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地震・津波・暴風被害を受けた中での交渉で、平和裡に日本領となった北方四島

饒村曜気象予報士
千島列島(写真:アフロ)

ロシアのプーチン大統領が来日し、安倍晋三首相の地元である山口県で日露首脳会談が行われます。

西高東低の冬型の気圧配置となっていますが、西日本を中心に寒気が南下していますので、等圧線の間隔は西日本で狭くなっています(図1)。つまり、強い北風が吹く風寒さのなかでの日露首脳会談です。

図1 予想天気気図(12月16日9時の予想)
図1 予想天気気図(12月16日9時の予想)

会談では、北方領土問題に関心が集まり、厳しい交渉と言われていますが、この北方領土は、162年前の安政地震とそれに伴う津波と、その後におきた暴風被害を受けた中での交渉で、嘉永7年12月21日(1855年2月7日、以下カッコ内の日付以外は旧歴)に成立した「日露和親条約」によって、平和裡に日本領となったものです。

日露和親条約

嘉永7年は12月21日(1855年2月7日、以下カッコ内の日付以外は旧歴)に日露和親条約が結ばれます。

条約交渉はオランダ語で行われ、オランダ語・ロシア語条文から日本語・中国語条文が翻訳され、その中で、千島列島(クリル諸島)のウルップ島以北はロシア領、択捉島(ヱトロプ島)以南は日本領となっています。また、樺太島については交渉がまとまらず、従来通り、両国民が共存するとしています(図2)。

図2 日露和親条約の写(国会図書館ホームページより)
図2 日露和親条約の写(国会図書館ホームページより)

つまり、日露和親条約によって、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島が正式に日本領となったわけです。このため、日露和親条約が締結された2月7日(新暦)が、昭和56年に定められた「北方領土の日」です。

なお、日本とロシア間の樺太国境の問題については、明治維新後の明治8年(1875年)5月7日の樺太・千島交換条約によって、千島列島の島々が日本領、樺太島全島がロシア領として決着しています。

その後、日露戦争で樺太の北緯50度以南が日本領になりましたが、太平洋戦争末期の昭和20年8月9日にロシアから変わっていたソビエト連邦が日ソ中立条約を破って参戦し、日本は樺太と千島列島を失っています。ソビエト連邦が北方領土を占領したのは、日本がポツダム宣言を受諾した8月15日より後の8月28日~9月5日です。

今より後日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島と ウルップ島との間に在るへし ヱトロプ全島は日本に属し ウルップ全島夫より北の方クリル諸島は魯西亜に属す カラフト島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす 是まて仕来の通たるへし

出典:日露和親条約の一部(日本語)

幾多の困難のなかでのロシアとの和親条約

徳川家慶死去を香港で聞いたアメリカのマシュー・ペリーは、国勢の混乱をつき、幕府に開国の決断を迫るために1年後に再来日するという約束を破り、半年後の嘉永7年1月に再来航します。

江戸湾に9隻のアメリカ艦隊が睨みをきかしての交渉の結果、3月3日にペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(現横浜市)に上陸し、日本は下田(現静岡県下田市)と箱館(現北海道函館市)を開港するという日米和親条約(神奈川条約)が締結されています。ここで徳川家光以来200年以上続いた鎖国が終わっています。

イギリスも8月23日に日英和親条約を結びますが、その当時、ロシアとはクリミヤ戦争で戦っていました。

クリミア戦争は赤十字、カーディガンだけでなく、天気図を作って警報を発表するという業務のきっかけとなった戦争です

日本は、「イギリスとロシアとの戦争は日本と全く関係がないので、戦争目的のために港は開かない、日本の港や近海での交戦は許さない」という条件をつけての条約締結です。

クリミア戦争をイギリスと戦っているロシアのエフィム・プチャーチンもイギリスの目を避けながら交渉を行い、12月21日に伊豆の下田で日露和親条約を結びます。

それも、11月4日の安政東海地震の津波によって下田が大きな被害を出した直後で、プチャーチンの乗ってきたディアナ号は、繰り返し襲う最大6m以上の津波で大破しています。

安政東海地震は嘉永7年11月4日辰下刻(1854年12月23日午前8~9時)に発生したマグニチュード8.4の地震で、被害は関東から近畿地方に及び、全国の死者は2000~3000名と言われています。震源地は駿河湾から熊野灘で、山梨県西部から静岡県では震度7と推定される激しい揺れで、房総半島から四国まで大きな津波が発生しました。

このため、イギリスの目を避けて伊豆国の君沢郡戸田(へだ)村(現在の沼津市)でディアナ号を修理することになるのですが、曳航中の11月27日、暴風により宮島村(現在の富士市)沖で座礁、その後沈没しています。

冬の太平洋側で南西の暴風で北に流されて座礁ということから、南岸低気圧が発達して通過したのではないかと思います。南岸低気圧は、数日待てば通過して冬型の気圧配置になりますので、遭難せずに戸田村に向かえたと思いますが、数日を待てなかったのかもしれません。

なお、沈没したディアナ号の高さ4メートル、重さ3トンという巨大な錨は、昭和29年(1954年)に引き上げられたものが沼津市戸田の造船郷土資料博物館前に、昭和51年に引き上げられたものが富土市三四軒屋の緑道公団(通称「錨公園」)に展示されています。

日本初の本格的な西洋船

アメリカの武力をちらつかせての交渉とは違い、ロシアは自分たちの乗ってきた船がなくなったなかでの交渉です。そして、日本に近代造船技術を伝授し、日本の造船大国はここから始まっています

ディアナ号を修理する予定の戸田村には、幕府の許可のもと船大工等が集められ、ロシア人の指導の下で3ヵ月の突貫工事が行われています。できたのが全長25mの木造様式の帆船で、プチャーチンは「へだ号」と名付けています。

「へだ号」は、ディアナ号よりかなり小さい船でしたが、これが日本初建造の本格的な西洋船です。プチャーチン等はこれに乗って帰国し、後に「へだ号」はロシアから幕府に献上となります。

「へだ号」は堅牢で操船が容易と評判になり、はからずも近代造船技術を身につけた戸田の船大工たちが、戸田村だけでなく、江戸石川島をはじめ、各地で「へだ号」と同様の船、つまり、君沢形と呼ばれる船をつくります。明治初期の沿岸航路の商船は、君沢形が花形でした。

船大工の棟梁であった上田寅吉は、「へだ号」の功績で名字帯刀を許され、長崎にできた幕府の海軍伝習所の一期生として入学を許され、のちに横須賀海軍工廠の初代所長となって数々の軍艦建造に携わっています。

安政東海地震の次の東海地震は

日本周辺では繰り返し巨大地震が発生しています。その繰り返しの周期は、私たちの世の中の変化より、はるかに長いものです。

震源地が東海地震より西側の紀伊半島から土佐沖が震源地の南海地震は、東海地震と同時発生、あるいは連動して発生しています。

事実、安政東海地震の32時間後に安政南海地震が発生しています。

浜口義兵衛が積んである稲束に火をつけて村人を助けたという「稲むらの火」の話で有名になった安政南海地震です。

安政東海地震以降、日本の歴史の中ではいろいろなことが起こり、激動の時代が続いて世の中は様変わりしています。

その後、安政東海地震・南海地震の92年後の昭和21年12月21日に南海地震が発生しましたが、162年後の現在も東海地震は発生していません。

日頃の備えと常に新しい情報入手が大事ですが、地震や津波に対する警戒は、自分たちの代だけでなく、孫子の代まで続けてゆくかないと、役立ちません。

このため、長く続けることを主眼に考えたイベントがあります。

例えば、津波被害を忘れないため、津波対策推進法で「津波防災の日(11月5日)」が作られていますが、この「津波防災の日」を広く知ってもらおう、自然災害から身を守る知識を身につけようと、お天気キャスターの森田正光さんの呼びかけで、各局で活躍中の気象キャスターが集まってのトークイベントです。安政南海地震のあった安政元年11月5日(1854年12月24日)の旧暦と新暦の日付から、開催日は11月5日から12月24日までの間で、気象キャスターが集まりやすい日です。

集まりやすい日のトークイベントということで、東日本大震災があった平成23年から続いています(6回目の今年は12月22日に開催)。

何事も長続きさせること、そして、過去を忘れず将来に活かすことは、防災も領土問題も同じと思います。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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