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阪神淡路大震災 交通網全滅の中での勤務継続

饒村曜気象予報士
阪神淡路大震災発生時の神戸海洋気象台における電磁式強震計の記録

 平成7年(1995年)1月17日5時46分に発生した兵庫南部地震は、神戸市と淡路島を中心に甚大な被害が発生しています。このため、震災名は、「阪神・淡路大震災」です。

全く機能しなくなった交通網

 兵庫県南部地震が発生したとき、私は、神戸海洋気象台(現在の神戸地方気象台)の予報課長をしていました。

 当時、神戸海洋気象台では、非常時には直ちに台長を本部長とする非常対策本部を設置し、総務課長と予報課長が自動的に副本部長につくことになっていました。

 非常対策本部長(台長)から副本部長の私(予報課長)に、予報や観測の当番のことは任せると言われたこともあり、安否確認と同時に、急いで駆けつけようとする職員に無理をして出勤しないように指示をだしました。

 調査業務や報告業務といった仕事を全て後回しにすれば、すでに駆けつけて来ている応援者だけでも、なんとか24時間先までの気象や地震の観測、天気予報や注意報の作成・発表といった現業業務を続けられると思ったからです。

 また、家の中を早く片付け、生活できる状況を作って、明日以後に出勤してくれたほうが、夜勤に続けて仕事をしている当番者や、家の中をほったらかしにして駆けつけてくれた応援者をいったん帰すことができると思ったからです。

 明日以降も現業勤務を続けるためには、全ての当番者を今の時点で集めない方が良いと判断しました。

 これらのことを考慮しながら、1月17日の日勤と夜勤の当番を組み替えました。

 しかし、兵庫県南部地震の状況が分かるにつれ、最初に思っていた以上に大変な事態に陥っていました。

 神戸と大阪を結ぶ新幹線や3本の鉄道(北から阪急、JR、阪神)は、地震によって全て不通となりましたが、その復旧の見込みは全くたっていませんでした。

 また、道路上に壊れた家屋等が散乱したことにより、通行可能な道路が極端に少なくなり、その少なくなった通行可能な道路に多くの車が殺到したため、大渋滞を引き起こし、18日以降は車での移動が不可能になっています。

 大阪管区気象台では、地震が発生すると直ちに神戸海洋気象台で観測を継続するために必要な機器などを積んだ支援の車を用意すると同時に、その間運転者を休ませています。そして、夕方から夜を徹して神戸に車を走らせています。

 地震が発生した17日は、何をすべきからわからない状態であったと思われ、18日以降に比べれば、車の通行量が少なかったのですが、それでも、普段なら、車を使うと1時間ほどで到着する距離でしたが、この時は、10倍の10時間で神戸海洋気象台に到着しています。もう少しあとの出発なら、何倍の時間をかけても到達できないという渋滞に巻き込まれたと思います。

無理をするなと無理をいい

 交通網の途絶は、当初考えた以上に長引きそうな感があり、今無理をすると、確実に神戸海洋気象台の防災機関としての機能がダウンし、結果として、大きな二次災害の発生が懸念されました。

 このため、予報課で一番のベテラン予報官の「長期間やるなら、地震発生前から決まっている従来の当番表をもとに、臨時の当番表を早く作ったほうが特定の人に負担が集中しないので、長続きする体制になるのでは。」とのアドバイスを入れ、非常事態用の当番表を約1ヶ月先まで作りました。

 地震により避難所暮らしとなった職員もいましたが、この当番表では、自宅もしくは避難所から通勤が不可能な人は待機、通勤が迂回路になるなど時間がかかりすぎる人は夜勤専門とし、夜勤を連続させて通勤回数を減らしました。また、通勤に支障がない人は日勤の回数を増やしました。

 当番表の上では、休日を組み入れるなど、勤務時間を考慮して作りましたが、結果的に、皆がこの時間をはるかに超えて働いています。特に、避難所からの通勤者は大変だったと思います。

 ただ、プレッシャーがかかる中心となる仕事を皆で分担したことが、長期間にわたって現業作業を維持できた理由の一つと思います。

 地震の2日後の1月19日に地震発生直後から言っていたことをまとめ、壁に貼りました。

注意事項(神戸海洋気象台非常対策本部副本部長)

ア 無理な頑張り等をしないように。

イ 職員の安全と家族の安全を優先して考えたいと思います。

(ア)体調が悪い場合は休んでください。

(イ)家族が心配な場合は家族を優先してください。

(ウ)交通機関が回復していないうちは無理な長時間通勤をしないで下さい。

(エ)オートバイによる通勤の場合は、交通安全に十分注意。昼間の移動にしてください。

ウ 従来の当番表をもとに、上記を加味し、次の当番表でゆきたいと考えていますが、変更等を遠慮なく申し出てください。

 ここで、無理な頑張りをしないように言いましたが、交通網全滅の中では、何をするのも長時間の徒歩移動をしいられ、皆がかなりの無理をしていました。

 小型バイクは、瓦礫が散乱している神戸の道路を、瓦礫を乗り越えながら進むことができましたが、道路上に何があるかわからない夜間の走行は事故がおきると感じたことから、夜間の移動は禁止にしました。事故がおきても、生死がかかっている人が優先されている神戸の街では、手足の骨折などは後回しにされたり、放置されても文句が言えない状況であったからです。

 当時の私は、「無理をするな」という無理を言ってばかりいました。

代替バスの運行は地震発生の6日後から

 大阪と神戸を結ぶ大動脈である3本の鉄道(阪急、JR、阪神)の代替バスが動き始めたのは、地震発生の6日後の1月23日(月)になってからです(図1)。

図1 平成7年(1995年)1月23日現在の主な鉄道の不通区間(点線部)
図1 平成7年(1995年)1月23日現在の主な鉄道の不通区間(点線部)

 しかし、代替バスが動き出したというニュースで、多くの人々が殺到し、バスもひどい交通渋滞に巻き込まれ、所要時間が不明という状態が長く続きました。

 代替バスでは、かなり時間がかかることだけは確実でしたので、大阪から神戸への通勤者は、1月21日に開通した福知山線を使って「三田」へゆき、そこから六甲山の北側を通る単線の神戸電鉄で「谷上」へ、さらに六甲山トンネルを走る北神急行で「新神戸」にでて、そこから歩くという超遠距離通勤をしています。

 これだと、バスの代替輸送に比べて時間が計算できるものの、「三田」などの乗換駅では、輸送力をはるかに超えた人が殺到して大混雑となっています。

臨時の航路と航空路

 陸上交通があまりにも混乱していたため、臨時に海の航路と空の航空路も開設されました。

 旅客船の臨時航路として開設されたのが、「神戸の高浜(ハーバーランド)と大阪の天保山間」、「神戸のメリケンパークと明石間」、「神戸のメリケンパークと姫路間」です。

 地震のため、満足に使える建物がなくなっていた港周辺では、トイレを切符売り場とするなど、間に合わせの工夫が随所にみられました(図2)。

図2 臨時赤石行きフェリーの切符売り場として使われた神戸・メリケンパーク内の男子用トイレ
図2 臨時赤石行きフェリーの切符売り場として使われた神戸・メリケンパーク内の男子用トイレ

 また、臨時の航空路として岡山空港と大阪空港間が開設されました。

 気象台関係者で臨時航路を通勤に使った人はいなかったと思いますが、姫路に住んでいた大阪航空測候所職員は、いったん西の岡山空港に向かい、そこから職場に飛行機で飛んで仕事をしています。

 普段では、考えられないことが起きていました。

交通機関の復旧状況

 交通機関の復旧は、少しずつですが、確実に進みました(図3)。

図3 交通機関(阪急、JR、阪神)の復旧状況(図中の点線が主な代替バス区間)
図3 交通機関(阪急、JR、阪神)の復旧状況(図中の点線が主な代替バス区間)

 地震から75日目の4月2日、JRの灘と住吉間が復旧し、大阪と神戸間が鉄道でつながりました。そして、阪急は6月12日、阪神は6月26日に全線開通となりました。

 関係者の努力により、地震直後の見込みより大幅に早い開通でした。

 気象台では、阪神淡路大震災がありましたが、気象や地震の観測や天気予報、注警報の発表などの業務を、全て通常通りに行うことができました。これは、交通網全滅の中で、苦労して勤務を続けようとする職員及びその家族の努力の結果です。

 避難所で職員を送り出した家族が、回りの人から「大事な仕事を頑張っているんだね」といわれたと聞きましたが、職員と家族だけでなく、その回りにいる人も含めての努力の結果と思います。

 気象台以外でも、同様のことが行われていたと思います。

 普段ではなんでもないことでも、ものすごい努力を伴って普段通りの仕事が遂行され、これらの積み重ねが、地震からの素早い復興につながったと感じています。

 阪神淡路大震災のとき、特別な仕事はおろか、普段通りの仕事をすることでも、ものすごい努力があったことは、風化させてはいけないと思います。

タイトル画像、図1、図2、図3の出典:饒村曜(平成8年(1996年))、防災担当者の見た阪神・淡路大震災、日本気象協会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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