6月1日「気象記念日」気象神社は陸軍気象部内に創建 戦争中の気象業務
気象記念日に気象神社の例祭
東京都杉並区の氷川神社には、その境内に全国唯一の気象神社があります。
その主祭神は八意思兼命(ヤゴロモオモイカネノミコト)は、天照大神一家を助ける知恵の神で、天の岩戸隠れや天孫降臨の時に神々の諮問に応えた神です。
角度を変え立場を異にして思い(八意)、種々の結果を比較して総合して分別する(思兼)ということは、気象現象を解明するうえでの基本と同じことから祭神になったと思われます。
この気象神社の例祭は、毎年、気象記念日の6月1日に行われています。
6月1日の気象記念日を良き日とし、観測がうまくゆき、予報が全て的中するようにとの祝詞があげられますが、気象庁とは全く関係がありません。
関係があるのは、高円寺にあった陸軍気象部です。
陸軍気象部の気象神社
古来から戦争をするうえで、気象は利用するにしろ、避けるにしろ重要な情報でした。勝敗の帰趨を気象が決めた事例は数限りなくあります。
昭和12年(1937年)7月の盧溝橋事件をきっかけに始まった中国北支(現在の華北地方)での支那事変は、8月以降は中支(現在の華中地方)に飛び火し、日本と中華民国との全面戦争になっています。このため、作戦遂行のために気象技術を持った多数の人材が必要となり、昭和13年4月に陸軍気象部が発足しています。
陸軍気象部は、発足の翌年、昭和14年3月に東京都杉並区馬橋(現在の高円寺北)に移って本格的に、陸軍気象の中枢機関であると同時に、唯一の気象部隊幹部の教育・養成機関という役割を担います。
そして、昭和19年4月10日の気象部創立記念日に陸軍気象部内に気象神社が作られました。
陸軍気象部隊の展開兵力
陸軍気象史によると、太平洋戦争の陸軍の気象人員は、約2万7000人(将校約1700人)と推定され表のように、各地に派遣されています。
この表は、陸軍気象史(1986、陸軍気象戦友会協議会)をもとに作製したもので、表中の濠北はオーストラリア北方の意味です。
そして、第10野戦気象隊のうち第3中隊は沖縄に派遣され、損耗比率は100%、つまり、全員が死亡しています。
この他、ニューギニアに派遣された第12野戦気象隊の損耗比率76%、フィリピンに派遣された第22野戦気象隊の損耗比率70%など、激戦地を中心に、戦没者数の合計は約2000人となっています。
海軍にも気象台にも多くの気象人員
気象人員は、陸軍だけでなく、海軍にも、気象台にも数多くいました。
しかし、太平洋戦争末期になると熟練技術者の不足、器材の不足、陸海官気象業務の重複が問題になってきました。
このため陸軍は、昭和19年4月に陸海官の重複している業務を統括し、合同勤務に移行を提案していますが、この時は賛否相半ばして採用されませんでした。
しかし、昭和19年の秋、本土決戦の声も聞かれるようになったことから原案を中枢機関の合同勤務に修正して再提案され、中枢機関の合同勤務が決まっています。
陸密第四三四八号
軍事上必要ナル気象放送其ノ他気象業務ノ陸海官合同勤務実施ニ関スル件通牒
昭和十九年十月十二日 陸軍次官 印
中央気象台長殿
首題ノ件別紙要領ニ依リ来ル十月十五日以降実施相成度通牒ス
陸海官合同気象業務
陸海官合同気象業務が始まったのは、翌20年1月半ばです。
陸軍気象部は、中央気象台の業務課と無線課が入っていた建物を使用し、予報の現業室は中央気象台の元の図書庫の1階と2階に入りました。
海軍気象部は、中央気象台の敷地の中に建てて事務室とし、予報の現業室は中央気象台の元の図書庫の3階に入りました。
気象台の予報の現業室は、焼失した工場の2階を改造して使用しました。
つまり、合同勤務とはいえ、本質的なところは、別々に仕事をしていました。
しかし、昭和20年2月25日の東京大空襲で多くの建物が焼失すると、事務部門は疎開をよぎなくされ、各組織の予報の現業室は防弾建築と呼ばれた、分厚いコンクリートで覆われた部屋に集まりました。
つまり、ここから名実ともに陸海官合同の気象業務が始まっています。
軍の建物や機材が気象台へ
終戦後、気象台に移管された陸軍や海軍の建物や機材は少なくありません。
例えば、陸軍気象部の跡地と残った建物は中央気象台が引き継ぎ、昭和21年2月に中央気象台研究部ができています。研究部は、翌年4月には気象研究所と改称となり、昭和55年6月に筑波学園都市(現在地)に移転するまで、戦後の気象業務に対して様々な研究成果を出しています。
建物や機材だけでなく、陸軍や海軍の気象人員の一部も気象台に入り、ともに協力して、戦後の日本の防災業務を発展させてゆきます。
結果的に、陸海官合同気象業務がその出発点になったと思います。
気象台に勤務してまもない頃、先輩予報官の中には気象台出身者に混じって、軍出身者がいました。
私の直属の班長は、戦争中に防弾建築の中での予報業務を経験した人で、「隣接する皇居の門が空襲で燃えたとき、屋根に銅板が使われていたので綺麗な炎があがった」という話や、「夜食の時、陸軍も海軍も特色のある夜食を食べていたのに、気象台は何もなく惨めだった」という話を聞いたことがあります。
「食物の恨みは…」ということがあるかと思いますが、陸軍と海軍と気象台が協力して一つの仕事をしていたことには変わりがありません。
平和な時代だからこそ
気象部内に気象神社が奉祀された理由ははっきりしていませんが、科学部隊という性格を持つ陸軍気象部に精神的な拠り所となることを意図していたのではないかと考える人がいます。
つまり、陸軍気象部は、ややアカデミックなところがあり、血気盛んな現役将校からは冷ややかな目で見られていたからという考えです。
終戦となり、連合軍によって直ちに行われた神道指令に拠り多くの神社が除却されていますが、気象神社は当局の調査漏れのため除去をまぬがれています。
このため、第三気象連帯戦友会等が連合軍宗教調査局に申請して払い下げを受け、昭和23年9月18日、近くにある氷川神社の例大祭の日に氷川神社へ遷座となっています。
そして、翌年から気象記念日の日に例祭が行われています。
最近の気象神社は、気象予報士という合格率4%の国家資格を目指す人たちのお参りが増えています。
そして、絵馬を奉納するのですが、その絵馬は下駄の形をしています。
下駄を投げて天気を予報するということではなく、種々の観測結果や予報結果を比較し、総合判断して天気予報を出すという、八意思兼命にあやかりたいということではないかと思います。