Yahoo!ニュース

瓦礫や流氷などの固形物は津波(津浪)被害を拡大させる

饒村曜気象予報士
凍てつく海(ペイレスイメージズ/アフロ)

 津波(津浪)は、風浪などの波と比べれば破壊力が格段に大きく、大きな被害が発生します。

 この津波に固形物が混じると、さらに破壊力が増し、被害がより拡大します。

押しより引きが危険

 津波が海から押し寄せくるとき、沿岸部にあった小型船や材木などの固形物を巻き込んで襲来するときは、海水のみが襲来するときよりも破壊力が増し、被害が大きくなります。

 これに対し、押し寄せた津波が海へ引くときは、押し寄せる津波に含まれていた固形物の大部分に加え、建物の瓦礫等が混じります。このため、押しよりも引きのほうが、はるかに多くの固形物を含むことから、より危険です。

 海に流氷等、固形物が大量にある場合は、押し寄せる津波でも危険です。昭和27年(1952年)の十勝沖地震のとき、北海道東部の浜中村(現在の浜中町)霧多布を、流氷や海氷が混じった津波が襲いました。

世界で一番低緯度の流氷

 地球の海のうち、南極や北極に近い極地方を中心に1割の海が凍っています。陸続きに接岸して動かない海氷を定着氷、岸から離れて漂っている海氷を流氷といいますが、海氷のほとんどは流氷です。

 世界で一番低緯度にある流氷は、オホーツク海南部のものです。11月には北緯55度位に位置するシャンタル諸島周辺から結氷をはじめ、サハリン島の海岸線に沿って結氷域が拡大、3月にはオホーツク海の8割が凍ります。また、流氷は宗谷海峡からの日本海北部に流出したり、根室海峡などを通って太平洋に流出し、霧多布や襟裳岬など北海道南東部に接近・接岸することがあります。

昭和27年の十勝沖地震

 北海道の十勝沖では、マグニチュード8前後の地震が、約60~80年間隔で発生しています

 昭和27年(1952年)3月4日午前10時22分に発生した十勝沖地震は、マグニチュード8.2、北海道の池田町と浦幌村(現在の浦幌町)では震度6を観測しました(図1、当時は震度6強と6弱に細分されていません)。北海道から東北北部では、揺れや津波などで、死者・行方不明者33人、住家被害8500棟、流出・浸水400棟などの被害が発生しました。

図1 昭和27年十勝沖地震の震度分布(気象庁発行の「気象庁技術報告」より)
図1 昭和27年十勝沖地震の震度分布(気象庁発行の「気象庁技術報告」より)

 津波は、北海道では3メートル前後、三陸沿岸でl~2メートルでした。

 津波の被害が大きかったのは、震源地に近い十勝や日高の沿岸ではなく、少し離れた陸と島を繋ぐ幅300メートル、高さ4メートル弱の低地に町が広がっていた北海道浜中村霧多布です。これは、霧多布を襲った津波は、海氷や流氷が混じっていたためです。

 海氷や流氷が混じった津波の第一波と第二波では大きな被害がなかったものの、第三波で一部の家が倒壊し、第四波で60%の民家が浜中湾に流され、壊滅的な被害が発生しています(図2)。

図2 十勝沖地震による霧多布の津波被害(気象庁発行の「気象庁技術報告」より)
図2 十勝沖地震による霧多布の津波被害(気象庁発行の「気象庁技術報告」より)

暴威振った流氷

霧多布 一瞬津波にのまる

【浜中にて佐藤記者発】十勝沖地震による津波で最も深刻な被害を受け、全戸数六百戸の半数が流失または浸水した北海道厚岸郡浜中村霧多布は、打ち上げられた流氷が家屋に激突したため、家々の柱は折れ、戸には大きな穴があいて、目をおおうばかりの惨状である。

 五日午後になっても町の中央を走る道路には腰までつかるほどの冷たい海水の中に流氷の破片が浮かんでおり、さいはてのこの一寒村は冷酷な自然の圧力の下に、まだ復興への第一歩をふみだすだけの気力も取りもどしていない。

出典:朝日新聞(昭和27年(1952年)3月6日朝刊)

アメリカ軍機で北海道知事が現場上空へ

 浜中村役場は、地震翌日、3月5日の早朝に災害復旧対策本部を設け、北海道庁に対し、食料、寝具、衣料、薬品類の救援を求めていますが、同日正午頃、田中敏文北海道知事が乗った米軍機から毛布900枚が投下され、被災者たちを喜ばせています。

 北海道知事が米軍機で被災地に向かったのは、まだ、日本の占領政策が終わっておらず、アメリカを中心とした連合軍の占領下であったからです。

 日本政府が「サンフランシスコ講和条約」に調印したのは、昭和26年(1951年)9月8日、その発効は昭和27年(1952年)4月28日です。

 つまり、日本が独立したのは、十勝沖地震の約2ヶ月後のことです。

図1、図2の出典:気象庁(1969年)、気象庁技術報告第68号・1968年十勝沖地震調査報告。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

饒村曜の最近の記事