ジェット気流の発見は空襲をしたアメリカの爆撃機ではなく日本の風船

バンザイクリフの波(写真:アフロ)

太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)7月7日、アメリカ軍の物量作戦によってサイパン島の日本軍が全滅しています。

アメリカ軍は、戦闘が完全に終わるまえから日本軍が作った飛行場の拡張工事を初めていますが、サイパンにある飛行場の戦略的な意味を考えてのことです。

アメリカの最新鋭の戦略爆撃機B29は、日本の戦闘機が能力を発揮できない高い高度を飛行することができ、その航続距離は6600キロメートル(7トンの爆弾を積載したとき)ですので、サイパン島の飛行場から、ほとんどの日本の工業地帯を空襲することができたからです。

サイパン島には100機以上のB29が集結し、昭和19年11月24日から東京などの空襲が始まっています。

アメリカにとって意外だったジェット気流との遭遇

空襲のため飛来するB29による気象観測によって、自国民を自然の猛威にさらしてまで実施している日本の気象報道管制は意味をなさなくなっています。日本から気象観測データが入手できなくても、自ら観測して把握することができたからです。

ただ、日本上空で非常に強い風にたびたび遭遇したことは意外な出来事でした。これまでの常識では考えられないほどの強い風が吹いいることがわかり、それをジェット気流を名づけて精力的に研究が進められました。

このため、長い間ジェット気流は、「太平洋戦争中、B 29による日本爆撃の際に発見された」と言われていました。

しかし、日本ではジェット気流の存在をすでに知っており、ジェット気流に風船爆弾を運ばせアメリカ本土の爆撃を計画・実行していました。ジェット気流はB29が発見したのではないのです。

時は流れ、平成15年(2003年)、アメリカのルイス(Lewis)が、世界中から多くの資料を集めて大掛かりな調査を行い、日本語で書かれた報告(図1)を引用するなどして、ジェット気流の最初の発見者は日本の大石和三郎であると、アメリカ気象学会の機関誌に発表しています。

図1 高層気象台概報第16号(大正13年12月上旬)に掲載された最初のジェット気流報告
図1 高層気象台概報第16号(大正13年12月上旬)に掲載された最初のジェット気流報告

ジェット気流の発見者・大石和三郎

大正9年(1920年)8月、茨城県つくば市に高層大気を専門に観測する気象台として、高層気象台ができました。その初代台長であったのが気象学者の大石和三郎です。

大正から昭和初期の高層風の観測は、水素を詰めた風船(気球)を飛ばして、その軌跡を基準となる石の台座の上に固定した経緯儀で追跡して風速を求めるという方法でした。現在、石の台座の上には、銅製のプレートが置かれています(図2)。プレートに書かれた英文の最初の単語をPioneering と現在分詞にしたのは、過去の栄光だけでなく、我々は現在もその心意気を持って仕事をしているということの表明です。

図2 高層気象台に残されている測定のための経緯儀を置いた石の台に取り付けられたプレート
図2 高層気象台に残されている測定のための経緯儀を置いた石の台に取り付けられたプレート

大石は高層気象台をあげて観測を行い、1924年7月からガリ版刷の「高層気象台概報」を発行しました。この中に、ルイスが引用した1924年12月2日10時の観測の報告が載せられています。また、1926年10月にエスペラント語で高層気象台報告を創刊し、諸外国に配りましたが、観測チームの報告は全く無視されていました。

 当時の気象学者達は、「10キロ位の上空では、毎秒約数~十数メートルの弱い風しか吹いていない」と考えており、観測チームの観測結果は誤りだと思われていたのでしょう。しかし大石らは、これにもめげずに観測を続け、冬季の日本上空における非常に強い風についての多くの知見を得ます。

しかし、これらは次第に軍事機密と密接に関係し、関係者以外には知られなくなっていきます。また、風船爆弾に関係したこともあり、戦後になっても大石和三郎の業績は広く知られることはありませんでした。

世界各国が協力して未知の現象を解明しようとする試みは、平和な時代だからこそできることです。その中から、大石和三郎の業績が正しく評価されたのです。

図の出典:饒村曜(2014)、天気と気象100、オーム社。