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【連載】現代史のなかの農と食(第3回) 昭和恐慌下の農村

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

 1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨーク・ウォール街の株式相場が大暴落する。世にいう「暗黒の木曜日」である。世界恐慌が始まった。第一次世界大戦後のアメリカの繁栄は一挙に吹き飛び、恐慌はヨーロッパへ、そして世界中に波及していった。恐慌は金融恐慌、農業恐慌の形をとって人々を直撃した。恐慌が日本に波及したのは1930年である。

 株と物価が暴落、倒産企業が続出した。賃金切り下げ、解雇、失業が労働者を襲った。農産物価格も下がり、当時コメと並んで農家経済を支える柱だったコメとマユ・生糸価格が暴落した。欧米への輸出主力商品だった絹織物の輸出が激減し、それがマユの価格を引き下げ、次第に他の農産物に波及していった。

 製糸会社は生糸価格暴落に対応して、操業短縮や共同保管による市場からの隔離などを実施したが、焼け石に水で、糸価の低落を止めることはできなかった。1930年10月には米価の大暴落を受けて大阪、東京の米穀取引所が立会を停止するにいたった。

 『目撃者が語る昭和恐慌』(1989年、新人物往来社)のなかに東京朝日新聞の「農村窮乏の実情を見る」と題したルポルタージュが収録されている。「東日本一道十六県の通信網を総動員して恐慌下における農村の実情を探ると共に、もって農村振興、不況打開の一助に資せんとするものである」という目的で掲載されたものだ。昭和7年6月2日付けは「長野県の巻」で、以下のような書き出しで始まる。

 「桑園は荒れ、麦は伸びず、蚕具の何割かは軒下に積まれたまま、町から入り込む行商人の姿も見受けられない。野の小道に農民の声を聞いてみる。いわく『命さえありゃ』『誰に文句をいっていいやら』・・・」

 1934年(昭和9年)、恐慌に加え大冷害・凶作が東北地方を襲った。この年は7月から低温が続き、冷たい夏となった。テレビ東京編の『証言・私の昭和史①昭和初期』(1989年、文春文庫)~、当時の模様を抜き出してみる。

「沿道の水田は悉く薄の穂そのまま。久慈から夏井、大野、小軽米を経て軽米に来る沿道の水田は悉く素人眼にも収穫皆無と思われる惨状で、穂は季節が来たから仕方ないと申訳に出たにすぎず、薄の穂と違いがない・・・」(岩手日報)

 東北一帯を飢餓と娘の身売りが横行した。東北の農村に定着して歌を詠んだアララギ派の歌人結城哀草果は次のように詠っている。

木の根と草を喰らい飯食わぬ人等はくろき糞たれにけり

貧しさは極まりついに年頃の娘ことごとく売られし村あり

 娘を売るというのは、娼婦、酌婦などいまでいう風俗業に、前金を親が受け取って売り渡すことをいった。

 恐慌と農村の疲弊は中国への日本の軍事侵略行動につながった。1931年、満州事変がはじまる。同年9月18日夜、満州鉄道の線路が爆破されるという事件があった。満州(中国東北部)に駐留していた日本の派遣軍隊、関東軍の司令官は、これを中国軍の仕業として総攻撃を仕掛けた。線路爆破は、満州占領を計画した関東軍による謀略だった。国家の危機を外への侵略で解決しようとしたのが満州事変の本質だったのである。

 翌1932年には5・15事件が起こる。陸海軍の青年将校がクーデターを起こして、首相官邸などを襲い、犬養首相を射殺した事件だ。青年将校を駆り立てた背景に、兵士の出身地農村の疲弊問題があったともいわれている。いずれにしろ、行き詰まった社会を対外侵略と国家主義で打ち破ろうとした動きとみてよい。

 当時の農民は自らの危機を二つの方向で打開しようともがいていた。一つは農民闘争。この時期、各地で小作争議が巻き起こっていた。例えば1931年6月、埼玉県吉見村では農民百人が地主が植えた苗を引き抜いて共同田植えを強行、警官隊と乱闘した。もうひとつは海外への植民。32年、農民の満州への集団移民が動き出した。

 こうして時代は、戦争への道をひた走る。1937年7月、日中戦争がはじまり、大量の農村出身兵士が戦地へ送り込まれる。

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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