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人とむらの物語 記録映画『出稼ぎの時代から』を撮って

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

ひととむらの物語 記録映画『出稼ぎの時代から』を撮って 大野和興

 山形県白鷹町で半世紀余を経て一本のスライド作品が教育委員会の物置から発掘されました。『出稼ぎ』と題されたその作品は、1966年、当時20歳で出稼ぎに出た本木勝利青年が出稼ぎ現場で撮りためた写真をもとに作成したもので、当時社会教育で行っていた視聴覚コンクールに出品され、そのまま倉庫に眠っていたものです。カビが生え、傷みまくっていたスライドが本木さんの手元に戻り、苦労して復元され、デジタル化されて筆者のもとにも送られてきました。30分弱のスライドは、出稼ぎ現場のリアルな報告とその中に流れる青年らしい正義感があふれ、感動しながら見ました。見終わってすぐ本木さんに電話し、スライドを核にその後のむらと農業の動きを付け加えて一本の映画を作りませんかと提案、快諾を得ました。この映画はこうして出来上がりました。

◆経済成長と農村

 出稼ぎは1960年代、筆者が農業記者稼業を始めた同時期に始まったことです。記者として働き始めたのが1963年、日本は高度経済成長の時代に入り、翌年の東京オリンピックをめざして東海道新暗線が開通、世の中は石炭から石油の時代に入り、東海、山陽の沿岸部では臨海を開発して石油コンビアートが造られ、自動車産業が勃興期に入っていました。物資を運ぶための高速道路も急ピッチで作られていました。

 それを低賃金労働者としてささえたのが、当時100万人といわれた出稼ぎ農民です。が新幹線、高速道路、臨海石油コンビナート、自動車産業へ低賃金労働者として出かけて行き、東北の村むらでは11月から3月まで、村には女性と年寄りでしかいなくなりました。この映画の舞台となった白鷹町でも町の全世帯の4000戸から2000人以上が出稼ぎに出ました。

本木さんのスライドを見て、同時代を記者として生き、村や出稼ぎ現場、飯場、出稼ぎ事故を取材したことがよみがえました。白鷹の友人・知人が制作委員会を作り、資金を集め、町の後援を取ってくれました。こうした経過を経て昨年7月から撮影を始め、コロナの合間を縫いながら白鷹通いを続け、1年余が経って完成しました。監督は本木さんと筆者が共同監督の形で務め、国際有機農業映画祭仲間の堀純二さんが撮影・編集を担当しました。

◆農家は3戸に1戸残せばいい

 当時の農村の状況はどうだったのか。

 1945年、アジア太平洋戦争で敗けた日本は、地主が多くの土地を所有する地主制の国から、農地改革を経て自作農の国に生まれ変わります。土地は獲得したが小規模零細で、みんな等しく貧しい時代でした。それは都市も同じで、中小零細企業の勤め人と職人、小商人が大半を占めていた時代です。

 そんな状況が大きく変わるのは、日本の経済が成長の軌跡を描くようになる1960年代でした。この国全体が大きく変化、なかでも農村と農業の変化はすさまじいものがありました。1961年、農業基本法が作られ、経済成長で豊かになる都市に追いつくためには小規模零細な農業の構造を壊さなければならないという目標が打ち出されました。具体的には、3戸の農家を1戸にして、2戸は都会に出てもらう。残った農家は出て行った農家の農地を引き受けて耕作面積が3倍の3haになる(当時1戸当たりの耕作面積はほぼ1haだった)。

 3戸分を1戸でやるのだから、労働力が不足する。化学肥料や農薬、機械で生産性を上げなければならない。機械を入れるには、農地の区画を大きくし、斜面も平らにして操作しやすくしなければならない。いわゆる農業近代化です。この政策は都会にとっては一石二鳥の名案でした。農村は化学肥料は農薬、農業機械など工業製品の巨大な買い手となると同時に、それらの工業製品を作るための安い労働力の出し手ともなったのです。出稼ぎで得た収入は農業機械や農地の区画整理に必要な資金に当てられ、手元にはほとんど残りませんでした。まさに往復ビンタです。

◆日本経済の光と影

 これに対して農村側は、庶民の知恵ともいえる巧みな対応をしました。政府が進める離農ではなく兼業化を選んだのです。出稼ぎもその選択のひとつでした。こうして村から半年間男手が姿を消し、女と子どもと年寄りばかりとなるという10年間が出現しました。その10年、村の男たちの安い労働力を得て、新幹線や高速道路、東海から西日本の臨海部の石油コンビナート、勃興したばかりの自動車産業が姿を現しました。日本経済の光の部分です。出稼ぎはその影の部分でした。

 20歳の本木勝利が出稼ぎ現場にカメラを持ち込み制作したスライド『出稼ぎ』は、自分自身もその一人である出稼ぎの実態を見事にとらえています。長靴が枕もとで転がる飯場暮らし、黴臭く湿った布団だが、容赦なく貸し料が天引きされる、現場でけがをして労災を申請したが、申請用紙がないと国保で支払わされ、後日の労災申請は認められないと断られる「無災害」労働現場の実態、作業中倒れてそのまま死亡したが、会社は見舞金も出さない、それは当時のこの国の影の部分を見事に表現していました。

◆減反が始まった

この映像が伝える出稼ぎの時代から60年が経ちました。映画は本木さんのスライドを冒頭に置き、その後の流れを当事者へのインタビューで追うことにしました。男たちが出稼ぎに出た後、残った村の女たちはどうしたのか、子どもたちは。スライドに続く村の物語はそこから始まります。村から働ける男が一人もいなくなるという異常な10年を経て70年代に入り、安い労働力を求めて都市から農村への工場移転が始まり、出稼ぎは縮小の時代に入っていました。そこをコメ減反が襲ったのです。

 1970年に緊急避難としてはじまった減反は翌年から制度化され、いまに続きます。日本の農業の柱は、ずっとコメと養蚕でした。出稼ぎが始まった60年代、お蚕さま(おこさま)と呼ばれた養蚕は輸入生糸に押されて次第にふるわなくなり、養蚕が盛んだった白鷹町でも60年代には養蚕は二本柱の座からすべり落ち、出稼ぎにとってかわられていました。そして1970年、政府はいきなり、コメが過剰生産なので作付け制限せよという政策を打ち出します。

 当時農家はコメと他品目を組み合わせた複合農業をめざすもの、「コメ+兼業」で生活の安定を図ろうとするものと、さまざまの工夫をこらしながら出稼ぎに出なくてもすむ暮らしをめざしていました。その柱のコメを襲った減反の衝撃を映画の中で語った舩山仁の言葉は印象的でした。

「農業高校に入学したとき、同級生は全員農業自営を希望していた。在学中に減反が始まり、卒業時には自分をのぞいて全員就職した」

◆グローバル化の中で

 出稼ぎをなくそうと、行政は企業誘致に努力します。しかし、せっかく誘致した企業はより安い労働力を求めてアジアに出て行きます。そして80年代、日本経済を農業もろとも世界規模の市場競争に投げ込むグローバリゼーションが始まります。それは農産物自由化という形で村を襲い、村を舞台とした人びとの模索や実践の芽を摘みとってしまいました。国内市場は輸入農産物に占拠され、内外入り乱れての過当競争の結果、コメをはじめ農産物価格は低落を続け今に至っています。農業に見切りをつける人が後を絶たず、高齢化と人口減で村の維持さえむずかしくなっています。村の共同性も人々の意識も大きく変わりました。

 そして今、映画は、白鷹というコメどころで、最上川沿いの町一番の優良田んぼ地帯の一角にセイタカアワダチソウが群生する風景を映し出します。町長さんがインタビューに応え、町への収入の第1位は年金で68億円。コメは8億円、酪農を含めた畜産は13億円、と数字を並べます。コメはここ3年続く米価暴落前の数字ですから、今年は7億円を切っているはずです。

 映画は、50ヘクタールまで規模拡大した二つの農業法人を訪ねます。減反、グローバリゼーションと続く困難を経営規模の拡大と法人化で切りぬけようと懸命の努力を続けてきて今、米価の大幅下落と資材費の高騰に直面し、二人の法人代表は「地区で農業をやめる人に頼まれて田んぼを引き受けてきたが、生産性が上がらない田んぼはお返しし、身軽にならなければ法人自体がつぶれてしまう」と語ります。

◆田舎と都会のはざまで

 農村から都市への人の流れは、いくつもの段階があります。最初は若い女性。女中とよばれた家事労働者、糸とり、繊維工場と仕事先はさまざまでした。日本経済が成長の軌跡に入り、仕事が増えると、農地を与えられないまま農村に滞留していた次三男が都会に出て行きました。そして、出稼ぎと並んで大きな流れとなったのが、中卒の子どもたちの集団就職。“金の卵”といわれ、中小零細工場や商店、大工場と就職先はいろいろでした。

 守屋浩がいまにも泣きだしそうな声で「僕の恋人 東京へ 行っちっち」(注1)と歌ったのが1959年。大ヒットしたこの唄には、村がまだ厳然として存在していました。その2年前、フランク永井が甘い低音で「有楽町で逢いましょう」(注2)と歌います。「ビルのほとりのティールーム」「小窓にけむるデパートよ」といった言葉を散りばめながら、都会の男女の出会いを描いたこの曲は、村を根拠地としてきた歌謡曲のイメージを一変させました。守屋浩もまた、「僕も行こう あの娘の住んでる 東京へ」と後を追う決意をします。同じ年、松尾和子が甘くささやくように「東京ナイトクラブ」を歌います。もうここには村はありません。

 1970年前夜、出稼ぎが次第に下火になりかけたころ、歌の世界にも変化があらわれます。藤圭子の出現です。「圭子の夢は夜ひらく」「女のブルース」「新宿の女」と立て続けにヒットを飛ばした彼女のどすのきいたハスキーな歌声には、歌謡曲が捨てたはずの土俗がよみがえっていました。集団就職で上京した女の子たちが、いつしか夜の街を転々としながら懸命に生きていく心情を歌った藤圭子の歌の根っ子に、人は強い望郷の想いをかぎつけました。人生を下積みで生きていくものの恨み節、怨歌の出現です。

 映画『出稼ぎの時代から』の頭で、共同監督の本木勝利さんが二十歳の冬の出稼ぎ経験をまとめたスライド作品が流れます。その中に、飯場で男たちがテレビに流れる“夢は夜ひらく”の歌声に聞き入るシーンがありました。大都会の仮の夜をそれぞれに過ごす、村から出てきた男たち女たちの想いが交錯する一瞬を、一枚の写真でとらえたこのシーンに涙が出そうになりました。

 さみしさばかりではありません。村から出てきた若い男女はやがてめぐり逢い、小さな愛の巣を構えます。大都市郊外に農地をつぶして造られた団地がその舞台でした。その団地を造ったのも出稼ぎ者でした。集団就職した若者同士が一緒になり住み着いた団地では子どもが生まれ、孫がさずかり、やがてそこが故郷になります。

 

          ◇

 さまざまの思い、夢、挫折を抱えた人と村の物語。しかし、人は生きていかなければならず、そのためには人と人が共同しなければなりません。映画はそこで終わりますが、物語は、これからも続きます。

東北のひとつの地域を舞台としたこの映画は、この国の戦後のむらと人の物語でもあります。

(注1)作詞作曲 浜口庫之助

(注2)作詞 佐伯孝夫  作曲 吉田正

 

制作:山形県白鷹町出稼ぎの記録映画制作委員会

監督:本木勝利 大野和興

撮影・編集 堀純司

79分

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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