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今年は暑い夏の予報 季節予報は日本の食糧危機を防ぐため東北地方の冷害対策から始まった

饒村曜気象予報士
春の水田(ペイレスイメージズ/アフロ)

気象庁では、次の4種類の季節予報(長期予報)を発表しています。

1ヶ月予報(毎週木曜日の14時30分に発表)

3ヶ月予報(毎月25日頃の14時に発表)

暖候期予報(毎年2月25日頃の14時に発表)

寒候期予報(毎年9月25日頃の14時に発表)

今年の晩春から初夏

4月25日に気象庁が発表した3か月予報によると、

5 月~7 月は、全国的に暖かい空気に覆われやすく、向こう3か月の気温は平年並か高い見込みです。

西日本太平洋側では、前線や南からの湿った気流の影響で、向こう3か月の降水量は平年並か多い見込みです。

となっています。

上空の偏西風は日本付近から日本の東にかけて平年よりやや南を流れる見込みであることから、太平洋高気圧は、日本の南で西への張り出しが強い一方、北への張り出しは 弱いという予報です。そして、西日本の太平洋側を中心に南から湿った空気が流れ込みやすいので、梅雨の大雨に注意ということを示唆する予報です(図1)。

また、今年も台風1号の発生が遅い年となりましたが、太平洋西部では平年より南で積乱雲の発生が多いとなっています。台風の卵の発生が平年より南になることから、日本へどの程度まで影響するのかが気になります。

図1 5から7月の3ヶ月予報の説明図
図1 5から7月の3ヶ月予報の説明図

このように、今年の夏は暑い予報ですが、季節予報が始まったのは、太平洋戦争中の東北地方に対してであり、日本の食糧危機に直結する冷夏対策のためです。

最初の季節予報

季節予報が始まったのは、太平洋戦争で日本軍が快進撃中の昭和17年4月12日です。

中央気象台(現在の気象庁)が東北地方を対象に季節予報を発表しました。

そして、太平洋戦争末期の昭和20年2月9日、中央気象台では業務部に長期予報課を設置し、本格的な長期予報の発表を目指しています。そして、長期予報の最初のターゲットとなったのは、長年にわたって冷害で苦しめられてきた東北地方でした。日本にとって、ここでの米の作況が大きな影響を与えるからです。

長期予報課には、北方予報係、季節予報係、旬日予報係、南方予報係、調査係が置かれました。そして、梅雨特別予報を4月20日、5月20日、6月25日の3回にわたって、季節予報の号外として発表しました。

しかし、戦争中という乏しい人材や資材の中では、当てようという技術以前の問題でした。

この時期、中央気象台の中では、一般には発表されていないものの日々の天気予報が軍中心で行われていましたので、長期予報は気象台独自で研究できる数少ない仕事でした。

「気候の長期予報」で食料確保

いま最も大切な問題は食料確保にあることは今改めて申すまでもない。今日、米、野菜その他の食料は相当窮屈であるが、もし一朝、内外地なり満州なりが甚だしい不調の天候に襲われることがあるならば実に寒心にたえぬものがあろう。…長期の予報が出来さえすればこれに対応してその年の気候に対し最多の生産を挙げ得るのである。…今日の急務は従来から研究されつつある気候の長期予報に対し、更に拍車をかけ急速にこれを闡明し、農業ひいては水産にも応用し、またこれを外地満州まで及ぼすならば、食料増産は莫大で幾十百年の長期戦にも食料の安全を確保し得る事易々たるものがあらう。我等はその専修の気象学者、農学者に期待するところ甚だ大きいのである。

出典:昭和19年6月28日 朝日新聞朝刊

終戦直後の餓死の危険

太平洋戦争が終わり、満洲と朝鮮、台湾を放棄した日本にとっては、東北地方の冷害は飢餓に直結する深刻な問題となります。

昭和20年11月には真冬の季節予報を発表し、12月16日から1か月予報、翌21年1月6日から3ヵ月予報のラジオ放送が始まるなど、長期予報は期待を持って国民に受け入れられました。

昭和20年は、終戦の日の8月15日が晴れて暑かったとドラマ等で繰り返されるために暑い夏との印象がありますが、この年は冷夏の年です。

北日本を中心に大規模な冷害が顕著で、西日本は秋に枕崎台風や阿久根台風によって大規模な水害がおきています。

戦争が続いたとしても食料難で戦えないという惨憺たる年です。

このため、著しい米不足がおきており、米の出荷が最も盛んになる12月上旬の時点でも、全国平均で必要量の1割程度しか集まっていません。一番多く集まった新潟県でも49%と約半分であり、北海道ではわずか1%です。

東京や大阪など大消費地の逼迫は深刻で、東京や京都では米のストックが5日分と綱渡り状態になっています。

また、米だけでなく、漁船も燃料もないために漁がができず、魚がとれてもそれを消費地に輸送する手段がないなどから、あらゆる食料が大都市を中心に大きく不足していました。

昭和21年1月4日には政府の閣僚懇談会で、当面の食料対策を話し合っていますが、戦争直後で外国からの援助は全く期待できず、戦費で国庫は空っぽで輸入もできず、農家でさえ米の在庫が少ないなかで、もっと農家から供出させるとった対策しかとれなませんでした。

もし、昭和21年も冷夏で米の出来が悪いとなると、多数の餓死者がでるという最悪のシナリオが想定されていました。

餓死の心配と戦後初の海の観測

中央気象台が戦後初めて行った観測は、昭和21年4月の2週間にわたる三陸沖の観測で、この年の東北地方の冷害予想の資料とするためにものです。

昭和21年4月15日の朝日新聞では、紙の表裏の2面しかないなかで、「凌風丸(観測指導者は海洋課の竹内能忠)が今年の三陸沿岸の産業気象予想に視するため、青森県鮫角岬(さめかどみさき)沖から千葉県犬吠埼沖までを2週間かけて観測するため、16日に東京港を出港」という記事を報じています。)。

図2 昭和21年4月15日の朝日新聞朝刊
図2 昭和21年4月15日の朝日新聞朝刊

これは、東北地方が冷夏になるかどうかは、日本の一大関心事であったことの反映で、季節予報に対する国民の関心は高いものがありました。

農林省と中央気象台が協力し、夏の作柄を予想するための「産業気象談話会」ができ、中央気象台が昭和21年の悪鬼海面水温予想を発表したのもこの頃です。

季節予報の精度は散々

当時の季節予報の手法は、周期性外装法と呼ばれた方法くらいしかありませんでした。

これは、大雑把に言えば、過去の天気の周期をそのまま延長したもので、精度は高くありません。国民の期待と予報技術が大きく離れていました。

そして、低温を予報した昭和24年の冬は暖冬となり、マスコミ等では大きく批判されました。このため、長期予報課は廃止となり、季節予報は、気象庁の中で細々と研究を続ける冬の時代に入っています。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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