今冬はエルニーニョ現象で暖冬 予報に勝海舟の貢献
暖冬予報
気象庁が9月25日に発表した寒候期予報では、今年、平成30年から来年の冬は、北日本で平年より気温が高い暖冬を予想しています。また、10月24日に発表した3ヶ月予報でも、同じような予報をしています(表1)。
気象庁の暖冬予報の根拠に、地球全体にわたって大気の温度が高いことに加え、インドネシア東海上の海面水温が平年より高くて積乱雲の発生が多いと予想されることがあります。
多量の積乱雲による上昇気流で上空に運ばれた空気は、その北側の高気圧を強めて、日本上空の偏西風を北に押し上げ、日本付近には北からの寒気の流れ込みが弱くなることから、暖冬予報です(図1)。
エルニーニョ現象の発生
太平洋東部の熱帯域では、貿易風と呼ばれる東風が常に吹いているため、海面付近の暖かい海水が太平洋の西側に吹き寄せられていますが、エルニーニョ現象が発生している時には、東風が平常時よりも弱くなり、西部に溜まっていた暖かい海水が東方へ広がるとともに、東部では冷たい水の湧き上りが弱まっています。
このため、太平洋赤道域の中部から東部では、海面水温が平常時よりも高くなり、積乱雲が盛んに発生する海域が平常時より東へ移ります。そして、エルニーニョ現象が発生していると、日本付近は冬型の気圧配置が弱まり暖冬になるとされています(図2、図3)。
気象庁が、11月9日に発表した「最近のエルニーニョ監視速報」では、平成28年(2016年)以降、約2年ぶりにエルニーニョ現象が発生したとみられ、来年の春にかけてエルニーニョ現象が続く可能性が高いとしています。
そして、エルニーニョ現象発生時の冬(12月~2月)の天候の特徴として、「東日本で平均気温が高い」、「東日本太平洋側で、日照時間が平年並みか少ない傾向」が挙げられるとしています(図4)。
海が大気に及ぼす影響は多大なものがありますが、その研究が始まったのは近年のことです。
超大型計算機で大気や海の様子を計算することができ、季節予報の精度が上がり始めましたが、ネックは観測データの不足です。特に海のデータの不足は深刻です。
昭和36年(1961年)からは世界気象機関(WMO)により世界的に統一した方法で観測データを収集・蓄積するシステムが構築化され、それ以降の観測データはコンピュータで扱えるよう、随時電子化(デジタル化)されていますので、問題は昭和35年(1960年)以前についてのものです。
地球温暖化が人類最大の問題に浮上してくると、長年にわたって蓄積された観測資料は、観測していた当時には考えられない価値あるものにかわっています。
商船等では、昔から安全に航海を続けるために観測を行い、それを記録することが行われていましたが、航海が終われば不要のものと考えられていました。これを集めて調査しようという国が無かったわけではありませんが、戦争や災害などにより長期間にわたる保存には至っていないからです。
しかし、日本には昔の船の観測データが多量に残されています。
それは、幕末から明治にかけて活躍した勝海舟の多大な貢献があります。
明治政府は幕府海軍の人材を活用
嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリー提督が率いる4隻のアメリカ合衆国海軍が江戸湾入口の浦賀に来航し、日本は幕末と呼ばれる動乱時代に突入しました。徳川幕府では海軍を強化するため多くの軍艦を購入するとともに、勝海舟、榎本武揚、荒井郁之助、小林一知などの人材を育てています。
大政奉還直後の慶応4年1月3日(1868年1月27日)の鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、新政府軍(官軍)が幕府側諸藩の城を攻略しながら勢いを増して東へ進む展開となり、勝海舟が官軍の司令官・西郷隆盛と会談を行ったことから江戸城が無血開城となります。
これに不満の榎本武揚を主将とする幕府軍は、荒井郁之助が指揮する「海陽」や「咸臨丸(艦長は小林一知)」など、8隻の艦隊に分乗して蝦夷(現在の北海道)を目指します。
しかし、勝海舟艦長の指揮下で日本初の太平洋横断をした「咸臨丸」は、蝦夷に向かう途中の鹿島沖で台風に巻き込まれて難破し、当時日本最強の軍艦「開陽」は北海道江差沖の日本海で冬の暴風雨のため沈没するなど、無敵を誇った幕府海軍は、自然の猛威の前に戦わずして敗れています。
函館戦争後、明治新政府は、敵方の幕臣であっても有用な人材は抜擢して起用しています。
勝海舟は海軍卿(海軍大臣)として海軍の創設にかかわり、榎本武揚は伊藤博文初代総理大臣のもとで逓信大臣などに抜擢されます。
また、荒井郁之助は初代、小林一知は2代の中央気象台長(現在の気象庁長官)になって気象事業を発展させます。
近代的な船は気象観測結果を報告せよ
明治7年(1874年)に海軍卿であった勝海舟は、諸官庁や民間が保有する近代的な船は気象の観測を行い、その結果を海軍省水路寮に報告すべしという内容の太政官通達を出しています(表2)。
日本近海の海や大気の様子を分析し、安全な航海をするための基礎資料とすることを考えたのですが、この太政官通達で、日本の船は気象や海の観測を行い、気象機関に報告するのが義務という大きな流れができます。
多くの国では、このようなことが行われず、「ボランティア シップ」という、船舶側の慈善行為による報告です。船舶側は、気象や海の観測を気象機関に報告することで予報などの精度が高まり、結果的に利益を得るということがわかるにつれ、報告する船舶は増えていますが、最初から義務であった日本とはスタート時点で大きな差があります。
この船舶からの気象観測をあつめ海上気象の調査をしようという業務は、財政緊縮のために行われた大規模な行政改革で、明治21年から荒井郁之助が率いる中央気象台に移管されます(表3)。
大正9年(1920年)に神戸に海洋気象台(現在の神戸地方気象台)が誕生すると、この業務は海洋気象台が引き継ぎ、中央気象台に保存されていた船舶からの報告は全て神戸に送られます。
中央気象台の大部分は大正12年の関東大地震で焼失していますので、きわどいところでした。
また、昭和20年(1945年)の神戸空襲では、神戸海洋気象台が焼け落ちていますが、船舶からの報告は田舎に疎開させてあって無事でした。
こうして、日本には、「神戸コレクション」と呼ばれる、日本の商船等で観測報告された海上気象観測表約680万通が残っています。そして、地球温暖化等の研究に使いやすいように数値データ(デジタルデータ)に変換されています(図5)。
第一次大戦のあった大正3年(1914年)以降は、欧州諸国の海上気象資料が戦火の影響で極端に少なくなっているため、「神戸コレクション」の気候変動や地球温暖化の研究への貢献は多大なものがあります。
エルニーニョ現象が20世紀の最初からあり、20世紀後半には、より顕著になっていることが分かったのは、「神戸コレクション」があったからです(図6)。
現在の状況は現在でしか観測できません。あとで必要になっても入手できません。「神戸コレクション」は、現在すぐに役に立たたなくても、現在の状況を正確に記録して後世に残すことの重要性を示す一つの例となっています。
その意味からも、勝海舟の先見の明には感心します。
図1、図2、図3、図4の出典:気象庁ホームページ。
表1の出典:気象庁ホームページをもとに著者作成。
図5、表2、表3の出典:饒村曜(平成22年(2010年))、海洋気象台と神戸コレクション 歴史を生き抜いた海洋観測資料、成山堂書店。
図6の出典:気象庁資料。