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気象技術者育成のため、昭和13年に発足した陸軍気象部は合理的な教育と気象神社

饒村曜気象予報士
天気予報(提供:アフロ)

平成28年1月31日に行われた、第45回気象予報士試験の合格発表が、3月の第2金曜日(今年は11日)にあり、130名が合格しました。合格率は4.5%です。

これまでの合格率が5.6%となっているのは、気象予報士試験が始まった頃の合格率が高いためで、最近は4から5%で推移し、非常に狭き門です。

合格者は気象予報士となる資格を有しますが、そのまま気象予報士誕生ではありません。

気象予報士となる資格を有する者が気象予報士となるには、気象庁長官の登録が必要です。

登録を受ける制限はなく、合格後であればいつでも登録できます。

登録には年齢に関する制限事項はありませんので、小学生でも気象予報士になることができます。

ちなみに、男性最年少は12才と11か月、女性最年少は13才と8か月です。

図 気象予報士試験の受験者と合格者の推移
図 気象予報士試験の受験者と合格者の推移

平和な時代の気象技術者の誕生ですが、かっては、戦争遂行のために多くの気象技術者を養成していた時代がありました。

陸軍気象部が高円寺へ

古来から戦争をするうえで、気象は利用するにしろ、避けるにしろ重要な情報でした。勝敗の帰趨を気象が決めた事例は数限りなくあります。

昭和12年7月の盧溝橋事件をきっかけに始まった中国北支(現在の華北地方)での支那事変は、8月以降は中支(現在の華中地方)に飛び火し、日本と中華民国との全面戦争になっています。このため、作戦遂行のために気象技術を持った多数の人材が必要になってきました。

このため、昭和13年4月に陸軍砲工学校内に設けられた気象部を独立させ、陸軍気象部が発足しています。

陸軍気象部は、発足の翌年、昭和14年3月に東京都杉並区馬橋(現在の高円寺北)に移って本格的に、陸軍気象の中枢機関であると同時に、唯一の気象部隊幹部の教育・養成機関という役割を担います。

ただ、陸軍気象部は制度上、陸軍官衙(りくぐんかんが、陸軍の作った役所)であったことから、軍属(軍人以外で軍隊に属する人)や、暗号で行き交っていた気象電報の解読などのため多数の若い女子雇用員が勤務していました。

このため、他の軍隊内の教育機関とは雰囲気がまるで違ったといわれています。

英語の教科書で勉強

気象部隊幹部の教育・養成には、中央気象台の技官や大学教授らが最新のテキストを用いて授業をしています。

気象教育の内容は基本となる気象学全般に、砲兵気象や航空気象など各種の軍用気象や各種気象機材の取り扱いなど多岐にわたっていました。

使われていた教科書の中には、ノルウェーの気象学者Sペターセンが著した天気予報の教科書があります。

英語が敵性語として禁止となった世の中ですが、近代的な天気図解析や天気予報の発展に大きな影響を与えた名著をいち早く英語で学んでいたのです。

支那事変から太平洋戦争となり、多くの卒業生が戦死しましたが、生き残った人々は気象庁や民間気象会社などで活躍されましたが、多くの同期会が作られ、活動しています。

団結が強いと言われているのは、ここでの教育が、軍隊生活の中で特異であったからと言う人もいます。

科学部隊のために精神的な拠り所

気象部内に気象神社が奉祀され理由ははっきりしていませんが、科学部隊という性格を持つ陸軍気象部に精神的な拠り所となることを意図していたのではないかと考える人がいます。陸軍気象部は、ややアカデミックがところがあり、血気盛んな現役将校からは冷ややかな目で見られていたからです。

昭和19年4月10日の気象部創立記念日に遷座祭が行われた気象神社は、伊勢の外宮に倣った素木の神明造りで、専門の宮大工が作った本格的なものでした。

正門を入ってすぐ右手の桜の木の近くにあった気象神社は、一年後の昭和20年4月13日の東京大空襲で陸軍気象部が被災したときに消失しています。

そして、社殿は終戦直前に急濾再建されています。

終戦となり、連合軍によって直ちに行われた神道指令に拠り多くの神社が除却されていますが、気象神社は当局の調査漏れのため除去をまぬがれています。

このため、第三気象連帯戦友会等が連合軍宗教調査局に申請して払い下げを受け、昭和23年9月18日、近くにある氷川神社の例大祭の日に氷川神社へ遷座となっています。

氷川神社の宮司と、戦友会の人々の尽力がなければ、気象神社はそのまま消滅していました。

以後、毎年6月1日の気象記念日に例祭が斎行されています。写真は平成10年6月1日の例祭の時のもので、社殿は立替前のものです。

写真 気象神社例祭(1998年6月1日)
写真 気象神社例祭(1998年6月1日)

陸軍気象部の跡地は気象研究所に

戦後、陸軍気象部の跡地と残った建物は中央気象台が引き継ぎ、昭和21年2月に中央気象台研究部ができます。翌年4月には気象研究所と改称となり、昭和55年6月に筑波学園都市(現在地)に移転するまで、戦後の気象業務に対して様々な研究成果を出しています。

現在の気象神社は、戦争中に作られたものではなく、その後再建されたものです。

長いこと気象神社に携わってきた戦友会は、長い年月の間に多くの人が鬼籍に入ったことから、残っていた活動費のすべてを氷川神社に託して、手を引いています。

平和な時代だからこそ

気象神社の絵馬は下駄の形をしています。最近は気象予報士という合格率4~5%の国家資格を目指す人たちのお参りが増えています。

祭神は八意思兼命で、天照大神一家を助ける知恵の神、思慮分別の神で、天の岩戸隠れや天孫降臨の時に神々の諮問に応えた神です。

全国でこの神を祭った神社は、戸隠神社(天照大神が二度と隠れないように天の岩戸を隠した場所から戸隠の名称となっている)や秩父神社など、それほど多くはありません。角度を変え立場を異にして思い(八意)、種々の結果を比較して総合して分別する(思兼)ということは、気象現象を解明するうえでの基本と同じです。数値予報などの気象資料を用いて総合判断する気象予報士の仕事に通じるものがあります。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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