い、山元村狸森(むじなもり)を生涯離れず、農業と物書きで88歳のいまも元気です。何冊もの著作があり、いまも地元上山市で市民有志が発行している雑誌に毎号寄稿しています。ぼくとは、彼が最初の著作『25歳になりました』を出したすぐ後、ぼくも彼も20代の頃に出会い、現在まで、行ったり来たりを繰り返しながら付き合いが続いています。ぼくより4歳から5歳年上、同じ時代をくぐり抜けてきた兄貴分です。

◆まぼろしの村のリアリズム

 山びこ学校のクラスは男女41人。藤三郎によると、そのうち村に残ったのは長男5人と村内に嫁に行った女性2人の7人だけでした(佐藤藤三郎著『まぼろしの村Ⅱ』から)。後はほとんどが東京方面に就職した。何年か前、彼がしんみりと言ったことがあります。「東京へ行った連中とじっくり話すと、みんな苦労してんだな。村に残ったものだけが貧乏くじを引いたと思っていたのだが、むしろ残った方がよかったのかも」。

 急傾斜の曲がりくねった道に沿って点在する狸森集落はいま、残ったのは年寄りだけ、空き家が目立ちます。『山びこ学校』出版から72年の現実です。江一が死んだ1967年はすでに日本は高度経済成長の時代に入っていました。ぼくはコロナの最中の2022年、上山市の隣町の山形県白鷹町に通い続けて、同町の仲間と一本の記録映画を作りました。『出稼ぎの時代から』と題名をつけたこの映画は、高度成長とともに始まる農民出稼ぎで、村から半年、男たちがいなくなる時代とその後を描いたドキュメンタリーです。

 出稼ぎに続いてコメ減反、グローバリゼーションによる農産物価格の低落、高齢化と人口減と続き、いま村はひっそりと静まりかえり、コメ農家も畜産農家も、大量離農が静かに進んでいます。

 敗戦から78年がすぎました。敗戦は村に大変革をもたらしました。戦前、日本は地主制の国でした。大多数の農民は土地を持たない、あるいは少ししか持たない小作農民でした。収穫物の半分を地主にもっていかれる例も多く、多くの農民が貧困にあえいでいました。敗戦後、占領下で実施された農地改革は小作農を土地持ち農民、自作農に変えました。数年前、山形県白鷹町で90歳を超えた老農民にお会いしたとき、これまでの人生で一番うれしかったことは、とお聞きすると、農地解放で自分の田んぼと畑が持てたことだという返事が即座に返ってきました。

 『山びこ学校』でも土地に触れた作文が幾つも収録されています。最も印象的だったのは江口江一の文章です。自分の土地への憧れを語りながら、だけど自分が土地を持つことは、その分ほかの人の土地を奪うことになるのではないか、と考え込むのです。家の農業を継いだ藤三郎も自分の田んぼを広げることに懸命になります。もう20年も前のことですが、あるとき「どのくらいの田んぼをめざしたのか」とお聞きしたことがあります。「自分の一家が一年間食べられるコメがとれるだけの田んぼ」というのが答えでした。

 日本国家は戦後一貫して規模拡大農業政策を進めてきました。より大きく作り、より大きく売って、富裕になるー。しかし、戦後農地解放で生まれた自作農の時代精神は、みんなが等しく生きていく、ということでした。アジア太平洋戦争のまっただ中の1940年に生まれ、村で育ち、成人してからは村を歩いて報告する農業記者を生業として生きてきたぼくは、最後の仕事として、戦後自作農の精神史を書き残さなければ、と思い定めています。その冒頭に、江口江一と佐藤藤三郎をおきます。

 いま、この日本でその自作農が急速に滅びつつあります。そしてぼくは、その誕生と滅びに立ち会っている。戦後とは一体何だったのか。夢かうつつかまぼろしか、次第におぼろになる戦後ー。山びこ学校のリアリズムに触れることで、はっと我に返ります。自分たちが生きてきた時代がここにある。無着さん、この本を残してくれて本当にありがとう。

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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