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税関記念日 今も新潟に残る税関所と政府直轄の新潟測候所

饒村曜気象予報士
旧新潟税関(令和3年(2021年)10月に筆者撮影)

新潟港の発展

 寛永8年(1631年:寛永10年という資料もある)の越後の大洪水により加茂屋掘が決壊し、阿賀野川の水が信濃川の最下流部に流れ込むようになりました。

 このため、両河川から多量の水の流入により、新潟港は水深が深くなって良港に変わり、北前船などの入港で大繁盛します。

 しかし、享保16年(1731年)の雪解け洪水で、阿賀野川本流が直接日本海に流れるようになり、信濃川の最下流部は、阿賀野川の水が多量に流れ込まなくなったことから水量が減少し、中州が出来やすくなっています。

 天保14年(1843年)、日本海に外国船が出没するようになったので、海防の拠点として新潟が長岡藩の外港から幕府直轄になっています。

 幕末の嘉永7年(1854年)に結ばれた日米和親条約によって日本の鎖国は終わり、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商条約が調印されています。

 そして、同じ年にオランダ(7月)、ロシア(7月)、イギリス(7月)、フランス(9月)と修好通商条約を締結しています。

 新潟は、神奈川、兵庫、長崎、函館と共に開港5港の一つになりますが、実際に新潟港が開港したのは、予定よりかなり遅れた明治元年11月19日(1869年1月1日)です。

 これは、北越戊辰戦争の影響もありましたが、主たる理由は、水深が浅くて大型船が入港できないことから各国が難色を示していたためです。

 このため、佐渡の夷港(両津港)を補助港とすることで合意しての開港となりました。

 開港後は、日本海では唯一の開港港として、明治になり盛んになった北洋サケマス漁業の基地として発展を続けました。

新潟税関

 新潟より先に開港した長崎、神奈川及び箱館(函館)の港には、安政6年(1859年)から「運上所」が設けられ、今日の税関業務と同様の輸出入貨物の監督や税金の徴収といった運上業務や、外交事務を取り扱っていましたが、新潟に運上所ができたのは明治2年(1869年)のことです。

 明治5年11月28日(1872年12月27日)、運上所は「税関」と改められ、ここに税関は正式に発足しました。

 税関記念日が11月28日の所以です。

 新潟運上所も新潟税関と改められましたが、当時の建物は、昭和41年(1966年)まで実際の税関業務に使用されていました。

 そして、その建物は現在も残っており、平成16年(2004年)から新潟市歴史博物館として公開されています(タイトル画像参照)。

 明治政府は、殖産興業のため、国立銀行条例を作り、その立案にあたった渋沢栄一は、官を辞して民間に移り、明治6年(1873年)に日本最古の銀行である第一国立銀行を作っています。

 NHKの令和3年(2021年)の大河ドラマ「青天を衝け」で描かれている通りです。

 次いで、横浜、大阪、新潟、大阪に国立銀行の免許が出たのですが、大阪の第三国立銀行は発起人の対立で設立できず、当初は、第一国立銀行(東京)、第二国立銀行(横浜)、第四国立銀行(新潟)、第五国立銀行(大阪)の4行が設立されました。

 国立銀行は、民間資本の株式会社でしたが、国立銀行条例により金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権をもっていました。

 なお、これらの銀行は吸収や合併などをへて、第一国立銀行はみずほ銀行、第二国立銀行は横浜銀行、第四国立銀行は第四北越銀行、第五国立銀行が三井住友銀行となっています。

 また、第三国立銀行は免許を買った東京で設立となり、みずほ銀行につながっています。

 新潟は、明治初期には東京、横浜、大阪とならぶ経済の中心だったのです。

直轄測候所

 明治10年(1877年)1月、明治政府の行政整理のため、内務省地理寮が地理局に改称となり、地理寮測地課の気象係(後の気象庁)は、正戸豹之助、下野信之、馬場信倫の3名に減らされています。

 そんなスリム化の中、内務卿の大久保利通は、地理局長の杉浦譲の議をいれ、「五か所の気象測量場を設立し、風濤(ふうとう)の変を予知し、難波の惨を予防すべし」という申請書を三条実美太政大臣あてに提出しています。

 この申請書は、これまでの農業のための気象観測(統計的な利用)に加え、海難防止のための気象観測(即時的に利用)を目指すというものです。

 そして、気象測量場設置の地点として、すでに電信線の開通している5か所を指定しています。

 具体的には、明治11年に長崎(1878年)、12年(1879年)に兵庫と青森、13年(1880年)に仙台と新潟というものでした。

 しかし、明治11年(1878年)に正戸豹之助が長崎に派遣されて長崎測候所(現在の長崎地方気象台)ができましたが、予算難等から計画が遅れています。

 政府は、各府県に対して依頼した測候所設立についても、北海道開拓史、広島県、和歌山県、京都府が応えたに過ぎませんでした。

 長崎に次ぐ中央政府直轄の測候所が出来たのは、馬場信倫が新潟に派遣されて新潟測候所(現在の新潟地方気象台)を、下野信之が仙台近くで建設中の野蒜港に派遣されて野蒜測候所(現在の石巻特別地気象象観測所)を作った明治14年(1881年)のことでした。

馬場信倫によって新潟医学校町通りに作られた新潟測候所は、気象官署としては10番目ですが、直轄測候所としては2番目ということになります。

 新潟は、それだけ海難防止のための気象観測(即時的に利用)の重要地点だったのです。

 その後、新潟測候所は明治24年(1891年)に新潟市旭町に移転し、大正15年(1926年)には西船見町に移転しています。

 新潟税関のご近所に移転したのです(図)。

図 昭和6年(1931年)の信濃川河口と新潟市の気象官署の移転、および、新潟税関の位置
図 昭和6年(1931年)の信濃川河口と新潟市の気象官署の移転、および、新潟税関の位置

 ただ、新潟測候所は、大正11年(1922年)に通水した信濃川の大河津分水によって激しくなった海岸浸食で危険になったため、昭和12年(1937年)に下所島に移転していますので、11年のご近所でした。

図の出典:「饒村曜(平成23年(2011年))、忘れられた海洋観測船「古志丸」と、黎明期の空港をささえ海に消えた「新潟測候所」、海の気象、海洋気象学会」をもとに、筆者加筆。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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