余震が長引くなら疎開も選択肢 阪神・淡路大震災の体験と熊本地震
多い地震回数
熊本地震以降、大きな地震が続いています。
大きな地震が発生すると、その後はしばらくは余震が続くのですが、次第にその回数は減り、累計のグラフは次第に横ばいになってゆきます。
しかし、前震としては異例の強さだった熊本地震は、二段階で余震回数が増えています。
地震発生回数は、平成7年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)ペースで累計されていましたが、本震以降はこれを上回り、過去最大だった平成16年の新潟県中越地震の回数を上回っています(図1、気象庁HPより)。
阪神・淡路大震災での母と子の疎開
いろいろな問題は、地震直後より地震後しばらくたってから起きます。
地震後、しばらくたつと子供のいる家庭では、続々と実家や親戚宅等に母と子の疎開が始まっています。兵庫県調べで避難所のピークは、阪神・淡路大震災の発生した1月17日の1週間後、1月24日の1138か所30万7022人ですが、その多くは学校でした。このため多くの学校は被災者であふれ、授業がいつ再開できるか分からなくなっていることもあり、母と子の疎開が始まっています。
図2は、北海道から沖縄までの全国の国公立学校に転校した子供の数の推移で、新聞記事から作成したものです。2月14日には2万6000人以上に達していますが、授業が再開するにつれ、疎開した子供の数が減っています。神戸市内の全校で授業が再開した2月24日でも2万人を超えています。
疎開してもしなくても、子供たちに震災ストレスに対する心理ケアが必要と言われていましたが、このようなマイナス面だけでなく、1か月位たつと、全国の地元紙や地元テレビ局を中心として疎開した子供たちが、そこで暖かく迎えられ、新しい友達ができたということが報じられました。
職場の神戸海洋気象台でも同じでした。地震直後は、水や電気が止まって生活が不自由なことや、付近の建造物等が倒れる等の危険を避けるため、小さな子供のいる家庭では、親戚や知人宅へ続々と疎開を始めました。
何人もの職員が家族を疎開先まで送り届けていますが、家族を心配しつつ勤務しなくてよくなったせいと思うが、帰ってきた時には一様に表情が明るくなっているのが印象に残っています。
そして、神戸に残った職員は、学生時代の合宿のように、気象台に皆で寝泊りし、当番を決めた共同炊事をしていましたので、疎開した家族の方も、職員に対する心配が軽減されていたのではないかと思います。
被災地の防災担当者の家族
ある職員が、地震におびえる家族に対して
「確認したら、ここは安全だから絶対にここから動くな。職場にいる同僚は、家族を心配しながら勤務しているだろう。こんな時だから、すぐに行ってやらねばならないんだ。」
また小さな子供に、
「ごはんを食べられるのは、お父さんがこんな時に皆のために大事な仕事をするからだよ。さびしいかもしれないけど頑張ってね。」といって急いで駆けつけたといいます。
小さな子供に、働く父親の姿を見せられたのは、最高の教育だったと思いますが、当事者としては必死で、それどころではなかったと思います。
「お父さんの仕事が役に立っていると言われ、家族から見直された」と言う話も聞きました。災害時の心細さはあったと思いますが、世の中に役立つ仕事をして欲しいと職場に送り出してくれた家族の重い思いがあったのかと思います。
このようなことが、熊本県のいたるところで起こっていると思います。
地震での被災者のことが多く報道されますが、活動している自治体等の担当者自身も被災者です。被災した家族をかかえて、防災対応をしていることを考えるべきと思います。
可能ならば疎開も選択肢の一つ
阪神・淡路大震災とは事情が違いますが、余震が続いてふだん通りの生活が出来ず、不安になっている人で、可能ならば一時的に疎開するという選択肢もあると思います。
ボランティアに対して、安全などの面から自粛が呼びかけられていますが、ボランティアをするのは、熊本にゆかなくても、余震におびえる子供やお年寄りの一時的な疎開を助けるというボランティアもあるかと思います。
図2の出展:饒村曜(1996)、防災担当者の見た阪神・淡路大震災、日本気象協会。