明治時代の後期から増え出し、現在は重大な災害である塩風害
塩風による災害
多量の塩分粒子を含む風を塩風といいます。乾燥地帯などの塩類が集積した土壌から強風によって吹き上げられて発生することもありますが、ほとんどは強風により海面から海のしぶきが、空中で水分が蒸発することによって生じます。
海上から陸上に吹き込む強風によって運ばれた多量の塩分粒子は、植物に付着し葉を枯らし、樹木を枯死させるほか、送電線への付着事故による停電が発生します。これが塩風害と呼ばれる災害です。
塩風害は、発達した低気圧でも生じますが、大規模なものは台風によるものです。
台風の風速が強まれば強まるほど、海上と海岸線で発生するしぶきの量が多くなって海塩粒子が多量にでき、できた海塩粒子が海岸から離れた所まで(特に川の流れと風向が同じ、または正反対の場合は、川に沿って海岸からかなり離れた場所まで)運ばれます。
塩風害は、一般に風が強い時ほど発生しやすいといえますが、雨による洗浄の程度も大きく影響します。例えば、海からの強風が止んだあと、ある程度の雨が降ると、付着した塩分粒子がかなり洗い流されて塩風害が発生しにくくなります。
逆に強風のあと雨がないと、その後の霧や小雨が降った時に、付着していた塩分が水分を吸収して電気施設では短絡事故などの塩風害が発生しやすくなります。
塩風害を単に塩害と呼ぶことがありますが、本来の塩害は、海水が浸入して植物が枯れるなどの災害である塩水害も含んだものです。
昔の塩風害の記録
日本で台風による塩風害のことが最初に取り上げられた古文書は、瑠璃山年録残篇であるといわれています。瑠璃山の場所についてははっきりしていませんが、神戸海洋気象台の田口竜雄氏の推定によれば、静岡県磐田郡豊岡村敷地付近で、海岸から約20キロメートルの所です。
瑠璃山年録残篇には、正平11年8月14日(1356年9月17日)に「塩風吹」とだけ記載されているだけで、どのような被害が出たのかはわかりませんが、同じ日に近畿や東海道の諸国で大風雨がおこっているという他の文献があります。かなりの暴風域を持った台風が通過し、その結果として瑠璃山付近で塩風害があったものと思われます。
その後、享保10年7月27日(1725年9月4日)の山形県の塩風害や、文化3年閏8月4日(1816年9月24日)の東京から神奈川県にかけての塩風害についての記述が残されているのですが、その数はきわめて少ないものです。
つまり、塩風害が発生しても、他の被害に比べれば軽微な被害で、大きな社会問題にはならなかったからです。
明治30年と明治33年の塩風害
塩風害が注目されるようになったのは、桑などの塩風に弱い植物を海岸部でも植えるようになったり、数多くの電力施設が海岸部で作られたことにより、塩風害が社会問題となってきた明治時代の後期になってからです。
大正2年(1913年)の気象学会の機関紙「気象集誌」には「塩風に就いて」という朝倉慶吉氏の論文が載っています。この中で同氏は、明治30年(1897年)9月8~9日の台風と、明治33年(1900年)9月27~28日の台風によって起きた横浜地方の塩風害について論じ、塩風害についての調査が必要であると指摘しています。
明治30年(1900年)9月8~9日の台風は、九州の南海上から速い速度で北東進して静岡県に上陸した台風です(図1)。横浜地方は、風が最も強くなったのが9日の午前6時頃であるのに対し、雨はこの頃に止んだようで、雨は主として暴風の吹く前に降っています。そして、暴風の終息した後、樹木も風に面した側の葉は緑がうすれ次第に赤くなり、疏菜(そさい)は葉が第一にしぼんで枯れたといわれています。
静岡県では、富国強兵のために各地で植えられていた桑が大きな被害を受けています。横浜と同じように、静岡県でも、雨は主として暴風が吹く前に降っていたところが大きな塩風害を受けたと思われます。
静岡県では、明治33年(1900年)9月27から28日も、大きな塩風害が発生しており、被災者救済のための「潮風被害地々租特別処分法案」が衆議院に提出されています。
明治30年(1887年)9月の台風は、文明開化によってできた電灯線と電話線の被害が注目されています。新しいタイプの災害が初めて発生したのです。
明治30年(1887年)1月の大雪の時に、雪の重みで電柱が倒れるなどして電灯線と電話線が切れ、不通が長引いた教訓から、電話線を地中に埋めたり、電柱の補強をしていました。
電話線については、ある程度の効果があったのですが、電灯線については、強風で電柱が倒れたり、海岸部では塩分粒子が付着して電気設備が被害(塩風害)を受けての不通が繰り返されています。
塩風害の調査・研究が進んだ第二室戸台風
灯りだけの利用であった電気は、様々な使い方をされ、人々の生活の中で欠かせないものになってゆきます。電灯線という言葉は、電線という言葉に変わります。
多くの人が住む沿岸部で、多くの電気設備が作られると、塩風害の被害も拡大します。
塩風害に対する調査・研究およびその対策が、飛躍的に進んだきっかけは、昭和36年(1961年)9月の第二室戸台風によって引き起こされた大規模な塩風害です(図2:矢印は風向、数字は最大風速)。
近畿地方に暴風や高潮などで大災害をもたらした第二室戸台風ですが、雨の少なかった九州や東海、関東地方南部等では、電気施設の塩風害事故が広範囲におこっています。台風通過後何日かおいて、霧か弱い雨のときに事故がおこった所もありました。
大きな影響を与える塩風害
第二室戸台風以降、塩風害対策が進んだと言っても、ときどき塩風害が発生しています。
例えば、平成3年(1991年)の台風19号でも、強風による送電線の切断や塩風害などで、停電率は全国で13%、九州と中国では50%にも達しました。
塩風害対策として、防風林を植えたり、海岸から3キロメートル程度くらいまでは、ひだの深い耐塩がいしを用いたり、あるいは付着しそうな場所を避けて電気設備などを設置していました。しかし、平成3年(1991年)の台風19号は、海岸から50キロメートルまで塩分粒子を運んでいるため、このような大規模な塩風害が発生しました。
塩風害対策が進んで、めったに塩風害がおきなくなっても、一度発生すれば電化が著しく進んだ現代社会では、停電により生活は大きな影響を受けます。特に高層住宅に住んでいる人にとっては、停電が断水につながるため、特に深刻となります。
様々な災害対策がありますが、停電に対するものは非常に重要な対策です。
図1、図2の出展:饒村曜(2015)、塩風、気象災害の事典、朝倉書店。