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明治3年11月11日完成の神子元島灯台は、測候所と同様の観測通報を行って暴風警報発表に貢献

饒村曜気象予報士
神子元島の観測値が記入されている明治20年10月8日午後2時(京都時)の天気図

近代日本の灯台の歴史は、徳川幕府が開国に伴って,慶応2年(1866年)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4か国と結んだ「江戸条約」によって8つの灯台(観音崎、神子元島(みこもとじま)、樫野埼、剣埼、野島埼、潮岬、伊王島、佐多岬)の建設を約束したことに始まっています。このうち、神子元島灯台は、測候所と同様の観測通報を行い、天気図に記入されて暴風警報発表に貢献しています。

盛大な神子元島の灯台点灯式

図1 石造りの神子元灯台
図1 石造りの神子元灯台
図2 神子元島の位置
図2 神子元島の位置

神子元島(みこもとじま)は、伊豆半島先端の下田の南沖約9キロメートルにある、周囲2キロメートルの溶岩でできた無人島です。神子元島近海は、古くから「海の墓場」と呼ばれた航海の難所でした。

明治3年11月11日(1871年1月1日)に完成した、石造りの神子元島灯台の点灯式には、太政大臣三条実美、参議大隈重信、大久保利通、英国公使ハリス・S・パークスなどの要人が列席し、明治政府の期待の高さがしのばれま。そして、続々と誕生する洋式灯台が日本海運の隆盛を支えています。

地理局から燈台局へ気象報と暴風報告の提供依頼

組織的に気象観測を電報で集めれば、暴風雨が予知できるのではないかということがわかり始めると、日本政府にこれを建白する外国人が出始めました。その中の一人が、E.クニッピングで、明治15年1月に地理局の東京気象台(現在の気象庁)に雇われています。約2か月後の3月10日に、燈台局長に対して,気象報及び暴風報告の提供を求めています。全国の気象台等だけでは十分な調査ができないためですが、郵送での提供であり、即時利用はできませんでした。

測候所と同じ扱いだった神子元燈台

E.クニッピングは,暴風警報を実施するために必要な測候所の配置計画を検討し、8つの測候所を増設しています。その8番目の宮古測候所が開設され、必要と考えられた24測候所が揃った明治16年3月1日、東京気象台では正式に気象電報で観測値を集めて天気図を作り、暴風警報業務をスタートさせています。

表1 明冶20年10月8日の神手元燈台の観測
表1 明冶20年10月8日の神手元燈台の観測
表2 昭和初期に用いられた風速の区分(簡便化されたビューフォーと階級)
表2 昭和初期に用いられた風速の区分(簡便化されたビューフォーと階級)

その後、東京気象台は中央気象台に組織替えなりますが、灯台の気象観測が電報で中央気象台東京気象台に送られ、天気予報に使われるようになったのは、明治20年8月23日からです。

伊豆下田と神手元島の間に電話が通じるようになったことから、神子元島燈台の観測データは中央気象台に送られ、毎日発行していた印刷天気図に記載されています。つまり、神子元燈台の観測データは、やっと29に増えた測候所等の観測データと同じように使われていたのです。神子元燈台は、付近の船舶だけでなく、暴風警報を発表する30の観測所の一つとして、日本近海の船舶に対しても、海難防止に役立っていたのです。

若山牧水が訪ねた神子元島

大正2年(1913年)10月、漂泊の詩人・若山牧水が,早稲田大学時代の友人が燈台守をしていた神子元島を、1週間ほど燈台補給船を使って訪ねています。結婚してまもない燈台守の夫人のために、東京からダリアの花束を土産にしており、そのときの様子を次のように詠っています。

その窓に わかたずさえし 花を活け 客をよろこぶ その若き妻(牧水)

牧水は、このとき、友人から燈台守になることを進められ、生活の安定や時間の余裕があることなどを考えて、かなり迷ったと後で述べています。この年の4月に長男・旅人が生まれ、6月に長男と妻・喜志子を長野から東京に呼び寄せていたからですが、結局は漂泊の詩人の道を選んでいます。

神子元島が見える下田市須崎の恵比寿島に昭和55年(1980年)に造られた歌碑に刻まれているのは、次の歌です。

友が守る 燈台はあはれ わだ中の 蟹めく岩に 白く立ち居り(牧水)

現在の神子元島灯台

神子元燈台は、日本に現存する最古の石造り燈台で、平成9年(1997年)に国際航路標識協会(IALA)が世界における歴史的価値の高い燈台100選の一つに選んでいます。

平成12年に、海上保安庁では神子元燈台の電源を太陽光と風力を複合して利用するハイブリッド方式発電を採用することとともに、完成直後から昭和51(1976)年まで島唯一の住人である「燈台守」一家が住んでいた事務所棟などを明治初期の建設当初の姿に復元しています。

灯台は明治初期から現在まで、周辺を照らすだけでなく、気象観測を行って暴風警報の発表に貢献するとことで船舶の安全航行に寄与しています。

図1、表の出典:饒村曜(2002)、明治の気象業務に重要な役割をした燈台での気象観測、雑誌「気象」3月号、日本気象協会。

図2の出典:饒村曜(2010)、静岡の地震と気象のうんちく、静岡新聞社。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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