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「GoTo Travel」とはなにものか コロナが突きつける生と死と経済 

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

 権力がつくった「GoTo travel」という和製英語に乗せられて、人々が新型コロナ(以下コロナ)感染をものともせず各地を移動する。テレビ局にカメラとマイクをつきつけられ、「感染は心配ですが、やはり経済が回復しないと」と政府要人のようなことをつぶやく。いったい生とはなにで、死とは何なのか、考えこんでしまう。

◆曖昧模糊とした生と死の境界

 コロナは否応なく人に生と死を考えさせる契機となったが、それは妙にゆがんだ観念でもあった。コロナは「経済」か「いのち」かという本来ならあり得ない奇妙な二項対立を、誰もが奇妙と思わない奇妙な状況を作り出した。いまの日本の政権の言い草を聞いていると、経済のためには人は死んでもかまわない、という思想が透けて見える。しかし、よくよく考えてみたら、腹を立てても仕方ないとも思う。生とか死を経済で換算することに、ぼくたちはとっくに慣れてしまっていることに思い至る。コロナはそれをより日常化したにすぎない。

 「脳死」を死と認定したのは1997年だった。臓器移植法が制定され、脳死を死の判定基準に加えた。移植用臓器を確保するため、臓器が死んでしまわないうちに「売買」するための制度だった。 

 当時、脳死論争が盛んで、ぼくも思想家で革命家のいいだももさんに呼びかけられて参加したある市民グループで、脳死をめぐる研究会に出席したことがある。その研究会で聞いた生物学者の池田清彦さん(確か池田清彦さんだったが、古い話で確信がない。池田さん、間違っていたらごめんなさい)の話がめっぽうおもしろかった。

 池田さんは死の定義について話した。「死体が腐ったら死」というのがもっとも死に近い死で、もっとも生に近い、というか生きているかもしれない死が「脳死」で、その間にいくつもの死がある、という話だった。そうするとゾンビとかドラキュラは生きているのか死んでいるのか、などととりとめのないことを考えながら聞いていた。話を聞いたあと、池田さんの著書『脳死臓器移植は正しいか』(現在角川ソフィア文庫所収)を読んだ。歯切れがよく、とても刺激的で、池田さんの主張のひとつひとつが腑に落ちた。

 池田さんの話を聞きながら、かなり生々しく思い出したことがある。カリブの島国ハイチで軍事政権を掌握していた将軍が追放され、米国に亡命していた民選大統領が呼び戻された直後の1994年のことだった。米国の元大統領カーターが亡命大統領の復帰に尽力したのか、街中の建物の壁には「くそったれカーター」などと乱暴に書かれ落書きがあふれていた。

 ハイチに行ったのは新政権が土地改革など民主的改革をめざしているので日本の農地改革の経験を話してほしいと、中米政治の専門家である専修大学の狐崎知己さんに声をかけられたのが発端で、アフリカから強制的に連れてこられた奴隷が作り上げた国である、ということ以外何も知らないまま、好奇心に駆られて飛行機に乗った。早朝、地方に行くために車で移動していた時、前方に足を投げ出して道路脇で寝ている人物がいる。酔っ払ってそのまま寝込んだのだな、などと気軽に考えていたら、なんと首がない死体だった。わずか一週間の滞在中、そんな死体に二つ出会った。

 ハイチはカソリックの土地だが、その深層に故郷アフリカ渡来の民衆宗教であるブードゥー教が存在し、人びとの精神世界に影響力をもっている。精霊信仰であるブードゥー教は死者のよみがえりという観念もあり、よみがえりをさせないために首を落とすのだという説明を受けた。政権を追われた将軍は私兵を率いて潜っていて、こうやって暗殺に精を出しているのだということだった。生と死の境界があいまいなのは日本でも同じで、幽霊とか怨霊、もののけは生と死の間を自由に行き来している。死とはかくもあいまいなものである。それを臓器という商品を入れ込むことで、「脳死」という定義をつくり、いのちを商品にした。

◆生と死の境界は経済が決める

 しからば生についてはどうか。生命倫理の研究者による『先端医療と向き合う』(平凡社新書)は「人はいつ生まれるか」という問いかけから始まる。古来、お母さんのお腹からでてきて「おぎゃあ」と泣いたとき、人は生まれた。話をややこしくしたのは体外受精が実用化されてからである。1970年代、「女性の体内の奥深くで始まる人間の命が、体の外で精子と卵子を受精させて、培養皿の上でつくられるようになった」。しかもこうしてつくられた受精卵(胚)は凍結保存され、不妊治療だけでなく再生医療などの資源(モノ)としても使われる。

 こうしていのちの誕生は生殖ビジネス、つまり経済行為と化した。カソリックの教義は受精の瞬間から人のいのちが始まるとしていると著者は書いている。そこで「14日ルール」というのが作られた。受精して14日を過ぎると胚に全身の構造がつくられる。そこで、受精卵は単なる細胞の塊から人間になるとみなしたのである。

 ということは、14日以前なら受精卵は単なるモノとみなしてよいということになる。著者は「(14日ルールは)ヒトの体外受精卵の研究利用を可能にするために編み出された便宜的な線引きで、その意味で政治的な価値判断だった」と書いている。いま国際標準となった「14日」をさらに延長し、体外受精卵をさらに使いやすくしようという動きが活発化しているという。

 こうして生も死も万能の神「経済」が差配する時代になった。生と死の境界は経済効率、つまりどちらが金が儲かるかで決められる。怨霊やもののけやゾンビやドラキュラが活躍した曖昧模糊とした世界とは別の意味のあいまいさの中に、私たちは生きている。金儲けに科学的正確さも精神的気高さも求めようがないのだ。

 コロナが提起したことのひとつに「いのちの選別」という問題がある。高齢者や重い持病持ちや障がいがあるものから順に生命維持の機器がはずされた。人びとは暗黙のうちにそれを受け入れた。

 コロナは、これまで人間がつくってきた嫌なことをすべてさらけ出した。さてこれが吉と出るか凶と出るか。

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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