全国的に梅雨のような天気、九州・四国は梅雨入り オホーツク海高気圧が重要とした岡田の台風論
修正:気象庁は5月28日11時に九州北部と四国の梅雨入りを発表しましたので、5月28日5時発表の記事を一部修正します。
今週は梅雨のような天気だが梅雨入りなしか
5月から6月になると、低温多湿のオホーツク海高気圧が発達し、高温多湿な太平洋高気圧(小笠原高気圧)との間に前線をつくるようになり、それまでに比べて雨が多く、日照が少ない季節現象が始まります。
これが梅雨前線であり、前線が停滞することで、梅雨となります。
現在、梅雨入りしてるのは、5月7日に梅雨入りした奄美地方と、翌8日に梅雨入りした沖縄地方、少し遅れて5月26日に梅雨入りした九州地方南部、そして、5月28日に梅雨入りした九州地方北部と四国地方です。
九州地方南部を梅雨入りさせた前線が南下し、移動性高気圧に覆われて晴れのところが多くなったのですが、今週は、北日本から西日本にかけては、低気圧(気圧の谷)や前線の影響で曇りの日が続き、雨の降るところもあります(図1)。
梅雨のような天気になるのですが、週末に晴れることから、今週は梅雨入りしない地方もありそうです(図2)。
ただ、今週末の晴れのあとは曇りや雨の日が多くなり、このタイミングで多くの地方は梅雨入りしそうです。九州地方北部と四国地方の梅雨入りの平年値は6月5日、中国・近畿地方が6月7日、関東・東海地方では6月8日ですので、平年よりは若干早い梅雨入りになるかもしれません。
岡田の梅雨論
日本の梅雨は、世界的にも特異なもので、明治初期から内外の学者が研究していますが、十分な説明ができませんでした。
それが、大きく発展したのは、明治43年(1910年)8月に岡田武松が中央気象台欧文報告に「On the Baiyu or Rainy Season(梅雨論)」を発表してからです。
後に日本気象学の父と呼ばれる岡田武松は、明治32年(1899年)に東京帝国大学理科大学物理学科を卒業すると中央気象台に就職しています。
明治37年(1904年)年に予報課長(兼臨時観測課長)になっていますが、日露戦争が始まった頃で、中国大陸には気象観測所が続々と作られ、気象観測データが集まりだした頃です。明治38年(1905年)5月27日の日本海海戦では、岡田武松の予報文「天気晴朗なるも波高かるべし」の通りの天気となり、勝利に貢献したとして勲章を賜っています。
豊富になった中国大陸の観測データなどを用いて綿密な解析を行った結果が明治43年(1910年)8月の梅雨論で、梅雨はオホーツク海高気圧の役割をはじめて重視しています。
なお、現在につながる梅雨論により、岡田武松は明治44年(1911年)2月に理学博士の学位を授けられています。また、梅雨論は海外からも評価され、大正13年(1924年)にイギリス気象学会から「サイモンズ賞」を受けています。
気象観測がようやく中国大陸まで広がった時代、高層の気象観測が始まっておらず、上空に強い風が吹いていることなど想像だにできなかった時代の岡田の梅雨論です。
はるかに乏しい観測データの中から、本質的なことは押さえたという意味で、すごいと思います。
梅雨は岡田武松の考えより広い範囲の現象
梅雨は日本付近だけの現象ではなく、アジア全体の現象の一部で、上空に吹いている強い風(ジェット気流)とも関係しています。
ジェット気流には高緯度にある寒帯前線ジェット気流と、寒帯前線ジェット気流よりは低緯度にある亜熱帯ジェット気流の2種類があります。
このうち、亜熱帯ジェット気流は、冬は低緯度にありますが、暖かくなるにつれて北上し、梅雨期になると平均高度4500メートルのチベット高原にぶつかります。
このため分流され、一方はチベット高原の南側、中国華南、日本の南海上を通って日本の東海上に、もう一方は北側をまわり、寒帯ジェット気流と合流して強化され、中国東北部を通って日本の東海上に達します。
上空で亜熱帯ジェット気流が合流するところでは、集まった空気が下降気流に転じ、梅雨の主役であるオホーツク海高気圧が発達します。
そして、亜熱帯ジェット気流がさらに北上し、分流がなくなれば、オホーツク海高気圧も弱まり、梅雨明けになります(図3)。
図1、図2の出典:気象庁ホームページ。
図3の出典:饒村曜(平成28年(2016年))、天気と気象100、オーム社。