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曇っていても飛行機で観測する体勢を作った昭和11年の皆既日食

饒村曜気象予報士
日食観測(ペイレスイメージズ/アフロ)

明治15年の国際極年観測にオブザーバー参加

国際極年観測というのは、オーストリアのヴァイプレヒト(C.Weyprecht)が、明治8 年 (1875年)に極地に観測点を環状に配置して科学的な同じ観測を行うことを提案したのが始まりです。

観測期間は、明治15年8月1 日から16年8 月31日で、17カ国が参加しています。

日本はこの観測に正式参加はしていませんが、フランスのべクレル (A.H.Becquerel)が、日本政府に対して、「この時期に日本でもこのような観測を行えば、科学の発展のために有益である」と勧告したことから、オブザーバー参加をしています。

期間中、農務省地質調査所は日本各地で地磁気の測量を行い、海軍水路部観象台では東京麻布飯倉の観象台構内で地磁気の継続観測を行っています。さらに、内務省地理局 (東京気象台)と工部省電信局も、共同で工部省のあった赤坂区今井町で地磁気の観測を行っています。

地磁気の観測は、国際極年の観測が終了したあとも、東京気象台構内での観測に引き継がれ、大正元年には、より一層の精密観測を行うために茨城県柿岡に場所を移転し、現在に至るまで継続して地磁気観測を行っています。そして、国際的にも重要な観測所となっています。

第2回国際極年

昭和4年 (1929) 9 月にデンマークのコペンハーゲンで開催された世界気象台長会議には、日本から岡田武松中央気象台長代理で関口鯉吉技師が出席しています。

ここで、国際極年の観測から50年後にあたる昭和7 年に第2 回国際極年の観測をすることが決議され、具体的計画を国際極年委員会で作ることになっています。

昭和5 年8 月にソビェト連邦のレニングラードで行われた国際極年委員会には、日本から関口鯉吉が出席し、観測期間は昭和7年8月1日から8年8月31日とするなど具体的な計画が練られています。

中央気象台では、樺太の豊原 (現ロシア,サハリン州ユジノサハリンスク)における地磁気観測、富士山頂における越年観測、飛行機による高層気象観測などを計画しています。

しかし、関口鯉吉が熱心だった飛行機による高層観測は予算が認められませんでした。

認められませんでしたが、多くの人々の善意で観測が行われます。

予算がないのに飛行機による高層気象観測

国際極年の観測だけでなく、その4年後に北海道でおきる皆既日食の観測も飛行機用いて行いたかった関口鯉吉は、実兄で静岡市で写真業を営んでいた加藤周蔵に話をします。

静岡中学の監督として大正15年夏の全国中等学校野球大会で優勝したことがある加藤周蔵は、静岡中学の同級生でともに野球部だった鈴木興平(県会議員で鈴与社長)が支援していた根岸錦蔵を紹介しています。

根岸錦蔵は、鈴木興平の援助で、静岡県三保飛行場を経営し、静岡県の委託で魚群探査事業をしていました。

予算がないが、頼むという関口鯉吉の依頼に対し、上京して岡田武松中央気象台長等と話し合った根岸錦蔵は、役人離れしていて気が合いそうだと快諾します。

高層気象観測事務ヲ嘱託ス。清水ニ従事スベシ

昭和7年6月17日

鈴木興平は、「学問の発展のために欧米列強と一緒になって観測を行うことは美挙である」として飛行機を買い与え、小倉石油社長の小倉常吉は必要なガソリンを寄付しています。

小倉常吉は日本橋にあった根岸錦蔵の実家の近所に住んでおり、子供の頃から知っていたという繋がりです。

こうして、予算はついていませんが、第2回国際極年観測を行うことを主要業務とした中央気象台三保臨時出張所の誕生です(図1)。

図1 三保飛行場における気象観測機
図1 三保飛行場における気象観測機

女満別気象台空港と流氷観測

国際極年観測の終了後、関口鯉吉は飛行機で皆既日食観測することを計画し、昭和9年春に海軍から13式艦上攻撃機の払い下げを受けます。

大正13年に海軍に採用された13式艦上攻撃機(全長10メートル、乗員2名、航続時間5時間)は、堅牢で多目的に使えたため、海軍でも長期間にわたって使われた機種ではあるのですが、払い下げ機はぼろぼろで、そのままでは使用できませんでした。

このため、2年間かけて大改修を行っています。

その間、昭和9年の夏にいろいろな気象災害が一度に起きます。

関西地方を襲った室戸台風による風水害、九州を中心とした西日本の干ばつ被害、そして、北日本の大冷害です。晩春から低温がちであった北日本は、夏になっても気温が上がらず、7月も8月も平年より2度以上低かったのです。このため北日本では東北地方の水稲の作況指教は61と大凶作となっています。

当時は、凶作の原因が流氷にあるのではないかと考えられており、オホーツク海及び千鳥近海の流氷の状態を飛行機で観測するという事業を計画されます。

そして、農林省委託として中央気象台が引き受け、関口鯉吉と根岸錦蔵は飛行場探しに北海道に出張し、女満別気象台空港(現在の女満別空港)ができています。

そして女満別気象台空港を使い、昭和10年3月23日から流氷観測が始まっています。

このことは、皆既日食を観測しようとしている関口鯉吉にとっても好都合でした。というのは、皆既日食の中心線は、オホーツク海沿岸を通るからです(図2)。

図2  昭和11年6月l9日の皆既日食(理科年表をもとに作図)
図2  昭和11年6月l9日の皆既日食(理科年表をもとに作図)

皆既日食の観測

皆既日食は、普段は太陽からの強い光にじゃまされて詳しい観測ができないことがいろいろと観測できますので、人工衛星が登場するまでは、地球学者にとって皆既日食は未知の現象解明の一大チャンスでした。

しかし、太陽と月と地球が一直線上に並ぶのは珍しいことですが、詳しい観測ができる、人々が生活している場所でとなると、めったに起きません。

また、晴れていなければ地上からの観測はできませんので、皆既日食がおきる地域に複数の観測隊を配置して、少しでも観測チャンスを増やそうということが行われました。

皆既日食のとき、飛行機があれば、全ての観測の代わりにはなりませんが、雲の上を飛んで観測することができます。

昭和11年6月19日の皆既日食は、晴天にも恵まれ大成功に終わります。

この時に、朝日新聞社が作成した「黒い太陽」は、皆既日食を完全にとらえ、20世紀を代表する短編ドキュメンタリー映画となっています(上映時間19分)。

関口鯉吉も、根岸錦蔵の努力で何とか飛行機を用いた観測を成功させています。

その後の皆既日食

昭和11年6月19日のオホーツク海沿岸地方での皆既日食の観測以降、日本で観測されたのは、23年後の昭和38年7月21日の北海道東部、さらに46年後の平成21年(2009年)7月22日のトカラ列島、さらに26年後の2035年9月2日の北陸・北関東ということになりますので、20から50年に1回の現象ということになります。

図の出典:饒村曜(2002)、多くの善意で始まった飛行機による海氷観測、海の気象、海洋気象学会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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