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新元号「令和」 自然災害が多いが戦争のなかった「平成」

饒村曜気象予報士
【激動の戦後昭和史】 新元号「平成」 (1989年1月7日)(写真:Fujifotos/アフロ)

新元号の決定

 平成31年(2019年)4月1日、政府は閣議で新元号を「令和」と定め、皇太子さまが天皇に即位する5月1日に改元することとしました。

 最初の元号である「大化(645年から650年)」から、1300年余りの歴史の中で248番目の元号ですが、これまでの中国古典からの引用ではなく、初めて国書である「万葉集」から採用されました。

 万葉集は、7世紀後半から8世紀後半に編纂された日本最古の和歌集で、天皇陛下など身分の高い人から一般庶民までの歌が4500以上も集められています。

 政府によると、万葉集の梅の花の歌の序文、

 「初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(きよ)く風和らぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」

から引用とのことです。

平成の主な自然災害

 平成も残り30日をきりました。

 平成は久しぶりに戦争がなかった時代ということができます。

 戊辰戦争の「慶応」、日清戦争と日露戦争の「明治」、第一次世界大戦の「大正」、太平洋戦争の「昭和」と大きな戦争が続きました。

 しかし、戦争がなかったものの自然災害が多かった時代ということもできます(表)。

表 平成の主な自然災害
表 平成の主な自然災害

 「平成」は、防災活動の進展によって、昭和期に頻繁に発生した、台風によって1000人以上がなくなるという甚大な被害はなくなりましたが、台風によって100人近い死者が発生することが少なからずありました。

 また、地震により2万人がなくなるという巨大災害もありました。   

 加えて、活発な経済活動を背景に、災害による経済損失はどんどん増える傾向にあります。

 「令和」は、こんどこそ自然災害も少ない時代になればと思います。

新元号の始まりは

 「令和」が閣議決定されたのは4月1日ですが、改元の施行は1か月後の5月1日で、「踰(ゆ)月改元」です。

 しかし、最近では珍しいことです。

 「平成」は、昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、7日に閣議決定で改元が決まり、翌日から「平成」となっています。「翌日改元」です。

 これに対し、「大正」と「昭和」は天皇が崩御された日に改元の詔勅がだされ、崩御された日が改元日でした(即日改元)。

 しかし、その前は、改元が布告された年は、1月1日まで遡っての改元でした(図)。

図 新元号の始点
図 新元号の始点

 明治元年9月8日(1868年10月23日)の行政官布告では、慶応4年を明治元年とする立年改元でした。

明治に改元する行政官布告(アンダーラインは著者)
明治に改元する行政官布告(アンダーラインは著者)

 改元が多くの人に伝わるのに時間がかかった「明治」以前、ラジオや新聞などで多くの国民が瞬時に知ることができるようになった「大正」から「昭和」、コンピューターネットワークが広く使われ、改元に伴うプログラム改修等に多くの時間がかかるようになってきた「平成」と「令和」。

 時代とともに改元に対する考えかたが変わっていることの反映の一つが布告と施行の時間差です。

 「令和」の次の元号は、プログラム改修に時間がよりかかるようになって踰年改元になるかもしれません。

 あるいは、割りきって立年改元になるかもしれません。

嘉永に発生したのに安政南海地震

 嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に東海地震が発生し、安政東海地震と呼ばれました。

 また、翌日の11月5日(12月24日)に南海地震が発生し、安政南海地震と呼ばれました。

 嘉永年間に発生したのに安政が地震名についているのは、嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に安政と改元したからです。

 黒船来航や地震など理由にした改元は、1月1日に遡って施行のため、嘉永7年そのものがなくなったからです。

図の出典:著者作成。

表の出典:気象庁ホームページより著者作成。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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