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飛行機による初の世界一周と和歌山県の「串本節」

饒村曜気象予報士
夜明けの串本(ペイレスイメージズ/アフロ)

「フライヤー1号」から「ダグラスDWC」

 初めて自力で飛び上がり、操縦の出来る飛行機「フライヤー1号」がライト兄弟によって初めて飛んだのが1903年(明治36年)12月17日です。初めて自力で飛び上がり、操縦が出来たのですが、たった12秒(37メートル)の飛行でした。

 以後、飛行機は発展をとげ、1914年(大正3年)に始まった第一次世界大戦では、飛行機は兵器として使用され急速に発達し、航続距離ものびていろいろな方面で使われるようになります。

 中には、世界一周飛行を行い、それを宣伝に使おうとする会社が現れます。それが、1921年(大正10)年7月にドナルド・ウィルズ・ダグラスによって米カリフォルニア州サンタモニカで設立されたダグラス社です。

 ダグラス社は、アメリカ海軍向けに雷撃機(魚雷を積んで船舶を攻撃する飛行機)を製造していましたが、海軍に納入していたダグラスDCー2を改良し、燃料タンクを大きくして2人の乗員の席間隔をつめた「ダグラスDWC(Douglas World Cruiser)」(表)を、5機作っています。このうち、1機は試作機で訓練用に使われました。

表 「ダグラスDWC」の仕様
表 「ダグラスDWC」の仕様

 「ボストン」、「シカゴ」、「ニューオリンズ」、「シアトル」と都市名が付けられた4機の「ダグラスDWC」は、 1924年(大正13年)4月4日にシアトル海軍基地を、車輪の代わりにフロートと呼ばれる浮きを付けた状態で出発しています。

 当時は、飛行場の数が少なかったために、海や湖に着水することが多かったためです。

 フロートと車輪を適宜交換しながら、世界一周を行い、2機がリタイアしたものの「シカゴ」と「ニューオリンズ」の2機が出発点のシアトルに戻ってきたのが9月28日です。

 飛行機による初の世界一周は、出発から175日間、69箇所に寄港し、4万4342キロメートルの飛行でした(図1)。

図1 飛行機による初の世界一周の経路
図1 飛行機による初の世界一周の経路

 そして、この偉業は、思惑通りダグラス社を大きく発展させます。このため、会社のマークには、地球を回る飛行機が使われました。このマークには、飛行機が3機描かれていますが、これは、最後のアメリカ国内の飛行は、試作機が「ボストン2号」として、世界一周の2機をサポートするために参加したことからです。

 その後、ダグラス社は、マクドネル・ダグラス社をへて、1997年(平成9年)にボーイング社に吸収され、ダグラスという名前は消えています。しかし、ダグラス社のマークは、ダグラス社はなくなっても、合併した会社のマークのコンセプト「地球をまわる飛行機のイメージ」に引き継がれています。

串本への飛来と出発は綱渡り

 航空機の研究を行うため、日本海軍は、1920年(大正9年)に茨城県の霞ヶ浦に面した場所(現在の茨城県土浦市)に飛行場を作っています。

 世界一周飛行中の「ダグラスDWC」は、5月17日にパラムシル(北千島)、19日にヒトカップ(南千島)、22日に湊(現在の青森県八戸市)に寄港し、22日のうちに霞ヶ浦に到着しています。

 しかし、和歌山県の串本町への寄港は6月1日と、霞ヶ浦に到着した日の10日後です。

 これは、5月24日に東シナ海で発生した低気圧(図2の丸1)が、発達しながら日本の南岸を通過したためで、とても飛べる状態ではなかったからです。

図2 低気圧の経路
図2 低気圧の経路

 急いで世界一周を目指している「ダグラスDWC」は、急いで次の寄港地に向かっており、次の寄港地まで一番長くかかったのは、事故があったアラスカや北大西洋を除くと、霞ヶ浦から串本までです。

 そして、霞ヶ浦から串本への飛行と、串本から鹿児島への飛行は綱渡りでした。

 というのは、九州の南海上から台風と思われる低気圧が北上し、6月1日の夜に紀伊半島に上陸しているからです(図2の丸2)。中央気象台は、2区(紀伊半島から九州南部)に対して、1日15時00分から2日15時55分まで「風雨強カルベシ」との気象特報を出して警戒を呼びかけました。

 「ダグラスDWC」は、低気圧によって風雨が強まる直前の6月1日11時40分に串本に飛来しています(霞ヶ浦を5時50分に出発)。そして、その夜の嵐を串本で避け、翌2日は風が弱まるのを待って12時50分に鹿児島へ飛び立っています。風が弱まってきたとはいえ、毎秒10メートル以上の風であったと思われますが、鹿児島まで約6時間の飛行を考えると、日没までに到着できるギリギリの出発でした。

串本節を有名にした飛行機到着の遅れ

 紀伊半島南端にある串本町は、潮岬が黒潮の中に突き出ており、その東側に、面積が約10平方キロメートルの紀伊大島があります。

 大島周辺は黒潮が分流して豊かな魚場となっていることに加え、大島の西にある大島港は、潮岬と大島によって暴風や高波といった自然の脅威から守られている天然の良港で、江戸時代から盛んとなった江戸と大阪を結ぶ航路では、風待ちや避難のための港として使われました。このため、紀伊大島には歓楽街が作られ、繁栄をしていました。

 飛行機で世界一周ということは、当時のビッグニュースであり、阪神地区の新聞記者やカメラマンは大挙して串本に押し掛けていましたが、飛行機の到着の遅れで、10日間もの長逗留を余儀なくされています。

 このため、手持ちぶさたの記者達を慰めようと、串本町長が宴会を開き、芸者衆が地元の歌と踊り(串本節)を披露したところ、これが大好評となっています。

 飛行機がくるまでの間に習い覚えた記者達は、無事取材を終えて各社に帰ったあと、宴会の余興で披露した人が多くでています。これを伝え聞いた、神戸の漫才師、砂川捨丸がレコードに吹き込み、巡業で歌ったことから、串本節が爆発的な全国人気を得ています。

 偶然が重なり、飛行機による初の世界一周が、和歌山県の串本節を全国的に有名にしました。

 

図表の出典:饒村曜(2008)、飛行機(ダグラスDWC)による初の飛行機による世界一周と飛行船(ツェペリン伯爵号)による初の世界一周、海の気象、海洋気象学会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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